清水正  動物で読み解く『罪と罰』の深層(連載2)

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江古田文学」97号98号

 

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今回は「江古田文学」98号に掲載した「動物で読み解く『罪と罰』の深層」(連載第二回)を載せる。

動物で読み解く『罪と罰』の深層(連載2)

清水正

 

■おす犬(пёс)

 犬(собака)と人間の関係は古代に遡る。猟犬、番犬、食用犬、羊導犬、盲導犬、捜査犬として犬は人間の生活に深く関わってきた。またペットとして主人と従者の関係を越えて家族、友人の一員となって飼い主の癒しともなっている。犬は民族によって神と崇められたり汚れの対象として忌み嫌われたりもするが、おしなべて人間にとって親愛的な動物として認知されている。

 

 さて『罪と罰』の中ではどのような形で登場しているであろうか。ロジオンは未亡人プラスコーヴィヤの所に下宿しているが、そこに賄い婦として働いていたのが女中ナスターシャである。ナスターシャは屋根裏部屋で昼間から働きにも出ずゴロゴロしているロジオンに向かって嫌みを言うが、この時ロジオンは俺の仕事は考えることなんだとやり返す。このセリフを聞いてナスターシャは腹をかかえて笑い転げる。

 

 ロジオンの〈考えること=仕事〉に我が国で最初に注目したのが内田魯庵訳『罪と罰』(明治二十五年)を読んだ北村透谷である。以来、ドストエフスキー研究家はこのロジオンのセリフに重きを置く余り、ナスターシャの反応を忘却の彼方に追いやった。が、わたしは全身をゆらして笑い転げるナスターシャの反応にこそ、ロシア民衆の健全な姿を見る。二人の女を斧でたたき殺しておきながら、その殺人行為に遂に〈罪〉意識を感じることのできなかったロジオンの〈考えること〉に過大な評価を与えることこそ危険なのである。ナスターシャという一庶民の感性や常識を甘く見てはならない。

 

 このナスターシャがロジオンの唯一の友人ラズミーヒンに向かって「いやだよ、おす犬め!」(Ну ты, пёс !)と言う場面がある。この項では〈おす犬〉(пёс)をめぐってラズミーヒンの描かれざる性愛場面に逐次、順を追って照明を当てたいと思う。

 

 ラズミーヒン(Разумихин)という名前は〈разум〉(理性、知性、分別)に由来する。確かにラズミーヒンはロジオンの目眩く思弁に比べれば、枠組みから逸脱しない理性の持ち主と言えるかもしれない。ニーチェの用語を借りれば、ロジオンはディオニュソス的な理性の持ち主、ラズミーヒンはアポロン的な理性の持ち主と言える。ところでラズミーヒンは自分の正式な名前はヴラズミーヒン(Вразумихин)だとことわっている。動詞〈вразмить〉は〈説示・教示・教訓する、納得させる〉という意味で、まさにヴラズミーヒンは女将プラスコーヴィヤを瞬く間に説得、教示し、挙げ句の果てにハーモニーまで奏でている。

 

 ラズミーヒンはロジオンと同じく大学をやめているが、ロジオンとは違って復学を目指して頑張っている。彼ら二人がどういう事情で大学(ペテルブルク大学法学部)をやめざるを得なかったのか作中においては具体的に説明されていない。おそらく授業料未納で除籍ないしは退学処分の措置を受けたのだろう。二人とも貧しい苦学生であったが、ロジオンは家庭教師のアルバイトも止め、女将に百十五ルーブリの借金を負ったまま屋根裏部屋の空想家に甘んじていた。この空想家が殺人という大胆な〈踏み越え〉をなすことで『罪と罰』という小説はダイナミックな展開を見せるわけだが、ここでは〈おす犬〉(さかりのついた犬)であるラズミーヒンに照明を当てることにしよう。

 

 ラズミーヒンは『罪と罰』の女性読者に受けのいい人物の一人である。彼は得意な外国語(ドイツ語)で翻訳の仕事をこなす知性的な青年だが、いわゆる知識馬鹿の堅物ではない。頑丈な体の持ち主で場合によっては腕力を振るうし、大酒もくらう豪放磊落な明るい青年である。こういったイメージが優先して女性読者に人気があるわけだが、しかし同時にこの青年は〈さかりのついた犬〉、つまり女に関して実にマメな女たらしでもあった。ラズミーヒンは行方の知れなかったロジオンの下宿先を探し当て、犯行後、極度の不安と恐怖に襲われ意識混濁状態でソファに横たわっていたロジオンの看病をしていた。が、ラズミーヒンはロジオンの世話だけをしていたのではない。彼は下宿の女将、未亡人のプラスコーヴィヤとハーモニーを奏でていた。つまりラズミーヒンは〈さかりのついた犬〉ぶりをロジオンの下宿先でも存分に発揮していたということである。

 

 『罪と罰』において登場人物たちの性愛場面は直接的に描かれることはなかったが、注意して読めば至るところに〈描かれざる性愛場面〉が仕込まれている。未亡人プラスコーヴィヤは夫亡き後、律儀に貞操を守って暮らしていたわけではない。現に、事件屋の渾名を持つ文官七等官チェバーロフと愛人関係を持って定期的に会っている。こういった女将の裏事情に通じているのが女中のナスターシャである。ナスターシャ・ピョートヴァはなかなか洒落のわかる柔軟な精神の持ち主で、女将プラスコーヴィヤとハーモニーを奏でているヴラズミーヒンとも粋な軽口を交わすことができる女性として描かれている。

 

 「ねえ、ナスターシュシカ、プラスコーヴィヤ・パーヴロヴナ(主婦の正式の呼名)に言って、ビールを二本ばかり出してもらえるとありがたいな。一杯やりたいんでね」とラズミーヒンに言われた時、ナスターシャは「まあ、図々しいよ、こののっぽは!」とつぶやいて言いつけを果たしに行く。江川卓が〈のっぽ〉と訳したロシア語〈востроногий〉を米川正夫は〈長脛〉、小沼文彦は〈ちゃっかりや〉と訳している。辞書を引くと〈востроногий〉は〈よく駆回る〉とあり〈востроносый〉は〈鼻の尖った〉とある。ナスターシャは後にラズミーヒンを〈おす犬〉(пёс)とも言っているから、〈востроногий〉には尖った鼻先をクンクンさせながら盛りのついためす犬をかぎ出す〈おす犬〉の意味が込められていたと見ることができる。

 

 ラズミーヒンは女将を〈プラスコーヴィヤ・パーヴロヴナ〉と名と父称で正式に呼ぶかと思えば、ハーモニーを奏でた仲らしく〈パーシェンカ〉と愛称で呼び、ロジオンに向かって臆面もなく「いや、きみ、彼女があれほどの……魅力があるとは……さすがにぼくも思いがけなかったね、え? きみはどう思う?」とか「それがまた、すこぶるつきなんだな」「そうなんだ、すこぶるつきの絶品でね、文句のつけどころなしさ」と言う。ロジオンは沈黙を守っているが、ナスターシャはすぐに「まあ、いやらしい!」と大声で応えている。この大声は批判とか非難を意味しない。ナスターシャはラズミーヒンの下ネタを存分に楽しんでいる。  

 

  ラズミーヒンを〈おす犬〉呼ばわりしたナスターシャは、ロジオンに向かっても〈犬ころ〉と言っている。警察署からの呼出状を持ってきた庭番に付いてきたナスターシャが部屋の掛金をはずさないロジオンに「明けても暮れても、まるで犬ころみたいに寝込んでてさ! 犬ころだよ、ほんとに!」(целые дни-то деньские, как пёс, дрыхнет ! Пёс и есть !)と叫ぶ場面がそれである。ナスターシャはラズミーヒンに対してと同じ〈пёс〉という言葉を使っているが、ロジオンの場合はめす犬を追いかけ回す〈おす犬〉という意味では使われていない(少なくともこの場面においては)。

 

 さて、ラズミーヒンが言う女将パーシェンカの〈魅力〉(авенантненькая)、〈すこぶるつきの絶品〉(и очень даже в порядке)は、江川卓がハーモニーを意識して訳しているので分かりやすいが、ほかの翻訳者で読むとラズミーヒンがこれらの言葉に託した形而下的な意味はほとんど読みとれない。ラズミーヒンの女将に対する言葉の背後に二人の〈性愛関係〉があることは明白であり、この〈描かれざる性愛場面〉を見逃すと、人物たちを十全に理解することはできない。〈説得者〉であるヴラズミーヒンは女将のロジオンに関する不安を解消したばかりでなく、その〈魅力〉をも存分に堪能した〈おす犬〉でもあったことを見逃してはならない。

 

  ロジオンは犯行前、ラズミーヒンのアパートを訪れ翻訳の仕事を分けてもらう。しかしすぐに考えを変え、何の説明もせずに立ち去る。ロジオンの無礼な言動に腹をたてたラズミーヒンは、ロジオンの住居を探し出して彼をこらしめてやろうと思う。ラズミーヒンはその日のうちから探し回るが発見できず、翌日、警察署の住所係を訪ねてロジオンの住所を聞き出すことに成功する。警察署でラズミーヒンは、呼出状の担当事務官ザメートフ、署長ニコジム・フォミッチ、副署長イリヤ・ペトローヴィチなどから署でのロジオンの件を取材し、最後に下宿の女将プラスコーヴィヤからすべての事情を聞き出す。

 

 ロジオンは三年前、故郷リャザン県ザライスクから単身上京、プラスコーヴィヤの所に下宿しペテルブルク大学法学部に入学する。プラスコーヴィヤは八等官未亡人でナターリヤという不具の娘があった。ロジオンはこの娘と婚約する。警察署でロジオンは聞かれもしないのに、婚約は口約束であり、ナターリヤのことも特に好きなわけではなかったと話している。ではなぜ婚約までしたのか。ロジオンもまた若い〈おす犬〉(пёс)で、性欲を手っ取り早く、しかもただで満足させるためという穿った見方もできる。

 

  わたしは『罪と罰』を初めて読んだ頃、ロジオンについて人類の苦悩を一身に背負った文学青年的なイメージを抱いていたが、長い年月をかけて読み込んでいくうちに、それとは違ったイメージを抱くようになった。ロジオンは上京当時、貧しい状況にあったにも関わらず、ドイツの青年貴族が被るようなチンメルマン製の丸型帽子を購入したり、将来の見通しもつかないうちにいきなり婚約したり、女将から多額の借金をしたりと、どう見ても軽佻浮薄な青年にしか見えない。一方、女将の方から見れば、不具の娘と婚約してくれた、将来有望株であるペテルブルク大学法学部の学生は頼もしく思えたのかも知れない。ところが、娘は一年前に腸チフスで死んでしまい、有望株ロジオンの義母となる夢は潰えた。しかも大学をやめたロジオンは働きもせず、下宿代も払わず、アパートを出て行くこともしない。不安に駆られた女将は九ヶ月前、ロジオンに借用書を書かせる。額面は百十五ルーブリである。

 

  ちなみに、わたしはロジオンが女将から借りていた金額を江川卓訳で読むまでずっと百五十ルーブリだと思っていた。これはわたしの記憶間違いではなく、わたしが愛読していたグリーン版世界文学全集米川正夫訳『罪と罰』の二カ所にそのように書かれていたのである。なぜ百五十ルーブリが江川卓訳で百十五ルーブリになっているのか。手元にあるアカデミア版全集で確認すると、そこには二カ所とも〈сто пятнадцать рублей〉とあり、間違いなく百十五ルーブリである。ロシア文学の大家として知られる米川正夫がこんな基本的なことを間違えるはずはないと思いながら米川正夫訳決定版ドストエーフスキイ全集第六巻『罪と罰』(一九五八年十一月三十日 第二次第一刷発行 河出書房新社)を見ると、ここでも百五十ルーブリとなっている。さらに米川正夫(1891-11-25~1965-12-29)の死後に刊行された愛蔵決定版ドストエーフスキイ全集第六巻『罪と罰』(一九六九年五月二十五日)を見ると、ここでは百十五ルーブリに訂正されている。この全集の月報に記載された〈編集室から〉に「死後、訳者の遺志をついで若手研究者グループがこの仕事をなしとげました」とある。筑摩書房から個人訳ドストエフスキー全集を刊行していた生前の小沼文彦は、他人の手の入ったこの全集は米川正夫個人訳とは見なせないと言っていたことを思い出す。いずれにせよ、百五十ルーブリを百十五ルーブリに訂正したのは米川正夫ではなく〈若手研究者グループ〉ということになる。それにしても、なぜ米川正夫は百五十ルーブリと訳したのか。単なる思い違いですませられるものなのか。つくづく翻訳だけで読むことの危険性を身に染みて感じる。ちなみに、現在刊行中の講談社版文庫本・米川正夫訳『罪と罰』では百五十ルーブリのままとなっている。

 

  さて、〈おす犬〉ラズミーヒンに戻ろう。彼はロジオンがサインした百十五ルーブリの手形が女将と親しくしている七等官チェバーロフの手にわたったことを知り、この男を呼び出してわずか十ルーブリで買い戻す。事件屋のチェバーロフもラズミーヒンにかかってはチンピラ扱いである。ラズミーヒンはロジオンが警察署から呼出しをくらった債権問題を実にてきぱきと鮮やかに解決して見せた。ロジオンのことで内心もやもやしていた女将のプラスコーヴィヤが救世主ラズミーヒンに身も心も奪われてしまったのも無理はない。女将をたらし込んだラズミーヒンは牛肉でもビールでもなんでも思いのままというわけである。

 

 ところで、この女たらしのラズミーヒンはロジオンの妹ドゥーニャに一目惚れしてしまう。ラズミーヒンは厄介者になったパーシェンカを、自分と同じ〈女たらし〉(потаскун=放蕩者、浮気者)の医師ゾシーモフに押しつけようと様々な甘言を弄する。「実はだね、今夜きみはおかみのほうに寝て(やっとのことで彼女に承知させたんだ)、ぼくは台所に寝るんだが、こいつは、きみらふたりがねんごろになる絶好のチャンスなんだ」「あれはね、きみ、恥ずかしがり屋で、無口で、内気で、恐ろしいばかり身持が固くて、しかもだな、溜息ひとつでとろけちまう女さ、蝋のようにとろけちまうんだ! 頼む、一生のお願いだから、ぼくをあの女から救ってくれないか! 実に魅力のある女だぜ!……恩に着るよ、ぜったい恩に着るよ」「あそこには、きみ、羽根ぶとんそのものがあるよ、まったく! いや、羽根ぶとんだけじゃない! あそこには、こう人を引き入れるような何かがあるんだな。あそこは地の果てさ、碇舶地さ、地球の臍さ、世界を支えている三匹の鯨さ、薄焼ケーキのエッセンスさ、油っこいピローグや、夜ごとのサモワールや、ひそかな溜息や、暖かい女物の上着や、ぽかぽかする暖炉の上の寝床なんかのエッセンスなのさ。まあ、死んだような、生きたような、両方の気分がいっきょに味わえるというやつなんだな!」――なんとも調子のいい、自分勝手な押しつけのセリフである。女将プラスコーヴィヤが〈実に魅力のある女(Преавенантненькая)であるなら、ゾシーモフになど譲らなければいいものを、彼はドゥーニャの美に圧倒され、一瞬のうちに魅了されてしまったのである。

 

  ちなみに、ラズミーヒンは女将に対して先にも〈авенантненькая〉(江川卓訳では〈魅力のある〉)という言葉を使っているが、この言葉は日本で発行されている辞書には載っていない。この語はフランス語の〈avenante〉(魅力のある・愛想のいい)をロシア語風にアレンジしたもので、肉体的、性愛的な次元での意味を含んでおり、当時のインテリ学生たちの間では隠語的に使われていたのかも知れない。米川正夫は〈味をもっていようとは〉、小沼文彦は〈やさしい気持をもった〉、工藤精一郎は〈チャーミングな〉と訳している。いずれにせよ、ラズミーヒンとプラスコーヴィヤの〈ハーモニー〉の実態、その〈描かれざる性愛場面〉を想像できなければ、この言葉〈авенантненькая〉を体感的に読みとることはできない。

 

  ラズミーヒンはまた、いっさいの偏見を根絶するためや、事件屋のチェバーロフを懲らしめるために「電流を放つ」といった言い方をしているが、こういった表現も当時のリベラルな思想を抱いた若者特有のものであったのかもしれない。ラズミーヒンは社会変革者として、また自らの良心に照らして悪者を罰するために〈電流〉を放つことのできる、現世的次元での〈神〉的役割を担った若者とも言えようか。

 

 ラズミーヒンはプラスコーヴィヤと性的関係を持った翌々日にはゾシーモフに彼女を押しつけることに成功し、ルージンと婚約していたドゥーニャに接近をはかる。結果だけを見れば、ラズミーヒンはルージンとの婚約を破棄し、スヴィドリガイロフの脅迫的陰謀から逃れたドゥーニャと結婚することになる。描かれた限りで見れば、めでたくドゥーニャと結ばれたラズミーヒンが以後〈女たらし〉(потаскун)ぶりを発揮することはなかった。ラズミーヒンはロジオンの母プリヘーリヤと妹ドゥーニャにとって当初から絶対的な信頼を得た好青年で、プリヘーリヤは彼を〈救いの神とも頼む人〉と見なしていた。作者はここで〈神〉を〈провидение〉で表している。

 

  ところで、〈провидение〉(神)で想起するのはスヴィドリガイロフである。彼は壁一枚隔てた自分の部屋で、ソーニャがロジオンに聞かせた〈ラザロの復活〉を立ち聞きしていた、いわば〈奇蹟〉(чудо)の〈立会人〉(свидетель)であり、後日、カチェリーナの連れ子三人を養育院に預けたりソーニャを淫売稼業の泥沼から救い出すなど〈実際に奇蹟を起こした人〉(чудотворец)になった男である。スヴィドリガイロフは亡き妻マルファの〈幽霊〉(привидение)を三度ほど見て、言葉まで交わしている。ロシア語のマルファ(Марфа)はラザロの姉妹の一人マルタを意味する。死んでも〈幽霊〉となって現れてくるマルファはスヴィドリガイロフに〈実際に奇蹟を起こす神〉(провидение)になることを促しているようにも思える。

 

  さて、ラズミーヒンであるが、彼もまた現実的に奇蹟を起こす〈神〉(провидение)としての役割を負っている。ロジオンは犯行の翌日、ラズミーヒンの下宿を訪ねた夜、自室で意識不明に陥る。ロジオンが意識を回復するのは四日目の午前十時頃である。この時、ロジオンの傍らで甲斐甲斐しく面倒をみたのがラズミーヒンである。彼は、死んで四日もたっていたラザロを復活させた神のひとり子よろしく、意識不明に陥っていたロジオンを四日目に蘇らせた〈神〉ということになる。この〈神〉はロジオンが意識不明の間に、女将とハーモニーを奏でたばかりでなく、女将から事件屋チェバーロフの手にわたっていたロジオンの借用証書を取り返してもいた。まさにラズミーヒンは現実的な実効性を備えた〈神〉(провидение)ということになる。

 

 ソーニャは「黄色の鑑札」を受けた、いわば国家から認められた公娼であるが、汝姦淫することなかれという神の命令に背いていたことに変わりはない。ただしソーニャは、二人の女を殺しておきながら遂に罪の意識に襲われなかった〈不信心者〉(безбожник)ロジオンとは違って、深い罪意識に苦しんでいた〈信仰者〉(狂信者=юродивая)であった。ソーニャは論理に立脚する思弁家ロジオンから見れば〈なんにもしてくれない神〉を〈なんでもしてくださる神〉として信仰している。このソーニャの信仰する〈神〉(бог)と〈実際に奇蹟を起こす神〉(провидение)を同一視することはできないだろう。〈実際に奇蹟を起こす神〉はスヴィドリガイロフやラズミーヒンという現実を生きている人間がその役割を果たすことができるが、ソーニャの信じている〈神〉はその姿を万人の前に現すことはない。

 

  ロジオンに殺されたリザヴェータとソーニャは観照派に属する信徒で、神を視ることができたと言われる。作者はソーニャの視る〈神〉(бог)を実体感のある〈幻〉(видение)として表現している。〈ラザロの復活〉朗読の場面では、確かにソーニャの傍らに〈幻=キリスト〉があらわれているが、ロジオンはそれを視ることはできなかった。ロジオンがこの〈幻=ソーニャ=キリスト〉を視るのはシベリアで復活の曙光に輝く時まで待たなければならなかった。スヴィドリガイロフは〈ラザロの復活〉朗読の立会人で〈実際に奇蹟を起こす神〉〈провидение〉として振る舞いながら、結局は亡き妻マルファと同じく〈幽霊〉(привидение)的な存在にとどまったとも言える。〈幽霊〉スヴィドリガイロフが自殺して逝った〈あの世〉とはどういうものなのか。生きながらにして死んでいたような〈幽霊〉スヴィドリガイロフは現世で唯一〈淫蕩〉に望みをかけていたが、その望みもドゥーニャの拒否によって潰えた。彼の自殺は〈幽霊〉の現世での最後の戯れと見るほかはない。

 

 『罪と罰』には現世のみを生きているような人物と、現世を超越したようなある種霊的な要素を多分にそなえた人物が登場している。ポルフィーリイ予審判事、スヴィドリガイロフ、ソーニャは後者に属するが、ドゥーニャ、ラズミーヒンは前者に属する典型的な人物である。

 

  スヴィドリガイロフとラズミーヒンでは同じ〈実際に奇蹟を起こす神〉(провидение)とは言っても、その性格は大いに異なる。スヴィドリガイロフは象徴的次元ではまさに〈幽霊〉(привидение)だが、ラズミーヒンはどこをとっても現世的な人物である。スヴィドリガイロフの〈淫蕩〉(разврат)は常軌を逸して狂気染みているが、ラズミーヒンの〈女たらし〉(потаскун)は常識と理性・分別の枠内に収まっている。ドゥーニャはスヴィドリガイロフという現世と来世をまたに掛けた〈развратитель〉(淫蕩漢)と深く関わることはできなかったが、ラズミーヒンという常識的次元に収まった〈потаскун〉(浮気者、放蕩者)を受け入れることはできたというわけである。

 

 スヴィドリガイロフはソーニャを淫売稼業の泥沼から救いだし、三千ルーブリもの金を与えた。そのことでソーニャは八年の刑を宣告されたロジオンをシベリアにまで追っていくことができた。このシベリアでロジオンはソーニャと共に〈愛〉によって復活することができた。二人を復活の曙光に輝かせたこの〈愛〉(любовь)は、マルメラードフやソーニャが信じていた〈神〉(бог)の〈愛〉である。すでに指摘したように、この〈神〉は信仰者ソーニャにとっては「なんでもしてくださる神」であるが、思弁家ロジオンにとっては「なんにもしてくれない神」であった。つまりロジオンは論理的思考によっては遂に発見し得ぬ〈神〉(бог)の〈愛〉(любовь)によって〈復活〉したのであって、〈実際に奇蹟を起こす神〉(провидение)スヴィドリガイロフの善行によってではない。スヴィドリガイロフはロジオンの元にソーニャを派遣したという意味では、ロジオンが信仰を獲得するための仲介者の役割を果たしたとは言えよう。

 

  ここで詳しくは触れないが、ロジオンに〈同じ森の獣〉を嗅ぎ取っていたスヴィドリガイロフは、二度にわたってソーニャとロジオンのやりとり(一つは〈ラザロの復活〉朗読場面、さらにもう一つはロジオンのリザヴェータ殺しの報告及びロジオンとソーニャの〈嵐=буря〉、すなわち娼婦と殺人者の霊肉合体=激しいセックスの場面)を立ち聞きしていたこともあって、ロジオンの秘密をすべて知り尽くしていた。〈привидение〉(幽霊)スヴィドリガイロフは〈чудотворец〉(実際に奇蹟を起こす人)から、さらに〈провидение〉(実際に奇蹟を起こす神)にまでなって、ロジオンが本当に必要としていたソーニャを派遣し、ソーニャが信じる〈神〉(бог)へと絶対帰依させたのである。まさに現世と来世をまたに掛けた〈幽霊〉スヴィドリガイロフにしかできない神業であったと言えよう。

 

  一方、現世的次元でのみ〈実際的な奇蹟を行う神〉ラズミーヒンはドゥーニャと結婚し、やがては二人してシベリアに移住し、ロジオンを実際的な面において支えようと考えている。はたしてラズミーヒンの実際的な〈神〉(провидение)とロジオンとソーニャが信じる超越的な〈神〉(бог)はどのように折り合いをつけていくのだろうか。『罪と罰』というまさに巨大な嵐のドラマに幕が下りてからのロジオンとソーニャの〈日常〉にまなざしを注ぐと、途方もなく広大なキョムの光景が浮かんでくる。「熱血漢で、あけっぴろげで、生一本で、誠実で、昔話の巨人勇士のように力持」のラズミーヒンによっても、このキョムの光景をなんともすることはできまい。ロジオンはソーニャと共にラズミーヒンの常識、理性、分別では絶対に届くことのない〈あちら側〉の世界へと行ってしまったように思える。スヴィドリガイロフのように〈幽霊〉(привидение)も見ず、ソーニャのように〈神〉(видение)を見ることもできないラズミーヒンが、いったいどのようにロジオンとソーニャの〈新生活〉を支えることができるのだろうか。

 引用テキストは『罪と罰』(江川卓訳 岩波文庫)、『ПРЕСТУПЛЕНИЕ И НАКАЗАНИЕ』(アカデミア版30巻全集第6巻)に拠った。