清水正「ソーニャの部屋 ──リザヴェータを巡って──(連載8)   ロジオンの視た〈幻覚〉(греза) ──ヨハネの黙示録に記された〈新しきエルサレム〉との関連において──」江古田文学107号より再録

 

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清水正画 「ドストエフスキーの肖像」

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江古田文学』107号ドストエフスキー論特集号に掲載した論考の再録。

何回かにわたって再録します。

江古田文学』107号ドストエフスキー特集号刊行  

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ソーニャの部屋

──リザヴェータを巡って──(連載8)

ロジオンの視た〈幻覚〉(греза)

──ヨハネの黙示録に記された〈新しきエルサレム〉との関連において──

清水 正

 

   ロジオンの視た〈幻覚〉(греза)──ヨハネの黙示録に記された〈新しきエルサレム〉との関連において── リザヴェータと遭遇してから、翌日、つまり犯行当日のロジオンがどのような道筋を経て犯行に到ったか、まずはそれをじっくりと見ていくことにしよう。

 センナヤ(乾草広場)から帰ると、彼は長いすの上に身を投げ出したまま、まる一時間くらい、身動きもせず腰かけていた。やがてそのうちに暗くなった。彼の部屋には、ろうそくがなかったけれど、燈をつけようという考えも浮かばなかった。(74)

 注意すべきは、ロジオンの屋根裏部屋に〈ろうそく〉がなかったということである。ロジオンは暗い部屋の中にいて〈ろうそく〉の燈を求めようとする気をまったく起こさない。ロジオンは未だ暗闇の中にとどまる者である。やがてロジオンは長いすに横になると深い眠りに落ちる。 翌日の朝十時に、熟睡していたロジオンはナスターシャにゆすぶり起こされ、お茶をすすめられるが、それを拒んで再び眠りに落ちる。午後二時、ナスターシャは再びスープを持ってロジオンの部屋を訪れ、お茶が手つかずだったのに腹をたて、意地ずくで起こしにかかる。起こされたロジオンを作者は「彼は身を起こしてすわったが、ひとことも口をきかず、床を見つめていた」(75)〔Он приподнялся и сел, но ничего не сказал ей и глядел в землю.〕(ア・55)と書いている。注意すべきはナスターシャに対するロジオンのそっけなさである。ナスターシャはロジオンを心配してお茶やスープをわざわざ運んでいるのに、ロジオンはナスターシャの心配りに対して何ら人間的な対応をせず、厄介もの扱いですましている。

 ナスターシャは女中兼料理女として雇われている女で、作者は彼女の年齢や家族関係、給料などいっさい書いていないが、彼女が紛れもなく〈庶民〉の一員であることに間違いはない。自分を〈非凡人〉の範疇に属する者と見なすロジオンには、身近に生きる庶民のすがたが目に入らない。しかし、〈庶民〉から遊離した単独者ロジオンは、この時、〈庶民〉から無理矢理起こされ、黙ったまま床を見つめている。

 ここで〈床〉と訳されたロシア語は〈пол〉ではなく、〈土地〉や〈大地〉を意味する〈земля〉である。後にロジオンはソーニャから「あなたがけがした大地に接吻なさい」(477)〔поцелуй сначала землю, которую ты осквернил,〕(ア・322)と命令されることになる。ロジオンは棺のような屋根裏部屋にあって〈大地〉をじっと見つめる青年であったことを見落としてはなるまい。

 ナスターシャが部屋を出て行った後の叙述場面を見てみよう。

 

 彼は食欲なしにほんの少しばかり、三さじ四さじ、機械的に食べた。頭痛は少しうすらいだ。食事を終わると、また長いすの上に長くなったが、もう眠ることはできず、うつぶしに顔をまくらに突っ込んだまま、身動きもしないで横になっていた。彼の目にはたえず幻が見えた。それが皆じつに奇妙な夢だった。一ばんよく見えたのは、どこかしらアフリカかエジプトの、オアシスめいた所にいる夢だった。隊商が休息して、らくだがおとなしく寝そべっている。あたりにはやしがびっしり円くなって茂っている。みんなは食事をしているのに、彼はそばをさらさらと流れている小川にいきなり口をつけて、絶えず水をがぶがぶ飲んでいる。なんともいえないほど涼しい。そして、すばらしいコバルト色をした冷たい水は、色さまざまな石や、金をちりばめた清らかな砂の上を走っている......」(75〜76)〔Он съел немного, без аппетита, ложки три-четыре, как бы машинально. Голова болела меньше. Пообедав, протянулся он опять на диван, но заснуть уже не мог, а лежал без движения, ничком, уткнув лицо в подушку. Ему всё грезилось, и всё странные такие были грезы: всего чаще представлялось ему, что он где-то в Африке, в Египте, в каком-то оазисе. Караван отдыхает, смирно лежат верблюды; кругом пальмы растут целым кругом; все обедают. Он же всё пьет воду, прямо из ручья, который тут же, у бока, течет и журчит. И прохладно так, и чудесная-чудесная такая голубая вода, холодная, бежит по разноцветным камням и по такому чистому с золотыми блестками песку...〕(ア・56)

 

 まず注意したいのは「彼の目にはたえず幻が見えた。それが皆じつに奇妙な夢だった」である。米川正夫は〈幻〉〈夢〉と訳語を変えているが、江川卓は「彼にはたえず幻覚が現われた。それも実に奇妙な幻覚ばかりだった」(上・143)と〈幻覚〉で統一している。〈幻〉でも〈夢〉でも〈幻覚〉でもどうでもいいようなものだが、作者は〈痩せ馬殺し〉の場合は〈сон〉を使って、それが〈恐ろしい夢〉(страшный сон)だったと書いている。が、ここで作者が〈сон〉ではなく〈грезилось〉〈грезы〉を使っていることは、やはり〈греза〉という語に何か特別の意味を込めていたと思える。恐ろしい〈夢〉(сон)なら誰でも見るが、実に奇妙な〈幻覚〉(греза)ばかりを見るのはきわめて稀であろう。

 第二作目の『分身』の主人公ゴリャートキンは明らかに狂気に陥った現存在であったが、ロジオンの〈幻覚〉は彼がゴリャートキンと近似的な現存在であったことを示している。ロジオンは決定的な狂気に落ちる一歩手前で、かろうじて正気を保っている青年なのである。ロジオンは機械的に食事をすますと長いすに横たわるが、もはや眠ることはできなかったというのであるから、彼が見たのは睡眠中の〈夢〉(сон)ではなく、覚醒時の〈幻覚〉(греза)ということになる。

【因みにロジオンはシベリアにおいて、ソーニャ(ソーニャの衣装を纏ったキリスト)と出会う直前に〈幻覚・幻想〉(греза)から〈瞑想・観照〉(созерцание)の状態へと入っている。〔мысль его переходила в грезы, в созерцание;〕(ア・421)を米川正夫は「彼の思いは夢のような空想と、深い黙思に移っていった」(627)、江川卓は「彼の思いは、やがて幻想へ、瞑想へと移っていった」(下・400)と訳している。神を視ることのできるソーニャが観照派に属していたとすれば、ロジオンがここで〈観照〉(созерцание)の心的状態に入ったことは重要な意味を内包していることになる。つまりロジオンもまたソーニャと同様に、神を視ることのできる存在になったということである】。

 ロジオンはさまざまな〈幻覚〉を視たと作者は書いているが、ここでそのすべてを報告しているわけではない。ナスターシャがロジオンの部屋にスープを持って入ってきたのが午後二時で、ロジオンが長いすから身を起こすまでに四時間ほど経過している。四時間ものあいだ〈幻覚〉を視続けていたとすれば、その内容はここに記されたものよりはるかに豊富だったはずである。

 さて、ロジオンの〈幻覚〉からまず最初に連想されるのは、ヨハネ黙示録に記された新しきエルサレムの光景である。この「都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られ」(21:19)、「都の門は一日中決して閉じることがない」(21:25)と記されている。ロジオンは〈幻覚〉の中でヨハネが幻視した新しきエルサレムの都に入場した者の如くに小川の水をがぶがぶ飲んでいる。黙示録には「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた」(22:1〜2)、「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」(22:17)と記されている。

 ロジオンは紛れもなく〈渇く者〉であり、彼ががぶがぶと飲んでいる水はまさに〈いのちの水〉である。ロジオンはナスターシャがわざわざ運んできたお茶は一滴も飲まず、スープもほんのわずか機械的に口に運んだだけだが、〈いのちの水〉はがぶ飲みするのである。

 ちなみにヨハネ福音書には、井戸の水をくみに来たサマリアの女に向かって、イエスが「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(4:13〜14)と言っている。また仮庵の祭りの終わりの日に、イエスは群衆に向かって大声で「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(7:37〜38)と言っている。

 ナスターシャの持ってきたお茶やスープはいくら飲んでも〈永遠のいのち〉を得ることはできない。ロジオンが視た〈幻覚〉が明確に示しているのは、彼が〈渇く者〉であり、彼が何よりも必要としていたのはイエスが与える〈いのちの水〉であったということである。

 はたしてロジオンは新しきエルサレムに入場できるのであろうか。ヨハネは〈いのちの水の川〉に触れる前に「しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる」(21:27)と記し、また念を押すように「犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される」(22:15)と記している。

 ロジオンがヨハネ黙示録を読んでいたかどうかについて、作者は明確にしていないが、犯行後にロジオンはポルフィーリイ予審判事との会話で、〈新しきエルサレム〉〈神〉〈ラザロの復活〉を信じていると明言している。この時のロジオンの言葉をそのまま素直に受け取れば、彼が福音書を読んでいなかったとは言えないだろう。

 問題は、作者がロジオンと福音書の関係について口を閉ざしていることにある。ポルフィーリイの前で〈神〉を信じていると明言するロジオンを描いておきながら、ソーニャの前では〈不信心者〉〈神の冒瀆者〉としてのロジオンを描き切っているのであるから。

 作者はロジオンの精神の分裂を客観的視点から指摘することはない。作者はロジオンの振幅の激しい精神の分裂に限りなく寄り添う途を採っている。 ロジオンは〈痩せ馬殺し〉の夢の後で、一度は悪魔の誘惑から解放されたにもかかわらず、その日の晩九時にリザヴェータと遭遇し、町人の口から二度にわたって発せられた「明日七時にいらっしゃいよ」に避けることのできない運命の予告を感じてしまう。

 町人が口にした〈七時〉は〈第七時〉(六時から七時)のことであることは先に指摘した。ここでロジオンの耳に決定的な刻印を与えたのは〈六時過ぎ〉の〈六〉ではなく〈第七時〉の〈七〉であったということである。ロジオンの運命を弄ぶかのような、この〈七〉とはいったい何なのか。

〈七〉という数字で、すぐに連想するのはこれまたヨハネ黙示録である。黙示録には異様なほど〈七〉が頻出する。〈七つの教会〉〈七つの御霊〉〈七つの金の燭台〉〈七つの星〉〈七つの教会の御使い〉〈七つの星を持つ方〉〈七つの金の燭台の間を歩く方〉〈神の七つの御霊〉〈七つのともしび〉〈七つの封印〉〈七つの角と七つの目〉〈第七の封印〉〈七人の御使い〉〈七つのラッパ〉〈七つの雷〉〈第七の御使い〉〈七つの頭〉〈七つの冠〉〈最後の七つの災害〉〈七つの災害を携えた七人の御使い〉〈永遠に生きておられる神の御怒りの満ちた七つの金の鉢〉〈神の激しい怒りの七つの鉢〉〈七つの鉢を持つ七人の御使いのひとり〉〈七つの頭と十本の角とを持つ獣〉〈七つの山〉〈七人の王〉〈先の七人のうちのひとり〉〈最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとり〉列記するだけで目眩が起きそうな〈七〉のオンパレードである。

 

 

江古田文学ドストエフスキー特集・収録論考
清水正……「ドストエフスキー特集を組むにあたって――ドストエフスキーとわたしと日大芸術学部
ソコロワ山下聖美……サンクトペテルブルク~美しく、切ない、芸術の街~
齋藤真由香……理想の人生を降りても
高橋実里……子どもとしての存在――『カラマーゾフの兄弟』と宮沢賢治
伊藤景……ドストエフスキーとマンガ――手塚治虫版「罪と罰」を中心にして――
坂下将人……『悪霊』における「豆」
五十嵐綾野……寺山修司ドストエフスキー~星読みをそえて~
猫蔵……三島由紀夫ドストエフスキー~原罪

下原敏彦……「ドストエーフスキイ全作品を読む会」五十周年に想う

牛田あや美……ドストエフスキー文学の翻訳とメディア化

岩崎純一……ドストエフスキーニーチェ──対面なき協働者──

清水正……ソーニャの部屋ーーリザヴェータを巡ってーー

 

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清水正ドストエフスキー論全集

 

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 これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

六月一日から開催予定だった「清水正・批評の軌跡」展示会はコロナの影響で九月一日から9月24日までと変更となりました

 会期:2021年9月1日(水)~9月24日(金)

 会期中開館日:平日のみ。午前9時30分~午後4時30分(完全予約制)

 ※ご来場の際は事前に公式HP(https://sites.google.com/view/shimizumasashi-hihyounokiseki)にご確認ください。

九月一日から日大芸術学部芸術資料館に於いて清水正・批評の奇跡──ドストエフスキー生誕二〇〇周年記念に寄せて──』展示会が開催される。1969年から2021年まで五十余年にわたって書き継がれてきたドストエフスキー論、宮沢賢治論、舞踏論、マンガ論、映画論などの著作、掲載雑誌、紀要、Д文学通信などを展示する。著作は単著だけでも百冊を超える。完璧に近い著作目録の作業も進行中である。現在、文芸学科助手の伊藤景さんによって告知動画も発信されていますので、ぜひご覧になってください。