清水正  村上玄一を読む(連載12)

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村上玄一を読む(連載12)

清水正

 

 

  『謎謎』の〈ぼく〉はついに独り言をはじめる。『鏡のなかの貴女』の〈ぼく〉のよう に鏡や窓硝子に映ったもう一人の僕との対話ではないが、それが自分自身の本当の姿を掴 もうとする内的対話には違いない。が、はたして〈ぼく〉の内的対話は彼の深部へと踏み 込んで行くのであろうか。

 

 ・・もしかすると、沢井原よりも、お前自身のほうが死を選ぶには相応しい人間だった かもしれないね。

 「だけど、ぼくには自殺する勇気はないよ。ぼくが死んだからといって、ぼくが沢井原 のことを考えるほどには、誰もぼくのことを、こだわって思う者もいないし、それだから という訳でもないけどね、自ら命を絶つなんてことは、恐くてできないよ。ところで、お 前は誰なんだ?」

 ・・お前だよ。判ってるくせに。

 「もうひとりのぼくが。なるほど、それで、自殺をすすめようとしてるわけ? でも、 ぼくは生きつづけるよ。どんなに傷めつけられてもね。騙されても、笑われても、無視さ れようと、ぼくは平気な顔をして生きつづけるよ。ぼくには、それができるんだ。なぜな ら、ぼくが本気になったら、いますぐにでも、何日も何日も、ぼんやりしていることなん て、簡単に実行できるんだからね」

 ・・どんなに人に罵られても、中傷されても?

 「何か、ぼくが悪いことでもしたような言い方だけど。ぼくは何もしていないし、周辺 の人は、みんないい人たちばかりだ。立派な人間ばかりだよ」

 ・・たとえば?

 「沢井原だって、ひとつのものに対する執着心、それは凄かったよ、ぼくは感心してい たね。それは主に自衛隊に関することではあったけど、彼のその徹底ぶりには敬服してい たんだ。富田の広範囲な知識欲と、仕事における要領のよさ、これなんか、ぼくなんて、 とんと及びもつかなかったしね。金田氏の仕事を操ることにかけての不思議な力にも適う わけがなかった。みんな立派だよ」

 ・・女については、どうなんだ?

 「美樹子の万人に対する平等の優しさ、順子のこれまでの、ぼくに接した献身ぶり。そ れぞれ精一杯に生きようとしてる姿勢が素晴しいと思うね」

 ・・そして、お前自身は?

 「ぼくのことは、お前が知っているくせに。自分のことを言うのは恥かしいよ。判るだ ろう?」

 ・・お前は、どういう人間なんだ。なぜ生きてるんだ?

 「ふつうに生きていれば、いつか、いいことがあるかもしれないしね」

 ・・もっと正直に。

 「ぼくは冷静でありたい。どんなことが起ころうと、そのときの対処の仕方は、落ちつ いた状態でありたい。困難な問題や複雑な事情が発生したとき、うまく解決したい」

 ・・何を、そんなに怯えてるんだ?

 「ふつうに生きていても、何が起こるか判らないからね。突然の事故というのは仕方が ないにしても、人間関係の問題は、防ごうと思えば可能な気がするんだ。それで、他人が 何を考えているのか、それを見抜く能力、ぼくが、いま、もっとも欲しているものだけど ね。どのように生きたら得られるのか、教えてくれないかな。その方法を学びたいよ」

 ・・しかし、かなり冷静に悩みを悩んでいるような気もするけど。

 「そうなんだ。お前も知っているように、ぼくは昔から、自分のことを天才だと思って るんだ」

    ・・そんなこと知らないよ。

 

 この〈もうひとりのぼく〉との内的対話は深みへと降りていくことはない。〈もうひと りのぼく〉は単なる質問者であって、〈ぼく〉が生に執着するその根拠を問いもしない。 〈もうひとりのぼく〉は〈ぼく〉の対立者として現れているのではなく、〈ぼく〉の内心 の思いを引き出す役目を発揮するために現れている。『鏡のなかの貴女』の〈貴女〉と同 じように、この〈もうひとりのぼく〉は決して〈ぼく〉を糾弾したり告発したりはしない 。換言すれば、〈もうひとりのぼく〉はいつまで経っても〈もうひとりのぼく〉であって 、〈ぼく〉にとって〈他者〉とはなりえない。〈もうひとりのぼく〉が〈ぼく〉自身が否 定し、拒むような〈秘中の秘〉に肉薄していかないので、この内的対話は少しもスリリン グに展開していかない。

    どうしてこのような平板な展開になってしまうのか。それは〈ぼ く〉が自分自身の生のあり方を始めから肯定しているからである。〈ぼく〉はひとからど んなに傷めつけられても、騙されても、笑われても、無視されても平気な顔をして生きつ づけると宣言している。この宣言の裏には、〈ぼく〉は何も悪いことなんかしていないと いう思いが潜んでいる。それだけではない。〈ぼく〉はひとからどんなに悪く言われよう と、そんなひとたちを悪く言うつもりはない。だって〈ぼく〉はそんなちっぽけな人間じ ゃないからね、という自負もある。そこで〈ぼく〉は非難の代わりに「周辺の人は、みん ないい人たちばかりだ。立派な人間ばかりだよ」と、歯が浮くような言葉を発することに なる。

    もし〈もうひとりのぼく〉が〈ぼく〉に対して容赦のない〈他者〉として機能して いれば、すぐに突っ込みを入れたくなるセリフである。まあ、褒め殺しということもある から、〈ぼく〉の歯の浮くようなセリフも全き皮肉と受け取れないこともないが、それに しても〈もうひとりのぼく〉の質問に鋭さはない。〈ぼく〉の発する言葉を聞いていると 、ほんとイイ気なもんだな、という感じを抱いてしまう。〈ぼく〉は〈もうひとりのぼく 〉に対して、言っても差し支えのないことばかりを言っている。そしてその〈ぼく〉の甘 さを〈もうひとりのぼく〉もまた許している。

 女についての〈ぼく〉のコメント「美樹子の万人に対する平等の優しさ、順子のこれま での、ぼくに接した献身ぶり。それぞれ精一杯に生きようとしてる姿勢が素晴しいと思う ね」に到っては何をか言わんやである。このセリフが本音であろうと、皮肉であろうと、 もはや問題ではない。この小説において読者の誰が美樹子に〈平等の優しさ〉を、順子に 〈献身ぶり〉を感じただろうか。少なくともこの小説の語り手である〈ぼく〉は、美樹子 や順子の〈精一杯に生きようとしてる姿勢〉を描いていない。〈ぼく〉は〈もうひとりの ぼく〉に「そして、お前自身は?」と訊かれて「自分のことを言うのは恥かしいよ」と答 えている。おそらくこのナルシストの〈ぼく〉は自分自身のことを「精一杯に生きようと してる姿勢が素晴らしい」と思っているのであろう。

 〈ぼく〉が自分を評価していることは疑い得ない。読者のわたしから見れば過大評価で あるが、〈ぼく〉にすれば過少評価ということになるのだろう。〈ぼく〉の自己評価の根 拠はどうやら〈冷静〉ということにあるらしい。「ぼくは冷静でありたい。どんなことが 起ころうと、そのときの対処の仕方は、落ちついた状態でありたい。困難な問題や複雑な 事情が発生したとき、うまく解決したい」この言葉が、〈ぼく〉の自己評価の根拠を端的 に語っている。〈ぼく〉は困難な問題や複雑な事情が発生した時に、冷静に対処し、うま く解決できる能力を持っていると自負しているのだ。それを〈もうひとりのぼく〉の言葉 を入れて換言すれば、〈ぼく〉はかなり冷静に悩みを悩むことができる天才だと自負して いるということである。現に、〈ぼく〉は十年以上もつきあっていた美樹子にとつぜん結 婚したいからいい人を紹介しろと言われた時も冷静に落ち着いて対処することができた、 また妻の順子が浮気していることを知っても心を乱すようなことはなく冷静に相手の出方 を見ることもできる、自分の女を紹介した富田のアパートにも平気で訪問することができ る……まさに〈ぼく〉はどんな状況下にあっても冷静に対処することができる〈立派な人 間〉というわけだ。この〈立派な人間〉を同時に〈鉄面皮な破廉恥漢〉と見る視点が〈ぼ く〉にあれば問題はない。が、〈ぼく〉の内的対話からはそのような視点があるようには 見えない。〈もうひとりのぼく〉は、〈ぼく〉の中途半端な生ぬるい生のあり方を鋭く告 発する眼差しに欠けている。その結果、〈もうひとりのぼく〉は〈ぼく〉に都合のいい弁 護人のような存在と化すことになる。

 一九八四年一月十九日の午前、〈ぼく〉はオフクロからの電話でオヤジの死を知らされ る。〈ぼく〉は「ついに、やって来るべき時がきた。いやでも九州へ戻らなくてはならな い」と書く。〈ぼく〉にとってはオヤジの死よりも、九州へ帰らなくてはならない、その ことの方が重いようである。〈ぼく〉に、父親の死に直面した悲しみの感情を窺い知るこ とはできない。〈ぼく〉はここでも冷静に対処することに価値を置いているかのようだ。

  〈ぼく〉は父親が死んだこの日、電話を掛けてきた美樹子と喫茶店で待ち合わせ、そこで 美樹子から富田と別れたいという話を聞くことになる。美樹子は富田は変態だと言い、〈 ぼく〉はそれを知っていて富田を押しつけたのではないかと責める。「男なら誰でもいい なんて思ってたけど、とんでもないことだったわ。……不運な女なのよ、わたしって」「 申し訳ない。富田には、ちゃんと決着をつけさせるよ」美樹子と〈ぼく〉はこんな会話を 交わしているが、ほんとこの二人どうしようもない。この、二人のどうしようもなさは、 ともに自分たちのくだらなさを自覚していないところにある。富田を変態とかなんとか言 う前に、二人の関係を秘密にしたまま自分の女を富田に押しつけた〈ぼく〉の卑劣さを、 そして男なら誰でもいいと富田と一緒になった美樹子のバカさ加減を、この二人はじっく りと考えた方がいい。〈ぼく〉には想像力が欠けているから、蒸発して三日もたった富田 の内面世界の襞をなぞることはできない。順子や美樹子や富田を自らの内的対話の中で〈 立派な人間〉なんぞと言っている〈ぼく〉は、それが本音であれ皮肉であれ他者の世界を 的確に凝視することはできない。

 

 「わたし、あの人と別れるわよ」

  その言葉を聞いて、とっさに、ぼくの頭に浮かんだのは、順子と別れたぼくが、いま 目の前にいる窶れた美樹子と、どこか私鉄沿線の、アパートの小さな部屋で、なぜだか幸 せそうに暮らしている光景だった。ぼくは慌てて、その考えを振り払った。

 

 この場面はつげ義春の『やなぎや主人』を想起させる。どこかしらこの〈ぼく〉には、 つげ義春の漫画の主人公を気取ったところが見られる。が、〈ぼく〉がつげ漫画の主人公 と決定的に違うのは、〈ぼく〉が中途半端な自意識を捨てきれずにいることである。言い 方を変えれば、〈ぼく〉は堕ちきれていないのである。

 美樹子と別れ、家についた〈ぼく〉は帰って来た順子にオヤジが死んだことを報告した 後、自分の方から別れ話を持ち出す。順子の出方を待って、自分からは決して仕掛けない と言っていた〈ぼく〉だが、オヤジが死に、美樹子が富田と別れると言いだしたことで心 境に変化が生じたのだろうか。順子は「へえ、意志薄弱で決断力のないあんたが、よく思 い切れたわね」と言う。この言い方は〈ぼく〉をかなりの程度においてバカにしている証 であるが、それだけでは腹の虫がおさまらないらしく、矢継ぎ早に罵りの言葉を吐きつづ ける。「まったく意気地がないんだから。わたしはそんなあんたのことを、ずっと軽蔑し つづけてきたんだから」「もう、あんたの底は知れてるんだからね。本当は話もしたくな いんだよ」「結局は、あんたが何もかも悪い。自分でも判ってるでしょ。ろくに稼ぎもし ないくせに、女房ひとり養うこともできないくせに、コソコソと、あんなババアと付き合 って、知ってるんだよ。何よ、あのだらしなさそうな美樹子って女、どこが気にいってる の。あんたまで不潔っぽい感じ。大嫌いよ、あんな女。わたしの、いちばん嫌いなタイプ ね。でも、もう、そんなこと、どうだっていいけど。それに、もう、あんたにも、何の能 力もないクズみたいな男だって見切りをつけたからね。つまり、金儲けのできない人って こと。そんなの最低だよ」「最初から最後まで、ついにあんたはお金とは縁がなかったね 」「いろんなことを言っても、仕事のできない人にはお金がない、お金のない人はスケー ルも小さいし、みみっちいよ。そんなことを言いながら貧乏な生活をつづけていけばいい じゃない。本当はイヤなくせに」。八年間を一緒に暮らしてきた女の〈ぼく〉に対する判 断であり、見限りの言葉である。

   美樹子のこの罵りの言葉の合間に〈ぼく〉が言えること はせいぜい「けっしてお金だけが人生じゃないぜ」「お金というものは本質的には汚いも のなんだ」といったありきたりのセリフだけである。順子とは「若いということだけで一 緒になった」と臆面もなく書いた〈ぼく〉が、離婚話の最中にもっともらしいことを言っ たところでそんなことは恥の上塗りでしかない。

 〈ぼく〉は他人から自分に向けられた非難や罵りの言葉を正確に記憶し、それを書き留 める才能を持っているが、その他人の言葉を受け入れて納得しているわけではない。〈ぼ く〉は他人が何と言おうが、それとは関わりなく自分自身に対する認識を持っており、そ れを変えることはない。〈ぼく〉は一人そっと呟く「ぼくは悪い男ではない、汚い男では ない、ずるい男ではない」と。要するに〈ぼく〉は自分を〈卑劣漢〉とか〈ロクデナシ〉 などと思ってはいない。〈ぼく〉は妻の順子からどんなにバカにされ罵られても、おそら く自分が世界中で一番好きなのである。

 〈ぼく〉は順子と決着がついたことを美樹子に報告する。美樹子は「あなたとわたしは 、いつになっても一緒にはなれない気がするの。これまでと同じような状態で付き合って いたほうがいいわ」と言い、〈ぼく〉はそれを受けて「ふたりが同時に別れたからといっ て、一緒になる必要はないんだよ」と言う。この小説の最後の場面を引用しよう。

 

  電話を切ったあと、ぼくは、これまでに経験したことのない緊張感を覚えた。明日か らの美樹子が、どのように生きていくのかは知らない。順子が、どのような人生を歩むこ とになるのか、見当もつかない。ぼくの生活にしても同じことだ。さて、まず何から始め るべきか。ウイスキーグラスを両手で握ったまま、立ち尽くし、目を閉じてみた。

 

 この最後の場面は〈ぼく〉という人間をきわめて的確に表している。〈ぼく〉は最後に この地点に行き着いたのではない。〈ぼく〉は始めから、何をしていいのか分からず、目 を閉じ、立ち尽くしていたのだ。美樹子と十年以上も付き合い、順子と八年の結婚生活を 送り、富田と友達付き合いをし、幼なじみの沢井原とは成人して酒を酌み交わす仲になっ てさえ、結局〈ぼく〉は他人のことは何も分からなかった。

 〈ぼく〉は他人の内部に侵入していくことがない。否、他人ばかりではない、〈ぼく〉 は自分自身の内部へも降下して行こうとはしなかった。〈ぼく〉の人生の基本的な態度は 他人に必要以上に関わらないことであるようだ。この態度は他人を傷つけないし、他人か らとやかく言われないでもすむ。しかし、こういった態度はいつまでも自分を曖昧なまま にしておくことでもある。

  この小説世界は〈ぼく〉の曖昧な態度を反映してどんよりと曇っている。快晴の瞬間も ないし、大嵐になることもない。いつも冷静に事にあたりたいという〈ぼく〉は、自分の 冷静さをついに崩すことはなかった。しかし、それは別に褒められたことではない。〈ぼ く〉のなまぬるき冷静さが保持される限り、〈ぼく〉を取り囲む現実のどんよりした天気 模様が変わることはないだろう。

 〈ぼく〉が生きる日常に非日常が入り込んでくることはない。美樹子が男なら誰でもい いから結婚したいと言いだしたことも、妻の順子が浮気していることも、沢井原が自殺し たことも、オヤジが死んだことも……〈ぼく〉にとってはなんら〈非日常〉とはならなか った。〈ぼく〉はただただ灰色のような変哲のない日常を生きている。この男に情熱や愛 を感ずることはできないし、深い断念を抱えているとも思えない。〈ぼく〉に悲しみや憤 怒を感ずることがないように、この〈ぼく〉と関わりを持った美樹子や順子や富田にもそ ういった感情を覚えることはない。自殺した沢井原に関しても、その自殺の原因を生々し く感ずるような表現はない。〈ぼく〉が語った〈ぼく〉の人生の断片には生きてあること のせつなさのようなものを感ずることはできない。

 確かにこのような男は存在するだろう。中途半端な生ぬるい自らの人生をナルシスティ クに肯定しながら、そういった自分の生きる姿にダンディズムを感じている男、どんなに 他人に否定され罵られても〈もうひとりのぼく〉とはいつまでも親和的関係を取り結べる 男……確かにこういった男が現実に生きていてもおかしくはないだろう。

   おそらくこの男 は何かに対して反抗し続けている。その具体的な形象として敗戦後おめおめと生き続けた オヤジがおり、その延長線上に天皇がいるのだろう。〈ぼく〉は中途半端のロクデナシで ありながら、そのことをしっかりと自覚できないままに生き延びている。この男は何に対 しても責任などとらないし、崇高な夢を見ることもないし、従って絶望することもない。 断念もないし、希望もないし、かと言って虚無に落ちているのでもない。自分とかかわっ た女を幸福にすることもできないし、不幸にすることもできない。〈ぼく〉はロクデナシ にすらなれないのだ。〈ぼく〉は超人でもないし、非凡人でもないし、そして最も肝心な ことは、彼はただの人ですらないということである。

 この小説を読んで、語り手であり主人公である〈ぼく〉をつくづく嫌な男だと思う読者 は少なからずいるだろう。こういった中途半端な甲斐性なしのナルシストの顔は見たくな い。なぜなら、この男を否定したいと思う読者にとって、この男の顔は最も見たくない〈 もうひとりのぼく〉でもあるからである。そういった点においては、この小説の〈ぼく〉 は現代日本人の典型的な負の裸形を晒している。が、おそらくこの〈ぼく〉は多くの日本 人によって拒否されるか、または無関心のままに放置されるだろう。ひとつの問題は、こ の〈ぼく〉が三面鏡の一面に映った〈もうひとりのぼく〉にしかなり得ないところにある 。もし仮に、この卑小な中途半端な〈ぼく〉が読者一人一人にとって正面の一面鏡に映っ た〈もうひとりのぼく〉そのものであれば、この小説は現代日本文学の代表作ともなった であろう。が、現実にはこの〈ぼく〉とは全く違った生の様態を生きる者は多い。そうい った様々な人間たちの坩堝の中にこの〈ぼく〉を置いてみるのでなければ、この主人公の 特質性を鮮やかに浮き彫りすることはできない。