清水正「ソーニャの部屋 ──リザヴェータを巡って──(連載2)   〈殺人者〉(убийца)と〈淫売婦〉(блудница)」江古田文学107号より再録

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清水正画 「ドストエフスキーの肖像」

 

江古田文学』107号ドストエフスキー論特集号に掲載した論考の再録。

何回かにわたって再録します。全文ではありませんので関心のある方は『江古田文学』を購読してください。

江古田文学』107号ドストエフスキー特集号刊行  

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ソーニャの部屋

──リザヴェータを巡って──(連載2)

 

〈殺人者〉(убийца)と〈淫売婦〉(блудница)

 

清水 正 

 

小林秀雄が引用した箇所を原典で見ておこう。

 

Огарок уже давно погасал в кривοм подсвечнике, тусклο οсвещая в этой нищенской комнате убийцу и блудницу, странно сошедшихся за чтением вечной книги.  Прошлο минут пять или более.(ア・251〜252)

 

 まず注意したいのは〈殺人者〉(убийца)と〈淫売婦〉(блудница)である。作者は貧しい部屋に落ち合ったのは〈ロジオン〉と〈ソーニャ〉であったとは書かないし、〈不信心者〉(безбожник)と〈狂信者〉(юродивая)であったとも書いていない。ロジオンは〈神の冒瀆者〉(богохульник)であり、〈思弁家〉(диалектик)であり、〈傲慢な人〉(гордый человек)であり、二人の女を殺した犯罪者であるにもかかわらず〈罪〉(грех)の意識に襲われなかった青年であり、〈病める者〉(болен)であり、〈死せし者〉(умерший)である。ソーニャは〈静かなソーニャ〉(тихая Соня)であり、〈おとなしい女〉(кроткая)であり、〈大いなる罪の女〉(великая грешница)である。要するに、〈永遠の書物〉を読んだ一人の青年と一人の少女の肖像は様々な言い方があったにもかかわらず、作者はここで敢えて〈殺人者〉と〈淫売婦〉を選んでいることに注目する必要がある。

 ロジオンはポルフィーリイ予審判事との最初の会見場面で、彼の雑誌に投稿した論文内容に関して触れ、次のようにまとめる「第一の範疇は、現在の支配者であり、第二の範疇は、未来の支配者であります。第一の範疇は、世界を保持して、それを量的に拡大していく。第二の範疇は、世界を動かして、目的に導いていく。だから両方とも同じように、完全な存在権を持っているのです。要するに、ぼくの考えとしては、だれでもみな同等の権利を持っているんです。そして  ──Vive la guerre eternelle(永久の戦い万歳です)もちろん、新しきエルサレムの来現までですがね」(291)と。

 ロジオンはこの直後、ポルフィーリイの質問に答えて〈新しきエルサレム〉を信じ、〈神〉を信じ、〈ラザロの復活〉を信じていると公言している。このロジオンの微塵の躊躇もなく発せられた〈信仰告白〉に驚き戸惑うのは質問した当のポルフィーリイばかりではなかろう。なにしろこの〈新しきエルサレム〉〈神〉〈ラザロの復活〉を信じると公言したロジオンが、ソーニャの前では一貫して〈不信心者〉〈神の冒瀆者〉〈死せし者〉としての肖像を崩さずにいるのであるから。ここにはロジオンの精神世界の深い亀裂、分裂をかいま見ることができるが、彼は自らの精神分裂を冷静に俯瞰し認識する視点を欠いている。ロジオンは分裂のただ中に我が身をおいて、その激流に溺れているような存在である。ロジオンはある時は確固たる〈信仰者〉であるが、同時にまた、ある時は〈不信心者〉なのである。

 今回はロジオンの精神分裂そのものにではなく、彼が信じているという〈新しきエルサレム〉に照明を当てることにしよう。

 ヨハネの黙示録22章15節に「犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される」〔А вне--псы и чародеи, и любодеи и убийцы, и идолослужители и всякий любящий и делающий неправду.〕と書かれている。〈不品行の者〉(любодеи)の中に淫売婦ソーニャが、〈人殺し〉(убийцы)の中にロジオンが入ることは言うまでもない。つまりソーニャとロジオンの二人は〈淫売婦〉であり〈殺人者〉であることによって〈新しきエルサレム〉に入場することを拒まれた存在であったことになる。作者ドストエフスキーが〈ラザロの復活〉朗読後の場面において、ソーニャを〈淫売婦〉(блудница)、ロジオンを〈殺人者〉(убийца)と記したことは、明らかに〈新しきエルサレム〉のことを意識していたからである。

 ところで、ソーニャは〈姦淫の罪〉を犯した〈罪の女〉(грешница)に違いはないが、自らの罪を懺悔し神への信仰に生きる〈狂信者〉(юродивая)である。一方、ロジオンは二人の女を殺害した〈殺人者〉であるが、自らの〈犯罪〉(преступление)に〈罪〉(грех)の意識を持つことのできない〈思弁家〉(диалектик〉、〈不信心者〉(безбожник)にとどまっている。

 ロジオンはソーニャに向かって「今のぼくにはお前という人間があるばかりだ」(370)〔У меня теперь одна ты,〕(ア・252)「いっしょに行こうじゃないか。......ぼくはわざわざお前のところへ来たのだ。ぼくらはお互いにのろわれた人間なのだ。だからいっしょに行こうじゃないか!」(370〜371)〔Пойдем вместе...Я пришел к тебе.  Мы вместе прокляты, вместе и пойдем!〕(ア・252)「お前はぼくにとって必要なんだ。だから、ぼくはお前のところへやって来たんだよ」(371)〔Ты мне нужна, потому я к тебе и пришел.〕(ア・252)「お前もやっぱり、踏み越えたんだよ......踏み越えることができたんだよ。お前は自分で自分に手をくだした。お前は一つの生命を滅したんだ......自分の生命を(それはどっちだって同じだからな!)お前は精神と理性で生きていける人間なんだよ、しかしけっきょくセンナヤ(乾草広場)で終わる運命なのだ......けれど、お前には持ちきれまい。もしひとりきりになったら、ぼくと同じように気が狂うだろう。お前はもう今でも気ちがいじみている。してみると、ぼくらふたりはいっしょに同じ道を行くべきなんだ! 行こうよ!」(371)〔Ты тоже переступила... смогла переступить.  Ты на себя руки наложила, ты загубила жизнь...свою(это всё равно!).  Ты могла бы жить духом и разумом, а кончишь на Сенной... Но ты выдержать не можешь, и если останешься одна, сойдешь с ума, как и я.  Ты уж и теперь как помешанная; стало быть, нам вместе идти, по одной дороге! Пойдем!〕(ア・252)と言っている。

 ロジオンによればソーニャは彼と同じように〈呪われた人間〉(прокляты)であり、〈踏み越えた〉(переступила)人間ということになる。ロジオンの勝手な理屈によれば、斧で二人の女の命を奪った自分の〈踏み越え〉(переступить)と、自分で自分の生命を滅ぼしたソーニャの〈踏み越え〉(переступить)は同じ行為と見なされてしまう。ロジオンには〈踏み越え〉にあたっての〈思弁〉が存在した。「非凡人には良心に照らして血を流すことが許されている」「一つの犯罪は百の善行によって贖われる」といった理屈がそれである。一方、ソーニャが最初の〈踏み越え〉(イワン閣下に銀貨三十ルーブリで身売りしたこと)を為すにあたって特別の理屈が用意されていたわけではない。ソーニャは継母カチェリーナの理不尽な要請に従ったまでである。この場面を生々しく伝える〈マルメラードフの告白〉にソーニャの最初の男の名前や対価や場所は完璧に隠された。最初の男がイワン閣下と特定されるまでに百年以上の歳月を必要とした。この点についてはすでに何回も言及しているのでここでは繰り返さない。

 ソーニャはなぜ〈身売り〉に同意し〈踏み越え〉(переступить)てしまったのか。それはソーニャが〈踏み越え〉なければ、〈あの人たち〉すなわち酔漢マルメラードフをはじめとして肺結核病みのカチェリーナと三人の連れ子たちの暮らしが全く成り立たなかったからである。この自己犠牲が一家を貧困のどん底から救いきる保証はなかったにしろ、ソーニャはカチェリーナの言葉を拒むことはできなかった。ロジオンの言うとおり、ソーニャは自分自身のかけがえのない〈一つの生命〉を滅ぼしてしまったと言えないことはない。しかしソーニャには、不信と懐疑の思弁家ロジオンには見えない〈秘密〉があった。それは神への信仰にほかならないが、この〈信仰〉は〈姦淫の罪〉を犯し続けている〈罪の女〉(грешница)の信仰であることを失念してはなるまい。 

 ロジオンは〈踏み越え〉たが遂に罪の意識に襲われることのなかった〈殺人者〉である。が、ソーニャは自らの〈踏み越え〉(売春)に深く罪意識を感じて懺悔する〈信仰者〉である。二人は〈踏み越え〉たことにおいて同じであっても、その内実においては対極に位置している。二人が文字通り、一緒に〈同じ道〉を行くためには、ソーニャが信仰を捨てるか、ロジオンが神の前に跪拝するしかないのである。

 この日、すなわちロジオンが午後十一時にソーニャの部屋を訪れ、〈ラザロの復活〉の朗読を要請したこの日〈第八日目〉、未だロジオンは〈死せし者〉にとどまっている。ところで、〈罪の女〉でありながら、イエスの言葉「われは蘇りなり、命なり、われを信ずるものは、死すとも生くべし。すべてわれを信ずるものは、永遠に死することなし」に対し、マルタの言葉に託して「主よ、しかり! われなんじは世に臨るべきキリスト、神の子なりと信ず」と告白したソーニャはどうであろうか。ソーニャは〈罪の女〉でありながら、イエスの言葉を受け入れて永遠に死ぬことのない存在となっている。ロジオンがいくら二人は呪われた存在なのだと強調しても、その実質は全く異なっている。他人の生命を奪って罪意識を覚えない倨傲な殺人者ロジオンと、自分の生命を滅ぼしながらも信仰によって永遠の命を獲得している淫売婦ソーニャは、同じ〈踏み越えた〉(переступила)人間ではあっても全く異なった次元に位置しているのである。

 

江古田文学ドストエフスキー特集・収録論考
清水正……「ドストエフスキー特集を組むにあたって――ドストエフスキーとわたしと日大芸術学部
ソコロワ山下聖美……サンクトペテルブルク~美しく、切ない、芸術の街~
齋藤真由香……理想の人生を降りても
高橋実里……子どもとしての存在――『カラマーゾフの兄弟』と宮沢賢治
伊藤景……ドストエフスキーとマンガ――手塚治虫版「罪と罰」を中心にして――
坂下将人……『悪霊』における「豆」
五十嵐綾野……寺山修司ドストエフスキー~星読みをそえて~
猫蔵……三島由紀夫ドストエフスキー~原罪

下原敏彦……「ドストエーフスキイ全作品を読む会」五十周年に想う

牛田あや美……ドストエフスキー文学の翻訳とメディア化

岩崎純一……ドストエフスキーニーチェ──対面なき協働者──

清水正……ソーニャの部屋ーーリザヴェータを巡ってーー

 

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清水正ドストエフスキー論全集

 

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清水正ドストエフスキー論全集』第11巻(D文学研究会A5判上製・501頁が出来上がりました。

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定価3500円+税

 これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

六月一日から開催予定だった「清水正・批評の軌跡」展示会はコロナの影響で九月一日から9月24日までと変更となりました

 会期:2021年9月1日(水)~9月24日(金)

 会期中開館日:平日のみ。午前9時30分~午後4時30分(完全予約制)

 ※ご来場の際は事前に公式HP(https://sites.google.com/view/shimizumasashi-hihyounokiseki)にご確認ください。

九月一日から日大芸術学部芸術資料館に於いて清水正・批評の奇跡──ドストエフスキー生誕二〇〇周年記念に寄せて──』展示会が開催される。1969年から2021年まで五十余年にわたって書き継がれてきたドストエフスキー論、宮沢賢治論、舞踏論、マンガ論、映画論などの著作、掲載雑誌、紀要、Д文学通信などを展示する。著作は単著だけでも百冊を超える。完璧に近い著作目録の作業も進行中である。現在、文芸学科助手の伊藤景さんによって告知動画も発信されていますので、ぜひご覧になってください。