清水正  村上玄一を読む(連載5)

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村上玄一を読む(連載5)

清水正

 

 描かれた限りで見れば、〈ぼく〉は孤立している。家族、職場、飲み仲間から孤立して いるばかりではない、肉体的な関係を取り結んでいる女からも孤立している。この男に唯 一優しい言葉をかけてくれるのは鏡のなかの〈貴女〉である。この〈貴女〉ばかりは〈ぼ く〉の弱点を責めたてたりはしない。

  ぼくは鏡のなかのぼくを直視する。そして、思いっきり叫んでみた。  「ねえ、あなた……、好きよ!」  これで『鏡のなかの貴女』は幕を下ろす。鏡の前の〈ぼく〉は鏡の中の〈貴女〉に向か って〈好きよ〉と叫ぶ。鏡のなかの〈貴女〉から〈ぼく〉が〈好きよ〉と叫ばれているこ とと同じである。〈ぼく〉と〈貴女〉はお互いに〈好きよ〉と叫び合ってお互いの存在を 肯定するのである。

 最後の言葉などはつげ義春の『海辺の叙景』で女が口にする「あなたすてきよ いい感じよ 」のセリフを彷彿とさせる。が、『鏡のなかの貴女』と『海辺の叙景』とではその内容が まったく違う。前者には〈ぼく〉と〈貴女〉の安易な自己肯定が見られるが、後者には恐 るべき死への吸引力が働いている。〈ぼく〉は〈貴女〉によって命を奪われる危険性が皆 無であるが、後者においては主人公の青年が海(および女)へと命を没していくその不可 避性が見事に描かれている。

 

  どんな人の思い出のなかにも、だれかれなしにはうちあけられず、ほんとうの親友に しかうちあけられないようなことがあるものである。また、親友にもうちあけることがで きず、自分自身にだけ、それもこっそりとしかあかせないようなこともある。さらに、最 後に、もう一つ、自分にさえうちあけるのを恐れるようなこともあり、しかも、そういう ことは、どんなにきちんとした人の心にも、かなりの量、積りたまっているものなのだ。 いや、むしろ、きちんとした人であればあるほど、そうしたことがますます多いとさえ言 える。少なくともぼく自身についていえば、やっと先ごろ、自分の以前のアバンチュール のいくつかを思いだしてみようと決心はしたものの、いまにいたるまで、いつも、ある種 の不安さえおぼえて、それを避けるようにばかりしていたものである。しかし、たんに思 いだすだけでなく、書きとめようとさえ決心したいまとなっては、せめて自分自身に対し てぐらい、完全に裸になりきれるものか、真実のすべてを恐れずにいられるものか、ぜひ ともそれを試してみたいと思う。

 

 これは地下男の言葉である。〈ぼく〉もまたこの地下男と同じように思って『鏡のなか の貴女』を書いたと言えよう。地下男は手記を書いたとき四十歳、彼は第二部で二十四歳 の時のアバンチュールを正直に書きとめようとする。それはまさに地下男が完全に裸にな りきれるかどうかの実験でもあった。

 〈ぼく〉は三十歳を過ぎたばかりの定職を持たない 男である。〈ぼく〉のやりたいことはどうやら小説を書くことらしい。法律事務所の所長 に「君は、もう、いい歳だろうけど、何をやりたいんだね」と聞かれて「小説を書きたい んですが……」と答えているし、飲み屋で今様の文学青年に「あなたも小説を書かれるん ですか?」と聞かれたときには「死ぬ覚悟もなくて、小説が書けるとでも思ってるのかい ? え!」と啖呵をきっている。 

 さて、それでは〈ぼく〉は自分でも秘密にしておきたいような恥ずかしいことをすべて 正直に書いたであろうか。三流大学に補欠入学したこと、幼い頃の草野球で自分のせいで 逆転負けしたこと、本当に好きな女と一度も関係を持ったことがないこと、三十過ぎても 定職のない貧乏人であること……はたしてこれらのことは〈ぼく〉にとって恥ずかしいこ とであったのだろうか。否、〈ぼく〉は自分の不運を嘆いても、その不運をはずべきこと と見なしているわけではない。むしろ逆である。〈ぼく〉は自分自身をきちんと把握して いるし、人生を真剣に生きようと心がけている。定職はない、金はない、しかし自分は自 分を誤魔化していないという自負が〈ぼく〉にはある。

 従って『鏡のなかの貴女』の〈ぼ く〉は自分の恥部をさらけ出すことで自分の醜悪な部分を厳しく凝視するというよりは、 そのことで自分以外のインチキ野郎たちのそのインチキぶりを露呈させたいという、屈折 した願望を秘めている。自分を誤魔化さず真剣に生きようとする者は、そうそう簡単に定 職などにつけるはずもないし、従ってまともな結婚もできるはずがない。自分はその上、 趣味もないし、これといった特技もない。しかし、ただ一つ、俺は命を賭けて小説を書こ うとしている。そんな俺は実は誰よりもすばらしいのだ。要するにこういった自分の生き 方に〈ぼく〉は惚れているのだ。

 不運、惨め、情けない……〈ぼく〉は確かにこういった 言葉を吐いている。が、この言葉は彼に向けられた、あるいは向けられるであろう他者の 言葉のコピーである。〈ぼく〉は他者たちが自分に対して下すであろう負の評価を先取り し、それを予め自らのうちに取り込むことによって、実はそれをすでに乗り越えている。 だからこそ〈ぼく〉は決して自分の〈情けなさ〉に敗北することはない。〈ぼく〉は不断 に他者の自己に向けられた〈負の思い〉を取り込むことで、他者に対して優位性を保持し ようとする。

 〈ぼく〉が願っているのは〈ぼく〉が自分を誤魔化さず真剣に生きているそ の生き方を全面的に肯定し、賛美してくれることである。しかし、どういうわけか〈ぼく 〉の前にそういった理解者は現れない。〈ぼく〉が酔いに任せて本音を語れば語るほど、 他者は彼を厄介者扱いし、まともに相手にしてくれない。〈ぼく〉はその不運の原因を真 剣に探ろうとする。しかし、すでに見ての通り、〈ぼく〉は鏡の中の〈貴女〉を自分の深 部に鋭い容赦のない眼差しを送る者としてではなく、鏡の前の〈ぼく〉を全面的に肯定す る唯一の理解者に仕立てあげてしまった。

 おそらく、〈ぼく〉はこれからも現実の世界の 中でただ一人の理解者もなく孤立し続けたまま情けない人生を送るであろう。

 〈ぼく〉は「なぎさ」のママに「学生の時には、いろんな事件があってねえ、安田講堂 の攻防でしょう、それから、よど号乗っ取り、三島由紀夫の自決、朝間山荘事件ね。だけ ど、ぼくは驚かなかったねえ、いつでも醒めてましたよ」と語る。この、いつでも醒めて いたことをさりげなく誇る〈ぼく〉は、結局鏡の中の〈貴女〉をも冷静に見るほかはない 。つまり〈ぼく〉は鏡の前で女言葉を発している自分自身のその演技意識からついに解放 されることはない。

 〈ぼく〉が不幸だとすれば、それは彼が醒め続けているということにある。醒めた意識 で物事を観察すれば、どうも絶対などというものはないように見える。〈ぼく〉は家族、 友達、スナックのママ、肉体関係で結ばれた女に対して何ら信用していない。彼らは束の 間、〈ぼく〉に係わっては消えていく存在に過ぎず、彼らのうちの誰ひとりとして彼に決 定的な影響を与える存在とはならない。

 〈ぼく〉には信ずるに足る存在、つまり神のよう な存在ははじめから問題にならない。先に指摘したように、〈ぼく〉の眼差しははるか遠 くを見つめる眼差しではない。〈ぼく〉の眼差しが捕らえるのはアルバイト先の所長や事 務員、スナックのママ、飲み仲間、そして肉体だけで繋がっているような女である。

 従っ てこういった男に残された〈生き方〉は、今までのように自分を誤魔化さずに真剣に生き ること、つまり金や職のためにおべんちゃらを使ったり頭を下げたりしないこと、その結 果〈定職なし、金もなし〉の生活を性懲りもなく続けること、もう一つはそういった生き 方を返上して積極的にインチキ野郎に成り下がることである。なにしろ〈ぼく〉は〈絶対 〉などを信じない醒めた男であるのだから、彼が今のところ嫌悪感さえ抱いている〈イン チキ野郎〉の生き方を選択したところで何も恥じることはないのである。

 〈ぼく〉が前者 の生き方にこだわっているのは、要するに彼が生半かなプライドを捨てきれずにいるから である。〈ぼく〉は未だ、どういうわけか誇り高き、情けない生き方そのものに一種の捨 てがたいダンディズムを感じているらしい。〈ぼく〉はこの一般受けしない貧乏たらしい ダンディズムが何よりもお好みに合っているらしいのだ。これは〈ぼく〉の屈折した虚栄 である。何も信ずるに足りない現実の世界にあって、不断に拗ねたポーズをとり続けてい たい。この欲求は、〈ぼく〉にあっては金とか定職を得たいという欲求よりもはるかに強 く作用している。何しろ、このポーズをとり続ける限り、〈ぼく〉はこの現実の世界に呑 み込まれずにすむというわけだ。

 〈ぼく〉は我を忘れて存分に現実を満喫することはでき ないが、しかし自らをいつも現実を冷静に観察する側に置いておくことができる。どうや ら〈ぼく〉は世界を創出した神に反逆まではしないが、現に存在する世界の冷徹な立会人 (報告者)にはなりたいらしい。これを〈ぼく〉の言葉で換言すれば命を賭けて小説を書 くということになる。そして〈ぼく〉はこういった、なかなかひとに理解してもらえない 自分を誰よりもステキだと感じ、鏡の前で「あなた好きよ!」と叫ばずにはいられない。

 要するに〈ぼく〉はナルシストのダンディであることを、金や定職に譲り渡すことはでき ないと固く決意した男なのである。こういった男は、自分のナルチシズムとダンディズム を守るためにも〈小説〉を書き続けるほかはないだろう。今のところ〈ぼく〉に欠けてい るのは〈小説家〉という肩書だけであり、これさえ手に入れて、社会的に認知されれば、 〈定職なし、金もなし〉といった世間の蔑みからは逃れられるだろう。

 それにしても小説を命懸けで書くという〈ぼく〉は、いったいその〈小説〉で何を実現 したいのであろうか。『鏡のなかの貴女』を見る限り、そこに描き出されているのは「定 職なし、独り暮らし、趣味なし、特技なし、金もなし」そして好きでもない年上の女とた まにセックスをするだけのなんとも情けない三十男の原寸大の姿だけである。