ソーニャの部屋 ──リザヴェータを巡って──(連載3)   〈ゆがんだ燭台に立っているろうそく〉    ──ナタリヤ、ソーニャをめぐって──

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清水正画 「ドストエフスキーの肖像」

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江古田文学』107号ドストエフスキー論特集号に掲載した論考の再録。

何回かにわたって再録します。

江古田文学』107号ドストエフスキー特集号刊行  

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ソーニャの部屋

──リザヴェータを巡って──(連載3)

 

〈ゆがんだ燭台に立っているろうそく〉

   ──ナタリヤ、ソーニャをめぐって──

 

清水 正 

 

 さて、小林秀雄は〈ラザロの復活〉朗読後の場面を引用するにあたって、永遠の書物を共に読んだ〈殺人者と淫売婦〉を強調している。つまり小林はこの場面の冒頭に書かれた〈ゆがんだ燭台に立っているろうそくの燃えさし〉を脇役に位置づけている。小林の眼差しはあくまでも〈殺人者と淫売婦〉を主役と見ている。しかし作者が描いたままに見れば、この二人をぼんやりと照らしながら今にも消え入りそうになっている〈ろうそくの燃えさし〉の方が実は主役だったのではないかとも思える。

 この〈ゆがんだ燭台に立っているろうそく〉は、ロジオンがソーニャの部屋に入ってから〈ラザロの復活〉朗読を終えるまで終始、部屋の中を照らしていたわけだが、もともとは〈思いきり小さな入口の間〉に置かれていたものである。作者は「そこにはぺちゃんこになったいすの上に、ひんまがった銅の燭台にさしたろうそくがとぼっていた」(354)〔Тут, на продавленном стуле, в искривленном медном подсвечнике, стояла свеча.〕(ア・241)と書いている。強調されているのは〈ぺちゃんこ〉であり〈ひんまがった〉である。つまり〈ラザロの復活〉朗読の場面を照らすろうそくは〈ぺちゃんこになったいす〉の上に置かれ、〈ひんまがった銅の燭台〉にさされたものでなければならなかったということである。

 ロジオンはソーニャにことわりもなく部屋に入っていくが、その部屋には一本のろうそくの灯も点っていなかったのであろうか。ソーニャは一分ほどして部屋に入ってくるが、そのとき手にしていたのがこの〈ひんまがった銅の燭台〉にさされていた〈ろうそく〉である。

 この〈ろうそく〉から連想される二人の女性が存在する。一人はロジオンの婚約者であった下宿の娘ナタリヤである。ナタリヤについてまずはラズミーヒンの言葉を引いておこう。彼は上京したばかりのプリヘーリヤとドゥーニャに向かって、ロジオンの〈花嫁〉(невеста=婚約した女)について「人の話では、花嫁もいいきりょうではなかった、つまり、むしろ不きりょうなくらいで......それに病身で......変な娘だったそうですよ......もっとも、どこかにいいとこがあったらしいんです」(239)〔говорят, невеста была собой даже не хороша, то есть, говорят, даже дурна... и такая хворая, и... и странная... а впрочем, кажется, с некоторыми достоинствами.〕(ア・166)と言っている。 

 ラズミーヒンは下宿の女将ザルニーツィナから直接聞きだしたことやひとの噂話からナタリヤの肖像を語っているわけだが、彼のこの語りには多くの秘密が隠されている。まず一つは、〈おす犬〉(пёс)であったラズミーヒンがロジオンの新しい下宿を探し出したその日のうちに、女将すなわち一年前に腸チフスで亡くなった娘ナタリヤの母親で未亡人であったプラスコーヴィヤ・ザルニーツィナと〈ハーモニー〉を奏でていたということである。ラズミーヒンを単なるひとのいい若者という次元でのみ見ていると、『罪と罰』に仕掛けられたさまざまな形而下的事実(性的関係)を見逃すことになる。女将プラスコーヴィヤは発展家の未亡人で文官七等官チェバーロフを情夫にして定期的に関係を結んでいた女である。

 ラズミーヒンは性愛関係を結んだ女将をパーシェンカなどと愛称で呼んでいるが、初めて会ったドゥーニャに一目惚れすると、すぐに医師ゾシーモフに「あれは、きみ、はにかみやで、無口で引っ込み思案で、そのうえ驚くばかり童貞心を持ってるんだ。しかも、それらいっさいに、かてて加えて──悩ましいため息をつきつき、ろうのように溶けちゃうほうだからね! きみ、この世にありとあらゆる悪魔にかけて頼むが、あの女からぼくを救ってくれんか! じつに一風かわったおもしろい女だぜ! 礼はする、誓ってするよ!」(229)〔Тут, брат, стыдливость, молчаливость, застенчивость, целомудрие ожесточенное, и при всем этом ── вздохи, и тает как  воск,  так и тает!   Избавь  ты  меня  от  нее,  ради  всехчертей в мире!  Преавенантненькая! ...Заслужу, головой заслужу!〕(ア・160)などと言って押しつけようとする。

〈ろうのように溶けちゃう女〉〈一風かわったおもしろい女〉というのは、プラスコーヴィヤと性愛関係を結んだ〈おす犬〉ラズミーヒンだからこその言葉である。つまりラズミーヒンはプラスコーヴィヤの濡れ場での性癖を存分に味わった者として、〈不きりょう〉(дурной=悪い・醜い、不品行な・不道徳な、ばかな)で〈病身〉(хборый=虚弱な・病身の)で〈変な娘〉(странный=奇妙な・奇怪な・奇異な・不思議な・異常な)ナタリヤの「どこかにいいとこがあった」ということをそれとなく強調しているのである。〈いいとこ〉(достоинства=価値)を観念的、形而上学的な次元でのみ受け取ってはならない。ロジオンがナタリヤに惹かれたのは、彼女が形而下的次元においても〈じつに一風かわったおもしろい女〉(Преавенантненькая)であったからなのである。

〈Преавенантненькая〉を中村白葉は〈中々素晴しい女〉、江川卓は〈実に魅力のある女〉と訳しているが、この語は三省堂のコンサイス露和辞典、研究社露和辞典にも収録されていない。おそらくこの語は俗語・隠語として使われていたのであろう。ラズミーヒンはゾシーモフを醜悪なほどの〈女好き〉(потаскун)と言っているから、この〈Преавенантненькая〉には〈女好き〉同士にはよく分かっている形而下的意味が込められていたということになろうか。因みに〈авенантненькая〉はフランス語の〈avenante〉(魅力のある・愛想のいい)をロシア語化した外来語だが、露和辞典に載っていないことを考えると、当時の若い知識人たちが隠語的に仲間内だけで使っていた一種のはやり言葉であったのかもしれないし、またはフランス語やドイツ語に通じていたラズミーヒンの造語の一つであったのかもしれない。

 さて、ロジオンはナタリヤをどのように見ていたのだろうか。〈おす犬〉(пёс)で〈女たらし〉(потаскун)のラズミーヒンのナタリヤ評を踏まえた上で見ていくことにしよう。ロジオンは母と妹とラズミーヒンのいる前で次のように言っている。「それは病身な娘でしたよ(略)まったくの病身でした。乞食に物をやることが好きでね、しょっちゅう尼寺のことばかり空想していましたよ。(略)きりょうの悪い女でしてね......まったく、どうして、あの時あんな女に心をひかれたんだか、わけがわからないくらいです。おそらく、いつも病気がちだったせいだろうと思います......もしそのうえ、びっこか背むしだったら、もっと好きになったかもしれない......」(255〜256)〔Она больная такая девочка была,(略)совсем хворая; нищим любила подавать, и о монастыре всё мечтала, (略)Дурнушка такая... собой.  Право, не знаю, за что я к ней тогда привязался, кажется за то, что всегда больная...  Будь она еще хромая аль горбатая, я бы, кажется, еще больше ее полюбил...〕(ア・177)

〈病身な娘〉(больная девочка)、〈まったくの病身〉(совсем хворая)、〈きりょうの悪い女〉(Дурнушка)というのは先のラズミーヒンのナタリヤ評を受けての言葉であるが、乞食に物をやるのが好きだったとか、いつも尼寺のことを空想していたというのは初耳である。ロジオンの言葉からナタリヤが貧しい者、虐げられた者、社会から差別されるような弱者に対して深い同情心を持った娘であること、同時にナタリヤが現実の世界に絶望し、強く出家願望を抱いていた求道者的な精神を持っていたことが察せられる。

 ロジオンとナタリヤに関しては何ら具体的に描かれてはいないので、彼らがどのような精神的肉体的な関係を結んでいたかは分からない。しかし『罪と罰』における人物たちの形而下学に執拗に照明を当ててきた者の目には、ナタリヤの〈尼寺〉(монастырь=尼僧院、修道院)に対する空想をきれいごとの次元でのみ受け止めることはできない。尼僧院に身を委ねることは世俗から離れて神へ仕えることを意味しようが、古代において神殿の巫女が娼婦をも兼ねていたことを失念してはならないだろう。ロシアにおいても〈尼僧院〉の尼僧が娼婦的な奉仕とまったく無縁であったとは言えまい。ソーニャに〈尼僧院〉空想はなかったが、彼女は世俗世界において〈娼婦〉であり、同時に〈信仰者〉であったことも忘れてはなるまい。ソーニャにおいて〈姦淫〉は、彼女の肉体を求める男たちに対する奉仕であり、〈性〉と〈聖〉は切り離せない関係にある。

 ナタリヤはロジオンと婚約していたのであるから、二人の間に性的関係があったことは当然であろう。ラズミーヒンやゾシーモフが〈女たらし〉(потаскун)であったように、屋根裏部屋の空想家ロジオンもまた特別の嗜好を持った〈女好き〉であったことに間違いはない。オフィーリアに向かって「尼寺へ行け」と叫んだハムレットは〈高潔な美しい女〉がお好みだったが、十九世紀中葉のロシアに現れた〈ハムレット〉(ロジオン)は〈病身〉で〈きりょうの悪い女〉(Дурнушка)がお好みなのである。のみならず、ロジオンはさらにナタリヤが〈びっこ〉(хромая)か〈背むし〉(горбатая)であったらさらに良かったと言っているのだから正真正銘の変態好きである。しかも、ロジオンはナタリヤの身体的不具にのみ惹かれたのではない。先にラズミーヒンが暗示的に言っていたようにナタリヤは性的次元においても〈じつに一風かわったおもしろい女〉(Преавенантненькая)であり、ロジオンはそこにも強く惹かれていたと見ることができる。なにしろロジオンは海千山千の淫蕩漢スヴィドリガイロフに〈同じ森の獣〉と見なされた青年である。

 ロジオンはスヴィドリガイロフ並みの変態、淫蕩漢の素因を存分に備え持った青年であることを見逃してはなるまい。ロジオンが小柄で細い病弱そうな若い淫売婦ソーニャに惹かれたのは、彼の嗜好からすれば当然だったということになる。病身で器量の悪いナタリヤは未だ〈尼寺〉幻想にとどまっていた〈じつに一風かわったおもしろい女〉(Преавенантненькая)であったが、小柄でやせ細った狂信者ソーニャは〈幻〉(видение=キリスト)を視ることのできる〈淫売婦〉(блудница)である。ロジオンはナタリヤが一年前に腸チフスで死んでしまったことにより、彼女と〈同じ道〉(ナタリヤは尼僧院へ、ロジオンは修道院に入ることで神へと絶対帰依する信仰者の道)を歩むことはできなかったが、マルメラードフの告白話からソーニャを知った彼はソーニャと同じく〈踏み越える〉(переступить)ことで〈同じ道〉を歩もうとした。先に指摘したように、ロジオンとソーニャの〈踏み越え〉の内実は対極に位置するが、ロジオンは共に〈罪〉(人殺しの罪と姦淫の罪)を犯した〈呪われた人間〉という認識に立ってソーニャと〈同じ道〉を歩もうとするのである。いずれにしても、ロジオンとソーニャが〈踏み越えた〉(переступила)人間であることによって〈神〉(бог)と深く関わっている存在であることに間違いはない。

 

 

江古田文学ドストエフスキー特集・収録論考
清水正……「ドストエフスキー特集を組むにあたって――ドストエフスキーとわたしと日大芸術学部
ソコロワ山下聖美……サンクトペテルブルク~美しく、切ない、芸術の街~
齋藤真由香……理想の人生を降りても
高橋実里……子どもとしての存在――『カラマーゾフの兄弟』と宮沢賢治
伊藤景……ドストエフスキーとマンガ――手塚治虫版「罪と罰」を中心にして――
坂下将人……『悪霊』における「豆」
五十嵐綾野……寺山修司ドストエフスキー~星読みをそえて~
猫蔵……三島由紀夫ドストエフスキー~原罪

下原敏彦……「ドストエーフスキイ全作品を読む会」五十周年に想う

牛田あや美……ドストエフスキー文学の翻訳とメディア化

岩崎純一……ドストエフスキーニーチェ──対面なき協働者──

清水正……ソーニャの部屋ーーリザヴェータを巡ってーー

 

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清水正ドストエフスキー論全集

 

清水正の著作の購読申込、課題レポートなどは下記のメールにご連絡ください。
shimizumasashi20@gmail.com

清水正ドストエフスキー論全集』第11巻(D文学研究会A5判上製・501頁が出来上がりました。

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定価3500円+税

 これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

六月一日から開催予定だった「清水正・批評の軌跡」展示会はコロナの影響で九月一日から9月24日までと変更となりました

 会期:2021年9月1日(水)~9月24日(金)

 会期中開館日:平日のみ。午前9時30分~午後4時30分(完全予約制)

 ※ご来場の際は事前に公式HP(https://sites.google.com/view/shimizumasashi-hihyounokiseki)にご確認ください。

九月一日から日大芸術学部芸術資料館に於いて清水正・批評の奇跡──ドストエフスキー生誕二〇〇周年記念に寄せて──』展示会が開催される。1969年から2021年まで五十余年にわたって書き継がれてきたドストエフスキー論、宮沢賢治論、舞踏論、マンガ論、映画論などの著作、掲載雑誌、紀要、Д文学通信などを展示する。著作は単著だけでも百冊を超える。完璧に近い著作目録の作業も進行中である。現在、文芸学科助手の伊藤景さんによって告知動画も発信されていますので、ぜひご覧になってください。