清水正  村上玄一を 読む (連載9)

村上玄一を 読む (連載9)

 

清水正

 

 

 〈ぼく〉は美樹子のエプロンに付いた〈可愛いペンギン〉の顔が泣いているのに気づい て「嬉し泣きなのだろうか?」と思う。〈ぼく〉は続けて「美樹子を、見知らぬ女だと錯 覚しかけるほど、それは彼女とアンバランスだった」と書く。ここで言う〈それ〉とは何 か。1〈可愛いペンギンのアップリケの付いたエプロン〉なのか。2〈泣いているペンギ ンの顔〉か、それとも3〈嬉し泣きしているペンギンの顔〉なのか。こまかい事を言うよ うだが、〈それ〉が何を指しているのかがはっきりしないと、〈ぼく〉が感じた〈アンバ ランス〉がよく伝わってこないのである。1から検討してみよう。別に好きで結婚したわ けではないし、美樹子が富田の結婚生活に嬉し泣きするほど喜んでいるわけはないだろう 。それに〈ぼく〉はほんの一頁前に「もしかしたら、二人の生活は、幸せなどというイメ ージとは無関係で、何やら哀れっぽいものではないのだろうか」と書いたばかりではない か。従って〈それ〉は1を指している可能性はない。2はどうだろうか。2は〈アンバラ ンス〉どころか、まさに美樹子の内心そのものである可能性もある。すると〈それ〉は3 ということになろうか。

 

 〈ぼく〉の自己中心的な性格は美樹子の富田に向けられた言葉「紅茶にしたわよ」を自 分に向けられた言葉として受け取めたところによく出ている。この場面はどんなに隠して も現れてしまう〈ぼく〉と美樹子の二人の関係であるが、〈ぼく〉がとっさに口に出して しまった「どうして、そんなことが判るんだ?」の言葉を富田がどのような表情で聞いて いたのか、その点についてはまったく触れていない。富田がよっぽど鈍感な男ならいざ知 らず、ふつうなら〈ぼく〉のこの言葉に、〈ぼく〉と美樹子との関係を疑うはずである。 それとも富田は〈ぼく〉が言うように「そんなことに拘泥るタイプの男でない」というこ となのであろうか。もしそういうことなら、この三人は嫉妬とか憎悪とかいう厄介な感情 を超越した存在ということになるが、どう見てもそんなリッパなひとたちとは思えない。

 

 どうやら〈ぼく〉はオヤジの癌よりも沢井原という男の自殺が気になっているらしい。 沢井原は〈ぼく〉が小学校に入学する前からの遊び友達で、中学を卒業すると自衛隊に入 隊した。〈ぼく〉は十年前、偶然にも新宿駅総武線の下りホームで沢井原と出会い、以後 酒を呑む仲となる。沢井原は職を転々とし、結婚して娘が一人いる。三日前に自殺した時 はタクシーの運転手をしていた。〈ぼく〉が沢井原と最後に会ったのは二週間前である。 幼馴染みで十年間も呑み友達であった男がとつぜん何の前触れもなく自殺した。〈ぼく〉 は沢井原がどうして自殺したのかその〈謎〉の前に立たされることになった。その謎は解 きあかされなければならないというわけである。

 

 富田はしたり顔で言う「お前のオヤジが死にかけていて、お前の友人が自殺して、つま り、ふたつの死がお前を襲ったということだ。しかし、これは、まさに現代的な死を代表 していると思わないか。お前が生きているのは現代そのものなんだよ。どちらを見渡して も、最近、亡くなられる方々の死因というやつは、癌か自殺だぜ」。 富田は癌と自殺を〈現代的な死〉と言っているが、その言葉にリアリティがないのは彼が 〈死〉を内在的にとらえていないところにある。それは富田ばかりではなく、〈ぼく〉に も美樹子にも共通している。〈ぼく〉のオヤジの〈癌〉も富田の母親の〈寝たきり〉状態 も、彼らにとっては何ら痛みとしては感じられていない。彼らは肉親の病を、苦しみを自 分のものとして受け止める、そういった感覚が欠如している。彼らにとって父親や母親は 他人の美樹子以上に他人なのである。

 

 肉親の苦しみさえ感受し得ない〈ぼく〉が沢井原の自殺の原因を突き止めることができ るのだろうか。否、〈ぼく〉はそもそも沢井原の自殺の謎を真剣に解こうなどと思ってい るわけではない。〈ぼく〉は最後に女房が浮気していることを話す。〈ぼく〉にとってオ ヤジの癌、沢井原の自殺、女房の浮気はどれも同じようなものなのかもしれない。

 〈ぼく〉は妻の順子に関して次のように書いている。

 

  順子と結婚して八年目になる。学生時代の先輩の友人の妹だった。彼女が若いという ことだけで一緒になった。ほかに理由は思い浮かばない。といっても、順子はぼくより七 歳若いだけである。子供はない。週四回、四谷の設計事務所でアルバイトをしている。年 収は、ぼくと同じ程度、ということは、いかに、ぼくの年収が少ないかということでもあ る。

  なぜ、順子がぼくと結婚する気になったのか。おそらく彼女のほうに大きな誤解があ ったのだろう。ぼくにはない何ものかを、あるものと期待していたのかもしれない。それ が何であるのかを、ぼくは知らない。だが、それがないものだと判ってしまった順子は、 もう、ぼくと一緒に生活をつづけていく気にはなれぬのだろうと思う。

 

 ここにも〈ぼく〉の下劣さが遺憾なく発揮されている。〈ぼく〉は当時、美樹子と関係 を続けながら、ただ若いという理由だけで順子と結婚したと臆面もなく語る。〈ぼく〉は 順子との内的関係をいっさい語らない。〈ぼく〉は結婚生活において二人の内的結びつき など無用と思っていたのだろうか。〈ぼく〉に必要だったのは同窓の美樹子の肉体の他に 、もう一人の若い肉体だけだったとでも言うのだろうか。しかも順子は週四日のアルバイ トで、稼ぎの足りない〈ぼく〉の生活を支えてくれる。〈ぼく〉にとってこんなに都合の いい女はいないということになろう。

  それにしても、順子が期待していた〈ぼくにはない 何ものか〉とは何なのだろう。〈ぼく〉はこういった微妙なことに関してはあいまいには ぐらかしてしまう。このことが、この小説において〈ぼく〉の人間関係をきわめて不鮮明 にしている。〈ぼく〉と富田、〈ぼく〉と美樹子、〈ぼく〉と沢井原、〈ぼく〉と順子… …これらの関係が曖昧なのは〈ぼく〉自身に事をはっきりさせようとする意志がないから である。〈ぼく〉は〈ぼく〉自身に対して途方もない逃亡を図りながら、誰よりも自分を 客観的に押さえていると思い込んでいるようなところがある。ここに〈ぼく〉の語り手と しての甘さがあるが本人がそのことに気づいていないのでどうしようもない。