清水正  村上玄一を読む (連載2)

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村上玄一を読む(連載2)

清水正

 

 わたしが大学に残って二、三年経ってからの頃であったろうか、文芸学科資料室のカウ ンターに進藤純孝研究室から寄贈ということで何冊かの同人雑誌が置いてあった。なにげ なく見ていると、そこに「マグマ」という雑誌があった。〈マグマ〉という誌名に心騒ぐ ものがあったので、表紙をめくって目次を見ると、そこに村上玄一の名前があった。正直 言ってわたしは嬉しかった。卒業しても相変わらず小説を書いている奴がいると思って嬉 しかったのである。

 わたしが助手の頃、「江古田文学」が復刊されることになった。会長は進藤純孝、編集 長は平岩昭三である。江古田の小さな居酒屋で最初の編集会議が開かれた。確か平岩編集 長と学生編集者を含め六、七名だけのささやかな会合であった。わたしが編集を担当した のは八号からであった。池袋の行きつけの居酒屋「玉淀」に有志に集まってもらい協力を 仰いだ。

 わたしは村上玄一に小説を書いてもらうつもりであった。彼が「海燕」に発表した「鏡 のなかの貴女」は松戸の駅のベンチに座って読みおわった。すぐに村上宅に電話したが、 奥さんが出て、村上は胃潰瘍を患って田舎の宮崎に帰っているということであった。一年 後、改めて電話をし、「玉淀」で待ち合わせた。学生時代、ただの一回も顔を合わせたこ とのない村上玄一とその時はじめて会った。何とも奇妙な感じであった。  

 早速わたしは、「江古田文学」の協力を仰いだ。こういった雑誌は卒業生が支える他は ない。原稿料は一銭も出ないが、ぜひ代表作となるものを書いてもらいたい、と頼んだ。 初めて会ったとは言え、同級生であるから最初から遠慮はない。依頼だか脅迫だか分から ないような頼み方をして、その日は別れたが、それから今日までの付き合いとなった。

 2001年の七月、村上玄一は二冊の小説集を刊行した。一冊は『生き方の練 習』で「鏡のなかの貴女」「謎謎」「穴まどい」「行き方の練習」「うしろ姿」の五編を 収めてある。二冊目は『死に方の実習』で同名の小説一編を収めてある。今、この二冊の 小説を刊行する意義はどこにあるのか。小説の一編一編がどのような自己主張をはたして いるのか。これからじっくりと検証してみたいと思う。

 同じ時代を生きてきて、わたしはもっぱら批評を展開してきたが、村上玄一は主に小説 を書いてきた。わたしは村上玄一を小説家と見たい気持ちが強いが、村上本人は小説以外の ものにも手を出している。村上玄一の全体像を浮き彫りにするためには小説以外の作品に も言及した方がいいだろうが、今回は小説(主に「鏡のなかの貴女」と「謎謎」)に限っ て批評を展開する。

 わたしが村上玄一の小説を評価する唯一の点は、そこに現代日本人のふつうのサラリー マンの卑小さ、卑劣さが原寸大の大きさで表現されていることにある。 わたしが「鏡のなかの貴女」を最初に読んだときの感想は、なんてつまらない、くだらない男を主人公にし た小説だろう、であった。この感想はずっと続いていて、村上は人間の卑劣さを描かせれ ば日本一の作家であるかもしれないと思っていた。

 この主人公と村上玄一が重なって見え るときがあり、そういうときは本当に腹の底から嫌になる。これは生理的な嫌悪感である 。なぜこれほど強烈な嫌悪感を抱くのか、それはおそらくわたし自身の中に潜んでいる最 も見たくない触れられたくない、嫌悪すべきものを村上玄一の描く主人公や村上玄一自身 に見るからであろう。

 

 『生き方の練習』に収録されている作品に関しては発表順に読むことにした。まずは「 鏡のなかの貴女」からいこう。

 主人公は〈ぼく〉で、年齢は三十歳を過ぎたばかり、住居 は杉並区天沼二丁目のアパート、仕事は弁護士事務所のアルバイトで、結婚はしていない 。さて、この〈ぼく〉は自分のことをどのように把握しているのか。

 〈ぼく〉は友達三人が帰った後のスナックでママに向かって次のように言う「まったく 、あいつらは、ぼくのことなんて少しも判っちゃいないんだよ。冗談なのか、真面目なん だか、自分自身のことが、ちゃんと把握できてない人間ってイヤだねえ。さっき、ぼくと 一緒に呑んでいたヤツらは、みんな誤魔化しで生きてるんだからね。いいとこもあるんだ けど、救いようのないのもいたね、ひとりだけ。本質が間違ってるんだよ。ぼくなんか、 頭はよくないし要領も悪いから、みじめな生活をしてるけどさ、ヤツらよりは真剣ですよ 。そう心がけようとしていますね、何事に対しても。」

 〈ぼく〉は友達の誰からも理解されていない、それは彼らが自分の人生を誤魔化してい い加減に生きているからだ。それに対し〈ぼく〉ほど真剣に生きている者はいない。〈ぼ く〉が経済的に恵まれないみじめな生活を余儀なくされているのは、頭も要領も悪いから だが、最大の原因は何事に関しても真剣に立ち向かっていくからだ……。まあ〈ぼく〉は 自分および友達のことをこのように思って、ママを相手に憂さを晴らしている。

 午前四時、ママはカウンターにもたれて半分眠っている。ストーブの火は消されている 。〈ぼく〉はすでに厄介者でしかない。〈ぼく〉はそれを分かっていながら帰る気にはな れず、ぐだぐだぐだぐだ愚痴をこぼし続ける「あああ、ぼくも、ついに三十を過ぎてしま ったんだからね。こんなことじゃいけないんだけど、ママさん、バカな男だと思ってるん でしょう? 三十かあ、恐ろしいねえ、自分でも信じられないよ。一人前の大人のはずな んだけど、まだ大人になったという実感がないねえ。定職なし、独り暮らし、趣味なし、 特技なし、金もなし、いままでに関係を持った女は三人だけで、それもブスばかり、いや 、こんな言葉、使いたくないんだけれど、酔っているときぐらいは、人並みに吐いてもみ たくなるよ。ま、本当に好きな女とは一度も関係してないってこと。そんなもんだろうか ねえ、他の人も……ママさん、もう帰るよ、ママさん、ママさん……」

 〈ぼく〉は友達がいた時に、友達に向かって言いたい事を言えない。〈ぼく〉の言葉は ママとの対話になってはいない。言わば〈ぼく〉の言葉はママさんを壁にして独り言を呟 いているようなものである。〈ぼく〉は「定職なし、独り暮らし、趣味なし、特技なし、 金もなし」のみじめな生活を本当に心の底からみじめに思っているのか。〈ぼく〉はみじ めな自分に一種特別な愛着を感じているようにも見える。言い方を変えるなら〈ぼく〉は 自分のみじめさに敗北していない。なにしろ〈ぼく〉は自分を、何事に関しても真剣に立 ち向かっていく自分を信用しているのだ。偉そうに振る舞っている〈友達〉は要するに要 領よく立ち居振る舞っている卑劣な輩にすぎないが、自分は真剣なのだ。〈ぼく〉は他人 もまた真剣に生きているとは思わない。大げさな言い方をすれば、自分を誤魔化さずに真 剣に生きているのは世界中で〈ぼく〉一人きりなのだ。