ネット版「Д文学通信」11号(通算1441号) 岩崎純一「絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘 ──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──」(連載7)

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ネット版「Д文学通信」11号(通算1441号)           2021年11月16日

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「Д文学通信」   ドストエフスキー&宮沢賢 治:研究情報ミニコミ

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連載 第7回

絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘

──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──」

 

岩崎純一日大芸術学部非常勤講師)

 

二、哲人たちの哲学の根底

 

巫女たちの苦闘 現代に残された神々との交信者にとっての自我、学問、父、男性

 

 さて、ニーチェ森鷗外、松原寛、清水正、私といった哲人の男たちの自我の格闘や、その中における各哲人たちの天賦の才、母なるもの、巫女的なるものとの邂逅は、今述べた通りだが、先に述べておいた吉備中心の巫女たちの境遇を見てみたい。これまでとは異なり、女の、しかも哲人女性たちの、自我の葛藤である。

 これらの巫女たちの家では、祭祀の秘儀秘伝は女系継承であり、苗字・家名とは別に巫女家系としての家名も存在するが、通常生活において父権が母権よりも弱いということはない。むしろ、祖父、父、夫、兄弟は神社本庁都道府県神社庁や単立宗教法人系の神社の立派な神職や職員で、祖母、母、妻、姉妹が巫女としての家を家庭内で穏健に営んでいる家のほうが多い。

 巫女と、その生活場所(更衣室、入浴施設、寝室、神楽の舞台など)で働く女性は、男女雇用機会均等法の適用を受けないため、独自の職業世界を持っているとは言えるが、職業上の任意の各種手続きも、表向きは概ね公権力に従っている状況である。税務手続きなどに至っては当然、完全に一国民としての義務を果たしている。巫女を「神職」だと思っている国民が多いが、巫女は法令上の「神職」ではなく、その従者・使用人にすぎない。

 また、今でも神社神道系の男系男子神職の牙城である國學院大學皇學館大学(一時期は日本大学を含む)の出身である巫女などほとんどおらず、一般の中学校・高校・専門学校・大学を出ている巫女が多い。兄の神社神道の学識に憧れる巫女もいるが、それがニーチェの妹エリーザベトや宮沢賢治の妹トシが持ったような兄への偏愛になっているかどうかも、巫女によって異なり、一概には言えない。

 さて、その巫女たちにも当然、「私は女の子である」と明確に自覚し始める時期はある。巫女の卵である可憐な少女たちの、自我と性の目覚めである。

 これらの巫女たちの多くは、生涯純潔を貫いて秘伝・奥義の実践者・継承者となるか、家が暫定的に取り決めた「許嫁(いいなづけ)」の相手(神職など)と結婚するか、自由に恋愛結婚して俗世で神道を説いて回るか、いわゆる純潔の有無を問わない一般神社の巫女として就職するか、巫女そのものをやめるか、これらを十代・二十代のうちに決定しなければならない。

 その後、正式に巫女として生きることを選んだ場合は、いよいよ十代から三十代にかけて、各家に共通の巫女祭祀と独自の巫女祭祀とを学んでいく。少女期・十代のうちに生涯に亘る処女を決心し宣言した巫女たちには、早くも秘伝が、最終的には最深奥義が伝授されていく。生涯の処女性は、母によって確定されることはなく、どの答えが正しいということもなく、あくまでも巫女の卵たちが決めることである。では、卵から育ったこれら二十・三十代の巫女たちは、哲人男性たちの少年期および自分たちの少女期を、哲学・思想上はどう見ているか。

 まず、哲人男性たちをどう見ているかについては、つまりは、これら選ばれし男子たちが主張する母への愛、「母親教」、(清水先生の説く)「おっぱい教」の信仰、母胎回帰願望などを、性的欲求の変種ではなく、宇宙の源泉としての自分たち女性への帰還本能として見ているかどうか、哲人男子を受け止める霊的抱擁の力があるか、という点に尽きる。そして、少なくとも私の周囲の巫女たちは、このような母への回帰願望を宇宙の源泉への帰還本能として見ており、むしろ能動的に身に引き受けていると思える。

 もちろん、ここで私が取り上げているのは、男の群衆道徳が共有している性欲の、女の側での受け止め方などではない。先に述べたような稀有な哲人たちが有する母性・女性性への帰還精神の、「母なる巫女」側における、巫女神事などとしての根源的対応・表現様態のことである。

 今から論じる「絶対者」論によって、巫女たちによるその運命の引き受け方の仕組みが分かるだろう。職業上の巫女であるかどうかに関わらず、これら哲人男子たちの哲人性が分かる女性は、ほんの一握りであることも、また事実である。しかし、これまで本稿に登場した全ての哲人の母たちは、それが分かる巫女であったのである。

 哲人男子とはいえ、特に学才ある(なかんずく学歴ある)エリート知識人の哲人の場合は、どうしても簡単に信仰が揺らぎ、恋愛感情や性的欲求の確立を自覚しつつ、先のように超越実在を追いかける形而上学の迷路に迷い込んで、あたふたする天性の気質を有する。天地の分離、大地から離れた思弁に生きがちな性質を有するのである。しまいには、「世界とは何か」などと言い始めて世界そのものを見ていない事になるのが、哲人男の性質である。

 一方で、性欲だけはまさに身体に、大地にへばり付いた実感のものであるので、特に群衆道徳タイプの男性界では、表では聖人君子の夫が裏では性暴力者であるようなことが起きるのである。男は、性欲(フロイトのリビドー)と生命衝動、生命の飛躍(ベルクソンのエラン・ヴィタール)とが乖離しがちである。これらを同一次元で語れる男子は、選ばれし哲人男子のみなのである。最も厳しく言えば、女癖の悪かったハイデガーサルトルは聖人君子ではなく、ニーチェこそは聖人君子だということになるのである。

 そして、巫女たちが巫女たち自身の少女期をどう見ているかについては、我々男子と同じく、性の問題と大きく関わるのである。

 今述べたような男子の乖離性質を大地へと引き戻し、生命の躍動と性欲との均衡を生成するのが母であり、巫女であり、本来は女性一般であるのだが、その女性たちこそは、およそ二十八日を周期とする、地球の自転・公転並みの回避不可能な原理によって、全てが大地に縛られている。

 本来、女は大地・宇宙そのものであって、大地・宇宙についての思弁から立ち現れたものではないのであり、私がここで述べているような男の「哲学」や「宗教学」なる体系には厳密には入ってくることができない。女性においては、最初から生命衝動と性欲・性行為と妊娠・出産願望との区別が曖昧であり、むしろ合一状態にある。男は宇宙を思弁するが、女は宇宙そのものである。

 (今、「その考え方は女性差別である」という声が巷の女性人権保護団体から聞こえた気がするが、それは女性という宇宙が見えていない人々の証言であると私には思えるので、申し訳ないが横に置かせてもらおうと思う。性欲・性行為・妊娠・出産をめぐるこれらの団体の女性幹部たちと巫女たちとの議論を間近で何度か見てきたが、激論・暴言を吹っかけるのは毎回前者の女性幹部たちであり、平行線に終わるのが関の山である。終わり方としては、女性幹部たちがもはや男になって、男でも言わないような差別用語を多用したのち、いわば巫女たちに向かって強姦・射精しているも同然の、悲惨な事態になることがほとんどなのである。)

 私の知人の吉備の巫女たちのうち、最も純粋な巫女の巫女、つまりは生涯純潔を選択した場合について、選択から数日や数週間のうちに、現代の精神病理学上では統合失調症解離性障害、広義の心身症や身体表現性障害・身体症状症(心気症、身体化障害、転換性障害など)と呼ばれる症状群を呈した巫女たちに、私は何人も出会っている。

 これらの症状を呈する理由としては、中には、生涯男性に指一本接触できないことについて、非常に分かりやすい現代的性的欲求上の不満を精神症状の形で表明しているだけのものもある。しかし、そのような女性は初期段階で、異性との性体験を許可された巷の巫女や一般女性の世界へと去って行く。

 一方、天賦の巫女体質を持つと言える巫女たちの症状を見ると、その初期症状からして、とても性的抑圧の反動と呼ぶだけでは済まされないものである。もちろん、その反動を利用する秘儀もあるにはある。性欲の我慢(長期間、自慰行為を断つこと)によって天照大神が見えるとする秘儀などで、かのフロイト父子の精神分析学上は、いわゆる防衛機制の抑圧以外に、外在化、知性化、合理化、ないし昇華と呼ばれるものにも相当する。

 だが、ほとんどの巫女の初期症状は、性的欲求の忍耐の反動よりは生命衝動の顕現、始原のカオスの垣間見と言えるものである。巫女たちの示す症状が脳神経学的には全て脳内伝達物質や脳波の異常であると解されるにしても、それ以前の幼少女期における前兆症状からして、いわゆる憑依現象、いわば「始原の一者や八百万の神々との合一体験」であると私は見ている。

 中には、一神教や日本神話・『記紀』神話、出雲神話、吉備神話上のどの女神と一体化(憑依)したか、あるいはどの男神と合体したかを、自ら説明する(つまり、解釈できる)巫女もいる。これができる巫女は、今でも「巫(かんなぎ)」、「神の依り代(憑り代、よりしろ)」、「斎(いつき)の巫女」、「斎女(いつきめ)」、「御杖代(みつえしろ)」などと呼ばれている。

 これらの祭祀儀式は、後述する巫女禁断令によって弾圧され、壊滅的被害を受けることになる。それで、吉備のいくつかの巫女家では今でも、政府や宮内庁文化庁神社本庁神道政治連盟日本会議などを呪う秘儀が行われているというわけである。

 もっとも、折口信夫中山太郎ミルチャ・エリアーデらが述べるように、巫女の儀式・シャーマニズムには大雑把に分けて、「脱魂」型と「憑依」型があるとされる。ただし、吉備の秘伝上は、「魂」(ここでの魂とは、浄土真宗などが輪廻転生すると見ている魂ではなく、西田幾多郎の言う「場所の論理」、ベルクソンの言う「持続」や「エラン・ヴィタール」や「エラン・ダムール」、ジェームズの言う「意識の流れ」、そして彼らが共通して説いた「純粋経験」に近い)の経験場所を相手方(神々)側に押し込むか、自分(巫女)側に引きずり込むかの違いしかなく、技術的にはほぼ同じであるとされる。脳電位の状態も神経症、心気症、身体化障害、重く見ても転換性障害解離性障害の下位分類程度の差と見なされると思う。つまり、本来は巫女であるならば、脱魂も憑依もできる。

 無論、巫女たちからその神道の継承を託された私とて、それぞれの巫女たちが、自分たちの処女性を多分に利用した祭祀秘儀を練習、実践する中で、第二次性徴、性欲、食、排泄、そして頭髪のおしゃれや肌の手入れや自由な服飾の願望などとどう向き合っているかについて、生々しい話は今のところ、数名の巫女としか交わしていない。中山太郎が報告したような、性器や排泄物を用いた秘儀についても、数回観察する機会を得たのみである。

 ただし、彼女たちの古式の秘儀は、後述するような、ギリシャ悲劇における(アポロン的理知を優先した喜劇性ではない)カオスとディオニュソスを引き込んだところの一抹の喜劇性・滑稽さ、渾然一体となった喜怒哀楽にも通じる意義があると私は思う。というのも、巫女神楽、磐座(いわくら)神事、神剣演舞、疑似的な人身御供など、悲哀に満ち満ちた他の儀式同様、非常に超越的・神秘的・形而上学的な難解さを持ちながらも、中には「巫女が政府や神社本庁に尿を引っかける、ウンチをする」という、放送禁止番組のお笑い芸のようなものまであるからである。

 これは、「古代・中世のヤマト王権や地方の有力王権、幕府などが暴政をはたらいた際に、少女が排泄物を引っかけ、呪い、祟り、その為政者の命を霊力で吸い取る」という古代巫女の儀式を、現代の十八才以上の(法律違反とならない)純潔巫女たちが引き継ぐ形で、現代の暴政に対して、可能な限り再現するようになったものである。ただの被害妄想的なルサンチマン弱者道徳によらず、カオスとディオニュソスの精神で再現している、真剣さと滑稽さが同居する性的秘儀なのである。もちろん、実際にやっていることと言えば、首相官邸や国会に糞尿を引っかけに行く犯罪ではなく、遠き吉備や出雲の地における呪いの秘術であって、私はそのことに大きな意義を感ずるのである。

 このような巫女の古式の秘儀からは、いかに政府や文化庁神社本庁が主張する神道が小綺麗に歪められた戦後の製作物であるかということも、分かるのである。今でも実は、自国民の女性、とりわけ第二次性徴期の少女からそのように馬鹿にされることが、政府・国家機関や宗教組織にとって最大の屈辱であるはずである。そのような抵抗運動を国民が選挙やデモや意見箱やツイッターでしか表現できなくなったのが戦後日本という時代であることを、肝に銘じておいて損はないだろう。

 今では、中国人が神社の鳥居に向かって用を足したりゴミを放り捨てたりするなどの、観光上のマナー違反の問題ばかりが目立つが、そのような無礼に我々の腹が立つのは、マナー違反以上に神道への侮辱だと受け取るからである。その神道の正統に小便・大便を引っかける巫女の秘儀が、笑えると同時に、いかに女性の命をかけた戦慄のホラー儀式であるかは、言うまでもない。

 私が見ることのできる秘儀のほとんどは、巫女舞巫女神楽や磐座神事や神剣演舞などといって、巫女装束を着たままの神楽舞その他の神事である。性的要素はあっても、いちいち裸体になったりはしないのである。

 巫女舞のうち、何ら性的要素がないものは、吉備楽・吉備舞などと呼ばれる近代の雅楽や神楽に取り入れられ、後述の黒住教金光教など、新宗教の舞台で一般観客にも披露されている。吉備楽・吉備舞は、大和舞(倭舞)や東舞(東遊)を元に近代に作られたが、前近代に吉備の巫女たちが多く入り込んでいた春日大社の舞などが多分に取り入れられ、いわば吉備の巫女舞の帰省の様相を呈する。

 巫女は、男女雇用機会均等法の適用は受けなくとも、児童ポルノ禁止法や自治体の青少年育成条例などの適用は受けるので、女系(女性間)継承といえども、十八歳未満への性的秘儀の伝授は自主的にほぼ停止され、かえって祭祀が廃れている。吉備舞などとして披露できるものが今後もっと限られるのは、致し方ないことである。

 そういうわけで、私とて、秘儀中の秘儀、最も性的かつ生命衝動的な巫女秘教の脱魂や憑依はあまり知らないのだが、しかし、概ねどの巫女たちも類似の生活を送っているようではあるので、本稿では、やや乱暴ではあるが、「吉備の巫女たち」などとまとめて扱ってみている。

 ちなみに、本稿で取り上げた哲人たちのうち、結婚に関しては清水先生のみが哲人法則から外れている旨を述べたが、私が結婚しないでいる理由を大まかに書いておく。それは、しばらく前までは現実生活の問題が理由だったが、現在は結婚によってできなくなることがあることを知っているからである。一つは「巫女とその神事・秘儀」そのものの研究、もう一つは「母なるもの」の研究、もう一つは「女性性なるもの全般」の研究、もう一つは「巫女性を基礎にしたこれらの統合」の研究である。

 これらに結婚後に徹底して取り組むと、必ず妻は寂しい思いをすることになる。離婚した哲人の実状を探ってみると、九割くらいは男の学術優先と妻へのほったらかしが原因である。この見解を本稿に挙げた巫女たちと私は共有しているので、適切な師弟関係、というより相互扶助関係が成り立っているのだと思う。

執筆者プロフィール

岩崎純一(いわさき じゅんいち)

1982年生。東京大学教養学部中退。財団事務局長。日大芸術学部非常勤講師。その傍ら共感覚研究、和歌詠進・解読、作曲、人口言語「岩崎式言語体系」開発など(岩崎純一学術研究所)。自身の共感覚、超音波知覚などの特殊知覚が科学者に実験・研究され、自らも知覚と芸術との関係など学際的な講義を行う。著書に『音に色が見える世界』(PHP新書)など。バレエ曲に『夕麗』、『丹頂の舞』。著作物リポジトリ「岩崎純一総合アーカイブ」をスタッフと展開中。

 

ネット版「Д文学通信」編集・発行人:清水正                             発行所:【Д文学研究会】

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2021年9月21日のズームによる特別講義

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「松原寛と日藝百年」展示会の模様を動画でご案内します。

日大芸術学部芸術資料館にて開催中

2021年10月19日~11月12日まで

https://youtu.be/S2Z_fARjQUI松原寛と日藝百年」展示会場動画

https://youtu.be/k2hMvVeYGgs松原寛と日藝百年」日藝百年を物語る発行物
https://youtu.be/Eq7lKBAm-hA松原寛と日藝百年」松原寛先生之像と柳原義達について
https://youtu.be/lbyMw5b4imM松原寛と日藝百年」松原寛の遺稿ノート
https://youtu.be/m8NmsUT32bc松原寛と日藝百年」松原寛の生原稿
https://youtu.be/4VI05JELNTs松原寛と日藝百年」松原寛の著作

 

日本大学芸術学部芸術資料館で「松原寛と日藝百年」の展示会が開催されています。 

 

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