ネット版「Д文学通信」16号(通算1446号)岩崎純一「絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘 ──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──」(連載第12回)

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ネット版「Д文学通信」16号(通算1446号)           2021年11月21日

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「Д文学通信」   ドストエフスキー&宮沢賢 治:研究情報ミニコミ

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連載 第12回

絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘

──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──

 

岩崎純一日大芸術学部非常勤講師)

 

四、西洋の絶対者(ユダヤキリスト教の神)と群衆道徳 ニーチェの亡霊と共に

 

西洋哲学の根本 方程式「始原の存在=プラトニズムのイデアキリスト教唯一神」としての絶対者の自明性

 

 私自身は、先に書いたように「日本的なるもの」の申し子を自認している。だから、日本がキリスト教国家にならないように国家運営をし、雑多な神仏を取り込んだままの国体を護持することは、国際舞台での発言権を持たない世界の多神教少数民族国家、最近では中国国内で共産党の圧政下にある多数の少数民族のためにも、日本の使命であると考える。(日本におけるキリスト教徒の人口からして、キリスト教国家になることは、まだ現実的に考えられないが。)

 それにしても、なぜ一神教のうち、キリスト教国とキリスト教道徳のみが科学文明を急発展させ富裕国・先進国となることができる法則がこの惑星にあるのか、学者たちが各々勝手に論じてきた。結局源流は、良くも悪くもギリシャ神話とユダヤ教の結託、プラトニズムと原始キリスト教ユダヤ教イエス・キリスト派)の結託にある。

 私はとりわけ、宗教の発祥を見る際には、哲学よりは今西錦司梅棹忠夫らの生態学文化人類学寄り、あるいはマックス・ウェーバーのような社会学寄りの思索に身を置いてきたが、要するにイデア思想と一神教の結託欲求、そして自ら決めた倫理道徳の世界普及願望は、西洋白人の「生態」であると私は考えている。

 ホワイトヘッドは『過程と実在』の中で、「ヨーロッパの哲学伝統の最も安全な一般的性格づけは、それがプラトンについての一連の脚注からなっているということである」と述べた(『過程と実在』上 六六頁)。一見その通りだが、これを鵜呑みにすることは難しい。ホワイトヘッドはむしろ、「西洋哲学はプラトニズムに束縛されてきた」のでなく、「プラトニズムが西洋哲学の多様性を生んだ」という主張を展開したためである。本稿では、プラトニズムを含まない西洋哲学は存在していないとしか観察されず、それを支えたのがキリスト教倫理である、という視点を持っておきたい。

 非キリスト教古代ギリシャ哲学の最終形であるネオプラトニズムからして、プラトニズムの克服のため、「一者」の「流出」という独自の概念を持ちだしたつもりが、結局はプラトニズムの強化であった。

 ここですでに、真の絶対者と似非の絶対者との混同が始まった。「絶対者」・「一者」を超越存在として想定するその手法は、「唯一神」を自明の存在とするキリスト教や、極端な善悪・真偽二元論をとるグノーシス主義と極めて簡単に結びつき、「絶対者」概念は中世・スコラ学を通じて、西洋文明(特に西方ラテン世界)の究極目的、すなわちキリスト教の神そのものに集約されていった。プラトニズムのイデアキリスト教の神になっただけの話である。つまり、それ以降は、西洋哲学・神学とはほとんどキリスト教哲学・神学である。

 すでにずれ始めた「絶対者」と一神教の「神」をあえて同一視したまま、しばらく記すとする。

 無論、「神」以外の、概ね唯一の神を意味する語(「絶対者」や「一者」など)に関しては、キリスト教諸派によっても使い方や立場が異なり、元よりプラトンアリストテレスプロティノスの時代から使い方に一貫性がないのも確かである。プラトン自身が「イデア」と「(第)一者」を使い分けたり使い分けなかったり、アリストテレスでは「(第)一者(アルケー)」は「絶対者」を表しておらず、プロティノスでは「(第)一者」は、「善」、「善のイデア」そのものであった。

 また、絶対者への認識・感得・接近・到達の可・不可とその手段も、多様である。感覚と経験では絶対者の感得(絶対者への近づき)は不可能とする一方で、絶対者の実在は自明であるとし、認識、理性、思惟による感得の可能性を認めるならば、ここに狭義の形而上学や第一哲学(アリストテレスの用語)や神学なる学問が生まれることになる。

 また、プロティノスは、神(一者)のほうから人間に、地上に降りてくることはないと考えており、神は「降りてくる」のでなく「ヌース(理性)」を「流出させ」て万物を生成するのである(流出説)として、キリスト教そのものには抵抗しながらも、「一者」への愛(エロス)によってこれと合一する体験(エクスタシス)を重視し、エクスタシスを生涯に四回体験したとされる。

 一見すると、これに対するのが「不可知論」や「懐疑論」である。だがデカルトも、それまで神の存在の自明性について証明は無用であるとされていたところ、証明を試みることができるという立場を示したのみで、結局は自身が形而上学に前戻って、いわば懐疑への懐疑に陥ってしまった。

 カントは極端な形而上学者・第一哲学者(カントの表現に従えば、超越論的学者)と言えるが、しかし、神の認識・感得の可能性は排除して神の要請・導出の必然性を重視している。人間が認識できるのは現象のみであり、神(物自体)が実在する根拠もないとしている点で不可知論であるが、実践理性による神(物自体)の要請の完了(神の実在は自明であるという結果を導くこと)は強硬に、絶対的に認める。不可知論や懐疑論を最も厳格に守る立場でも、人間のあらゆる認識能力による絶対者の感得の道は閉ざされるものの、依然として「絶対者は自明的に、先験的に、存在する」と考える。

 カントは、旧来の形而上学を批判し、もはやそれを諦め、実践理性の優位を説いたものの、その実践理性が引き出してきた「超越論的」神とは、結局は「超越的」神なのであって、「超越」の認識の限界を見極めようとしたカントの「超越論的」観念論自体が、ニーチェからすると「超越的」な無謀と傲慢である。

 プロティノスのような神秘体験は、グノーシス主義から現代のスピリチュアリズムにまで影響を与えているのであるが、このような神秘体験(感覚体験)を厭わない思想には、合理的経験に依拠する実証主義唯物論が対峙することになる。

 ここから宗教を除いてヘーゲル歴史観を加味したものがマルクス主義であるが、マルクス主義には、宗教的な「絶対者」や「神」はいないにもかかわらず、唯物史観を絶対真理と言い換えただけの絶対宗教性はあるのである。依然として直線的な唯物史観にすぎないマルクス主義を、シュペングラーは『西洋の没落』で批判したのである。これは、ニーチェによるルサンチマン弱者道徳批判と根を同じくするものである。カントもヘーゲルマルクスも、やはり西洋形而上学の罠にはまってしまったと言える。

 あるいは、「無神論」なる立場と言い回しがあるが、これとて教条としての「有神」を意識した自我(脳)にしか生じない立場である。もっと言えば、「神(それ以外に原因や根拠を持たない自立存在)がいないことは、科学で証明できる」という現在の一部の素粒子物理学者の確信でさえ、そのような存在がいない事実自体を神の裏返しと認定しうる(科学者をして「神」はいないと決心・言明させた人格的絶対者は確実に存在し、それは「神」であり、我々の旧来の「神」の設定方法・懐疑手法がやはり誤っていた、などと反省しうる)点で、やはり形而上学的であり、ユダヤキリスト教的である。これでは、「神」の存在はどこまでも自明である。

 人格的絶対的主体の存在の自明性という前提に対する疑念、そして、一度その絶対者を解体してからプラトニズム以降の哲学の全てを再構築し直す覚悟がない限り、先ほども述べたように、西洋哲学は必ず「形而上学形而上学的言説」でしかない。

 例えば、西田幾多郎プロティノスに自身の思想との親和性を見ており、確かに西田哲学の「場所」・「絶対無」とプロティノスの「一者」とは、ほぼ同一概念である。だが、西田幾多郎の絶対無(の場所)が、絶対矛盾的自己同一的現在(絶対現在)における無数の瞬時の自己限定としての我々の自己による自己否定において、触覚的に、身体性において見出される日常的諦観の自覚であるのに対し、プロティノスの一者が、我々の身体性を意図して超脱する全面的な自己否定の努力によって、一者から流出したヌースの視線が自己自身に振り返り、完全に超越性に帰還・合一して、超常世界に見出される非日常的法悦の挑戦である点において、プロティノスの思想に潜在する「キリスト教形而上学性」は、すでに垣間見えるのである。

 西田哲学では、個物・人間身体どうしの限定関係は相互的で、絶対無に対して円環的であるが、プロティノスでは、他の個物・人間身体は、一者との一直線的流出・帰還関係を通じてしか捕捉され得ない。

 対して、原始神道原始仏教の立場は、「神」という語を一神教的に用いる限りは「非神論」ないし「ゼロ次元・一次元神論」である。西田の弟子である久松眞一が『東洋的無』で述べた通り、仏教・禅の立場からも、東洋的無は、「有」と「無」を絶しそれらを全部包含する絶対無、形而上と形而下の別をも限定をも矛盾をも廃した「東洋的に形而上的なるもの」、「生死」が死んだ絶対死の境涯である。

 私はこのことを、しばしば言語学的観点からも説明しているが、西洋人は不可知論や汎神論や無神論懐疑主義を記述・言明するときでさえも、「I」や「ich」や「je」といった、神の真実在性に裏打ちされた自我を表す人称代名詞を用いなければならない。(非西洋語・他民族言語に対する)言語的相対性が西洋人の脳にもたらしている絶対化思考の束縛は、思っている以上に強固なものである。

 人称代名詞を用いた瞬間、必ずプラトニズムにおける「イデア」やアリストテレスにおける「内在形相」の観念が発生する。最高級の人称代名詞の名称が「神」である。「I was born in A」の後には「by the God」が隠されている。この「神」がヌースのはたらきで規定する人称代名詞が人間の自我である。西洋言語は、絶対存在・一者に立ち返らずに人間・個物対人間・個物が会話するということは原理的にあり得ない構造を有している。

 私が考案している汎神論的・多神教人工言語である岩崎式言語体系は、西洋語の文法論を転用して国語・日本語を説明している現在の国語学・日本語学を覆そうとしているが、この体系の解説のそこかしこで述べている「日本語に人称代名詞は存在しない」とは、「日本には人格的唯一神を前提に文法範疇に立ち現れる人間個体などない」というのと同義である。

 そうであるから、本来はフィロソフィー(第一哲学、形而上学、自然哲学の全て)と神学と自然科学は学問の態度と内容に大差がない(要するに、宗教教義とは無関係に成立すべき超越存在への直覚と、一神教的感覚・神秘体験を追い求めるクリスチャンの欲望と、現代のサイエンス万能主義とは、全く同一の宗教的信念から導かれる結論にほかならない)にもかかわらず、キリスト教ローマ教皇キリスト教系の環境保護団体が、「宗教的・人道的観点」なる、良識あるとされる観点から、先進国の科学文明の進展を批判する事態が起きるのである。

 昨今の進化心理学などがわざわざ「サピエンス」と呼ぶところの人間観も、地質科学・層序学などが好む「アントロポセン(anthropocene、人新世)」なる時代観も、人類中心主義・西洋中心主義と表裏一体である。

 ユダヤ教キリスト教の戦いも、キリスト教イスラム教の戦いも、キリスト教の内部抗争であると先に述べたのは、地政学的な意味よりも、哲学・宗教学的な意味においてである。「環境保護」という思想は、キリスト教の神(絶対的一人称)をバックボーンに持つ自己(自我の一人称)による自己攻撃にほかならない。「科学」とか(人間に対する)「自然」とか「環境」といった概念そのものが西洋哲学・形而上学キリスト教の産物であることに、気づいていない。

 二〇一九年に亡くなった梅原猛は、「哲学(フィロソフィー)は西洋哲学しかない」と言って新たに「人類哲学」を打ち立て、西洋の神中心主義から来る人間中心主義を乗り越えようとしたが、必要な試みであり、決して誇大妄想ではない。そのニーチェ批判については、私は不満なところもあるが。

 今これを書いている私自身が(日常生活における私の「社会常識的」行動は別にすれば)、それら地球環境保護集団たちが主張する「宗教的・人道的観点」なる観点もまた、西洋哲学という一人称の傲慢の帰結の一例だと考え、かつ「宗教的・人道的観点」なる観点そのものが本当は存在しないと考える(例えば、人間が熊に出くわし襲われて死ぬことにも、無謀な登山を試みて遭難した人間をあえて助けないことにも、善悪などなく、自然原理であり、無人称の「善」だと考える)のだが、そんな考え方も決して暴論でないということを、ニーチェなどは最も厳しく、かつ的確に教えてくれる。

 ちょうど本稿を書いている今、アフガニスタンパキスタンで活動していた医師・中村哲氏が殺害されたニュースが話題になっている。今、我々先進国の国民は、中村氏のことは絶対に褒め称えなければならない。氏はクリスチャンとして他の宗教・宗派にも気を配って現地に入り、活動したと称えられている。無論それはよいが、氏はどこまでもクリスチャンである、という日本語に変えただけで、全く世界の見方も変わるのであった。

 本稿、いや私の大学教育、それどころか人生全体は、善悪の彼岸を見るものである。中村氏の活動と、テロリストらの活動の、双方に対する先進文明の群衆が下した善悪いずれかの認定を、無に帰する態度である。中村哲氏は、汎霊論者や汎神論者として、キリスト教倫理の旗を降ろして中東・アジアの土を踏んだのではない。現地の非キリスト教徒が非キリスト教徒のままで不毛の地に水を引き、作物を育てるということを心から許し、自らも同じ非キリスト教徒として現地に足を踏み入れた戦後日本人など、ほとんどいないと言ってよい。この違和感を正直に表明する日本の哲人が現れなければならない。

 原爆は、アメリカの狂気ではなく理性の完成形が落としたものであり、悪魔教の背徳ではなくキリスト教道徳の極限が落としたものであることに変わりはない。ここに、ニーチェの企図したキリスト教的奴隷道徳の転覆、そして狂気と背徳の復権を、日本人の私が日本人の私として追求する意義があると考えている。松原寛が陥らざるを得なかった孤独な浄土信仰と天理教信仰と軍国思想を、今一度確認する必要性があると考えている。

 ヒトラーナチス・ドイツは、ニーチェの言う価値の転倒を実現できる唯一の人種をアーリア人であると考え、その純血種をゲルマン人であるとしたが、それはニーチェ思想に対する大いなる曲解である。同じくナチスが影響を受けたフランスの白人至上主義者ゴビノーのアーリア人至上主義こそ、ナチスに似合う思想である。ゴビノーは、ユダヤ人をアーリア人に近い優等人種としたが、非白人に対する差別思想は徹底していた。

ユダヤキリスト教的群衆道徳、ナチスやゴビノーのアーリア人優越思想、そして偽善的環境保護団体までもが共通して見ている、いわば「矮小な絶対者」と、ニーチェが見ていた「大いなる絶対者」について、比較検討する。

 

執筆者プロフィール

岩崎純一(いわさき じゅんいち)

1982年生。東京大学教養学部中退。財団事務局長。日大芸術学部非常勤講師。その傍ら共感覚研究、和歌詠進・解読、作曲、人口言語「岩崎式言語体系」開発など(岩崎純一学術研究所)。自身の共感覚、超音波知覚などの特殊知覚が科学者に実験・研究され、自らも知覚と芸術との関係など学際的な講義を行う。著書に『音に色が見える世界』(PHP新書)など。バレエ曲に『夕麗』、『丹頂の舞』。著作物リポジトリ「岩崎純一総合アーカイブ」をスタッフと展開中。

 

ネット版「Д文学通信」編集・発行人:清水正                             発行所:【Д文学研究会】

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2021年9月21日のズームによる特別講義

四時限目

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「松原寛と日藝百年」展示会の模様を動画でご案内します。

日大芸術学部芸術資料館にて開催中

2021年10月19日~11月12日まで

https://youtu.be/S2Z_fARjQUI松原寛と日藝百年」展示会場動画

https://youtu.be/k2hMvVeYGgs松原寛と日藝百年」日藝百年を物語る発行物
https://youtu.be/Eq7lKBAm-hA松原寛と日藝百年」松原寛先生之像と柳原義達について
https://youtu.be/lbyMw5b4imM松原寛と日藝百年」松原寛の遺稿ノート
https://youtu.be/m8NmsUT32bc松原寛と日藝百年」松原寛の生原稿
https://youtu.be/4VI05JELNTs松原寛と日藝百年」松原寛の著作

 

日本大学芸術学部芸術資料館での「松原寛と日藝百年」の展示会は無事に終了致しました。 

 

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