意識空間内分裂者が読むドストエフスキー(連載3)

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意識空間内分裂者が読むドストエフスキー(連載3)
山城むつみの『ドストエフスキー』から思いつくままに
清水 正

文芸GG放談 熱海「ラ ビスタ」にて。2010.12.26
今までドゥーニャは兄思いの、自己犠牲的な美しい女性と見なされてきた。そのもとになっているのは、ロジオンの妹に対する思いであろう。兄ロジオンの内では、ドゥーニャは誇り高い高潔な女性である。が、この高潔で誇り高い女性が、何故にルージンのような俗物を絵に描いたような男との結婚を承諾してしまったのか。秘密は、ドゥーニャが兄のために自己を犠牲にしようとした、その結果である。が、ロジオンはドゥーニャのこんな犠牲を求めたことはない。ドゥーニャは敏腕な実務家の義侠心に期待して結婚を承知したが、ロジオンはルージンのしみったれの本質を的確に見抜いていた。プリヘーリヤとドゥーニャはロジオンの将来(生活の保障)のために、高潔心を悪魔に売り払ってルージンとの〈取り引き〉に応じてしまった。しかも、この〈取り引き〉は相互に納得づくで契約書を交わしたものではなく、あくまでもルージンに対しての一方的な、ルージンのしみったれた性格を考慮すれば、微塵の現実性もない、単なる期待によってなされた。

ルージンは貧乏な家の美しい処女で、夫にだけは従順な女性を妻にすることを常々願っていた。ルージンはドゥーニャを理想的な花嫁と思って婚約したが、彼女の兄の就職の世話などする気はさらさらなかったし、ましてや共同経営者として一緒に弁護士事務所を営んでいこうなどという思いはまったくなかった。プリヘーリヤとドゥーニャはロジオンのため、自分たちの小さな幸福のために、ルージンという男を見誤ってしまった。否、彼女たちはルージンばかりではなく、ロジオンをも取り返しのつかないかたちで見誤ってしまったのである。

人生はきれいごとではおさまらない。ドゥーニャはわずかの期間中に三人の男と深く関わった。海千山千の淫蕩漢スヴィドリガイロフの倦怠に彷徨う魂を誘惑し、敏腕な実業家ルージンに結婚を決意させ、そして女たらしの好青年ラズミーヒンの心を奪った。スヴィドリガイロフを自殺に追い込み、ルージンに赤恥をかかせたこの魔性の女が、ラズミーヒンという平凡な男とどんな結婚生活をしていくのかみものである。ドゥーニャはルージンとの結婚を一度は承知した、打算的な女である。この〈打算〉はラスコーリニコフ家の人々に共通している。

ロジオンは打算を働かせて下宿の娘ナタリヤと婚約した。ロジオンは警察署で、この婚約は、法的な保証のない、あくまでも口約束であったことを強調し、そればかりかナタリヤを本気では愛していなかったとまで口にしている。ロジオンはペテルブルク随一の美青年として設定されているが、その内部は卑劣漢そのものである。

ロジオンの卑劣漢ぶりはいたるところで発揮されている。例えば彼は、二人の女を斧で叩き殺しておきながら、ソーニャに冤罪事件を仕掛けたルージンを卑劣漢呼ばわりして何ら恥じるところがない。しかも、ロジオンがソーニャを弁護するのは、レベジャートニコフによってルージンの罪深い卑劣な行為が暴露された後においてなされている。例えば彼は、二人の女を殺した殺人者でありながら、ソーニャの前にひれ伏して「ぼくはきみの前にひれ伏したのではない。人類のすべての苦悩の前にひれ伏したのだ」などと、まるでキリストのような言葉を発している。例えば彼は、予審判事ポルフィーリイに「あなたは神を信ずるのか」と訊かれて、きっぱりと「信じている」と答え、さらにラザロの復活も文字通り信じていると言っておきながら、ソーニャの部屋を訪れてラザロの復活の場面を読んでくれと要請した時には、神を信じない者になりすましている。

ロジオンは分裂した卑劣漢でありながら、『罪と罰』の読者の大半は彼の存在に魅力を感じる。なぜなのか。ソーニャが言うように、ロジオンは苦しんでいる、その苦しみが読者を説得してしまうのであろうか。『罪と罰』の読者は、価値が転倒した世界に踏み込んでいる。現実の世界で、二人の女を斧で殺した青年のことが、新聞やテレビでとりあげられた時、おそらく大半の者はその青年を非難するし嫌悪を覚えるであろう。なにしろこの青年は、二人の女を殺しておきながら〈罪〉の意識を感じないと言っているのであるから。

ロジオンが苦しんでいるのは二人の女を〈殺したこと〉(踏み越え=преступление)に〈罪〉(грех)を感じているからではない。彼はナポレオンのように〈踏み越え〉られなかったことに苦しんでいる。ロジオンは自らが執筆した「犯罪に関する論文」において、「非凡人は良心に照らして血を流すことが許されている」と書いた。彼は〈良心〉に照らして〈社会のシラミ〉である高利貸しのアリョーナ婆さんを殺したはずだった。ところが彼は、ナポレオンのように青銅でできた人間(非凡人)ではなかった。〈踏み越え〉た途端に、犯罪の発覚を恐れるあまり四日間も意識不明になってしまう体たらくであった。彼は、自分はナポレオンではなく、むしろ殺された老婆アリョーナの側の人間、自虐的に言えば美的シラミであったことを自覚せざるを得なかった。彼は、悶え苦しんだあげく、母親と妹を捨てて、同じく一家のために〈踏み越え〉たソーニャと共に生きる道を選ぶ。

ソーニャは不思議な女である。ソーニャは酒代をせびりに来たマルメラードフになけなしの金三十カペイカを黙って差し出す。リザヴェータ殺害を一種独特なかたちで告白したロジオンをいっさい責めない。ソーニャはひとをとがめたり、責めたり、裁いたりしない。マルメラードフはソーニャからもらった金で酒を飲む。飲まずにはいられない。マルメラードフは飲酒に快楽を求めているのではない。悲しみと苦しみを味わうためにこそ飲んでいるのだと言う。黙ってなけなしの金を与え、いっさい非難がましいことを口にしないソーニャは、娘が極貧の一家の犠牲になって黄色い鑑札(淫売婦の許可書)を受けなければならなかったことに、父のマルメラードフがだれよりも苦しんでいること、悲しんでいることを知っている。ソーニャはマルメラードフが〈豚でない〉ことを確信し、彼の苦悩と悲嘆にどこまでも寄り添って沈黙を守っている。

ソーニャはロジオンの〈苦しみ〉にも寄り添う。ロジオンは初めて、地下の酒場でマルメラードフの告白を聞いてソーニャの存在を知ったその時に、〈踏み越え〉の告白の相手にソーニャを選んでいる。ロジオンは最初の〈踏み越え〉(殺人)を通して、最終的な〈踏み越え〉(復活)へと向かって行った青年である。ロジオンを〈復活〉へと導いて行ったのは間違いなくソーニャである。

ところで、この小説を何回読んでも、この〈復活〉の場面で、取り残されている自分自身の存在に直面してしまう。二十歳の頃、わたしは『罪と罰』の主人公ロジオンが実際に〈犯罪〉(人殺し)を犯してしまうことがどうしても理解できなかった。自意識の過剰はひとを〈地下生活者〉にすることはあっても、実際的な犯罪者にすることはなかろう、と思っていたからである。地下生活者はあらゆるものを相対化してしまうから、唯一絶対的なものを認めない。現代の地下男は『罪と罰』を読んで、復活の曙光に輝いたロジオンに我が身を重ねることができない。ロジオンは〈復活の曙光〉に輝いた。だが、わたしは何度『罪と罰』を読み返しても〈思弁〉の世界へと横滑りしてしまう。

ドストエフスキーの第二作目『分身』について、わたしは二年をかけて三百枚以上の批評を展開したが、その題名は「意識空間内分裂者による『分身』解釈」である。意識空間において無数に分裂した〈我〉を抱え込んでしまった人間存在をわたしは〈意識空間内分裂者〉と名付けた。アルベール・カミュは「すべての登場人物が私だ」と言ったが、この言葉を言い換えれば、どの人物にも自分自身とぴったり重ね合わせることができないということである。『カラマーゾフの兄弟』で言えば、神の存在を信ずるというアリョーシャと、神の存在を信じないというイヴァンの両方を共に抱え込んでしまったのが意識空間内分裂者で、にもかかわらず狂気に陥らないのは、分裂した様々な〈我〉を統治する意識(いわば映画における監督のような存在)が働いて無数の〈我〉を統治しているからである。

〈我〉のうちの一つが他の〈我〉を圧倒的に押さえこんでしまえば、意識空間内分裂者と唯一絶対の《我》を保持している者との区別は傍から見ればないということになる。二つの〈我〉、例えば神を信ずる者と信じない者が強烈に〈自己〉を押し出して来れば、その時、監督者としての統治的役割を担った〈我〉がその統治に失敗すれば、実存の均衡を崩して狂気に陥る可能性もある。わたしはこういった問題を〈意識空間内分裂者〉の問題として提起したが、この問題はわたしが『分身』解釈を書いて発表してからすでに三十年以上もたっているが、誰一人としてこのことを真剣に考えていないようだ。《我》が二つに割れているだけならジキルとハイドのような二重人格の問題にとどまるし、《我》が分裂もしていないのに時の政治状況によって自己保身的に発言するならば、それは二枚舌ということになろう。