『江古田文学』107号ドストエフスキー論特集号に掲載した論考の再録。

江古田文学』107号ドストエフスキー論特集号に掲載した論考の再録。

何回かにわたって再録します。全文ではありませんので関心のある方は『江古田文学』を購読してください。

江古田文学』107号ドストエフスキー特集号刊行  

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ソーニャの部屋

──リザヴェータを巡って──

 

小林秀雄の「『罪と罰』についてⅡ」から

清水正

 

 今まで何回かにわたって〈ソーニャの部屋〉をめぐって様々な解釈を展開してきた。が、まだ書かなければならないことはある。わたしは何度でも納得の行くまで〈ソーニャの部屋〉に関してドローンを飛ばし続けるつもりである。

まず、今回は小林秀雄の『罪と罰』論の一節から論を進めていこう。小林は「『罪と罰』について」の中で次のように書いている(引用は新潮社『小林秀雄全作品16』所収の「『罪と罰』についてⅡ」に拠る)。

 

ソオニャがラスコオリニコフに聖書を読んで聞かす有名な場面は、どうも有名になり過ぎて了った様である。と言うのは、読者の通俗なお人よしが、ここに作者の説教を読みとれば、評家の通俗な人の悪さは、作者の恐ろしい皮肉を読みとるという具合で、散々に弄廻されて了っているという意味だ。説教、皮肉、そんなものは幻である。「奇しくもこの貧しい部屋のなかに落合って、永遠の書物を共に読んだ殺人者と淫売婦を、歪んだ燭台に立った蠟燭の燃えさしが、ぼんやりと照らし出した」だけである。作者は見たものを見たと言っているだけである。──「その時マリヤと共に来りしユダヤ人、イエスの為せしことを見て、多く彼を信ぜり」、ソオニャは熱病やみの様に慄えて、もうその先きを読む事は出来なかった。ラスコオリニコフは、この「不幸な狂女」を黙って眺めた。蠟燭は消えかかり、「五分か、それ以上も経った」と作者は書いているのに、読者は、ここで何故一分の沈黙さえ惜しむのであろうか。(139〜140)

 

 何だろう、こういった文章は。久しぶりに読み返して改めて思う。小林秀雄ドストエフスキー論は二十歳の頃から繰り返し何度も読んでいるが、そのたびに複雑な思いにかられる。素直に感心することもできないし、まったく否定しさることもできない。なにしろわたしがドストエフスキー論を書き始めた頃、真っ先に読みふけったのが小林秀雄ドストエフスキーに関する批評であった。単に参考として読んだというのではなく、それは文字通り闘いであった。小林秀雄ドストエフスキー論は乗り越えなければならない壁のようなものとしてあった。それだけに確かに深く影響も受けたにちがいないが、同時に受け入れがたいものも感じていた。

 ここに引用した箇所だけでも言いたいことは少なくない。小林秀雄の文体は読むものを引きつける力をもっているが、その文体そのものが何か嫌みというか鼻に付くのである。〈読者の通俗なお人よし〉とか〈評家の通俗な人の悪さ〉とかいう表現で彼はいったい何を言いたいのだろうか。通俗なお人よしの読者とか通俗な人の悪い評家とかが彼の内に具体的に存在していたのだろうか。おそらく彼の内にそういった読者や評家は存在していたのだろう。そして彼自身はそういった読者や評家とは一線を画した特別な存在としてドストエフスキーの文学に立ち向かっているということなのだろう。こういった彼の一種特別な優越意識みたいなものが鼻に付くのであろうか。

 小林秀雄はソーニャが〈ラザロの復活〉を読み終えた一場面「奇しくもこの貧しい部屋のなかに落合って、永遠の書物を共に読んだ殺人者と淫売婦を、歪んだ燭台に立った蠟燭の燃えさしが、ぼんやりと照らし出した」を引用し、「作者は見たものを見たと言っているだけである。」と書く。ここで彼は、評家は作者が「見たもの」を見ることが重要であって、論じたり解釈したりすることは愚かな行為だと言っているのだろうか。作者が「見たもの」を見たままに書いたものに対し、凡庸な読者や評家はなまじ中途半端な批評などしてはならないということだ。こういった小林秀雄の言いようが鼻に付くのは、小林秀雄ははたしてこの場面を作者が「見た」ように見ていたのかという疑問を拭い得ないからである。

 小林秀雄ドストエフスキーの作品を誰の訳で読んだのか明らかにしていない。『罪と罰』の引用文から推測すると米川正夫の訳で読んでいたように思える(ただし米川正夫は中村白葉訳『罪と罰』を踏まえて訳しており、類似する訳文箇所も少なくない)。小林秀雄が引用した場面を米川正夫訳で見ると「ゆがんだ燭台に立っているろうそくの燃えさしは、奇しくもこの貧しい部屋のなかに落ち合って、永遠な書物をともに読んだ殺人者と淫売婦を、ぼんやり照らし出しながら、もうだいぶ前から消えそうになっていた。五分かそれ以上もたった。」(370)である。ちなみに中村白葉訳は「歪んだ燭臺に立つてゐた蠟燭の燃えさしは、此貧しい室の中に落ち合つて奇しくも永遠な書物を共に讀んだ殺人者と賣春婦とを薄暗く照らしながら、もう餘程前に消えて了つた。五分かそれ以上もたつた。」(大正七年九月 新潮社)である。

 ここに引用した箇所だけでも、米川正夫が『罪と罰』を翻訳するに当たって先行の中村白葉訳『罪と罰』(ロシア語原典からの本邦初訳)をきちんと踏まえていたことは明白である。そして小林秀雄米川正夫訳を引用するにあたって、彼なりに文章を変えていることも明白である。わたしが今こういうことにこだわっているのは、小林秀雄が「作者は見たものを見たと言っているだけである」と書いていたからである。作者が「見たもの」とは作者が「書いたもの」にほかならないから、引用は原文に忠実でなければならないし、翻訳に頼る場合は翻訳テキストに忠実であるべきだろう。批評がテキストから離れることは危険であり、一人勝手な思い込みに陥ることになる。独断の美学をことさら否定するつもりもないし、小林秀雄の批評を独断的と見なしているわけでもないが、しかし彼が自ら引用した〈ラザロの復活〉朗読後の場面をどれほど「見た」かについては大いに不満が残る。

 《蠟燭は消えかかり、「五分か、それ以上も経った」と作者は書いているのに、読者は、ここで何故一分の沈黙さえ惜しむのであろうか。》こういった文章を読んで「なるほどそのとおりだ」とは思うが、同時になにかしら嫌みを感じるのは、小林が自分を〈一分の沈黙さえ惜しむ〉読者(通俗な読者)とは違った読者(作者が見たものを見ることのできる読者)の立場に置いてものを言っているように思えるからである。いったい小林秀雄はどれほどの時間をこの〈ラザロの復活〉朗読の場面に費やしたと言うのだろうか。わたしは五十年以上にわたってこの場面にこだわり続けている。一分の沈黙を惜しむなどという次元の問題ではないのである。わたしは小林秀雄の小気味のいい断定的な文章は肝心要のところでレトリックに落ちていると思う。この巧妙なレトリックは自己欺瞞を巧妙に隠しきって、多くの文学青年たちを拐かしてきたが、レトリックは所詮レトリックで、いずれその巧妙に施された化粧は剥げおちざるを得ないのである。

 
江古田文学ドストエフスキー特集・収録論考
清水正……「ドストエフスキー特集を組むにあたって――ドストエフスキーとわたしと日大芸術学部
ソコロワ山下聖美……サンクトペテルブルク~美しく、切ない、芸術の街~
齋藤真由香……理想の人生を降りても
高橋実里……子どもとしての存在――『カラマーゾフの兄弟』と宮沢賢治
伊藤景……ドストエフスキーとマンガ――手塚治虫版「罪と罰」を中心にして――
坂下将人……『悪霊』における「豆」
五十嵐綾野……寺山修司ドストエフスキー~星読みをそえて~
猫蔵……三島由紀夫ドストエフスキー~原罪

下原敏彦……「ドストエーフスキイ全作品を読む会」五十周年に想う

牛田あや美……ドストエフスキー文学の翻訳とメディア化

岩崎純一……ドストエフスキーニーチェ──対面なき協働者──

清水正……ソーニャの部屋ーーリザヴェータを巡ってーー

 

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清水正ドストエフスキー論全集

 

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清水正ドストエフスキー論全集』第11巻(D文学研究会A5判上製・501頁が出来上がりました。

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定価3500円+税

 これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

六月一日から開催予定だった「清水正・批評の軌跡」展示会はコロナの影響で九月一日から9月24日までと変更となりました

 会期:2021年9月1日(水)~9月24日(金)

 会期中開館日:平日のみ。午前9時30分~午後4時30分(完全予約制)

 ※ご来場の際は事前に公式HP(https://sites.google.com/view/shimizumasashi-hihyounokiseki)にご確認ください。

九月一日から日大芸術学部芸術資料館に於いて清水正・批評の奇跡──ドストエフスキー生誕二〇〇周年記念に寄せて──』展示会が開催される。1969年から2021年まで五十余年にわたって書き継がれてきたドストエフスキー論、宮沢賢治論、舞踏論、マンガ論、映画論などの著作、掲載雑誌、紀要、Д文学通信などを展示する。著作は単著だけでも百冊を超える。完璧に近い著作目録の作業も進行中である。現在、文芸学科助手の伊藤景さんによって告知動画も発信されていますので、ぜひご覧になってください。