清水正  村上玄一を読む(連載6)

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村上玄一を読む(連載6)

清水正

 

 『鏡のなかの貴女』を読んで主人公でもあり語り手でもある〈ぼく〉に魅力を感ずる読 者がいるのだろうか。小学一年生の時に「一度に大勢の女を裸にする、そんなことのでき るヒトラーとは、いったい、どんな人間なのか」と秘かに興味を抱いて興奮したとスナッ クのママに語る〈ぼく〉は、心の底に権力掌握の野望を隠しながら、しかし現実には定職 にもつけない惨めな生活に甘んじている。〈ぼく〉は「ぼくには、ネクタイをしなければ ならない人種が、どうしても好きになれない。だけれども、いまのぼくは無意味にネクタ イをしなければならない。ああ、イヤだ。もっと本当の仕事をしたい。自分に納得のでき る仕事をしたい」と嘆く。それでは〈ぼく〉はいったい何をしたいのか。〈ぼく〉は所長 に銀座でカニ料理を御馳走になった時に、思いきって「小説を書きたいんですが……」と 口にする。

 所長はとつぜん笑いだし、教え諭すように「君、いい歳をして何を言いだすん だね。そんなものは暇な人間に任せておけばいいんだよ。そうだなあ、女子供の知的遊戯 といったところかな。男の小説は、もう書きつくされたんだよ。これからは、女子大生や 主婦が小説を書く時代なんだ。もっとも、ちゃんと立派な仕事を持った男が、その立場を よく理解したうえで、余技として書くのなら判るよ。それにしても、君には何が書けるん だ?」と言われてしまう。

 さて、〈ぼく〉の「小説を書きたい」という願望であるが、後 に彼は今様の文学青年には「死ぬ覚悟もなくて、小説が書けるとでも思ってるのかい? え!」と啖呵を切っているが、この時はまったく違う。〈ぼく〉は所長に「君は、もう、 いい歳だろうけど、何をやりたいんだね」と聞かれ、「とっさに何も思い浮かばなくて、 しかし、ここで考えこんでしまっては、自分の値打ちを下げるばかり、だから、所長に感 心してもらおうと、出鱈目でも、思いきって言ってみた」のが「小説を書きたい」云々と いう言葉である。

 この〈ぼく〉の言葉をそのままに受け止めれば、彼はアルバイト先の所 長に感心してもらいたい、自分の値打ちを下げたくないという、そういう阿りと虚栄の心 で〈出鱈目〉を口にしたということになる。はたして〈ぼく〉にとって小説を書きたいと いう願望は口から出任せの出鱈目なのか、それとも命懸けなのか。

 小説構成上の問題から 言えば『鏡のなかの貴女』は〈ぼく〉が〈ぼく〉を主人公として書いている一人称小説で あるから、すでに〈ぼく〉は小説を書きたいと思っている男ではなく、現に小説を書いて いる男ということになる。少なくとも〈ぼく〉は、所長の「それにしても、君には何が書 けるんだ?」という揶揄的な問に対してはきちんと『鏡のなかの貴女』という小説で答え たということになろう。

 〈女子大生〉でも〈主婦〉でも、〈暇な人〉でもない〈ぼく〉が 書いた小説は〈女子供の知的遊戯〉ではない、〈もう書きつくされた〉かもしれない〈男 の小説〉である。所長の言う「男の小説」は〈男を主人公にした小説〉とも〈男が書く小 説〉とも受け取れるが、〈ぼく〉が書いた小説は〈男〉である自分自身を主人公とした小 説である。   〈ぼく〉が書ける〈男〉は、所長が評価するような、男らしい野望に満ちた男 、ちゃんと立派な仕事を持った男ではない。〈ぼく〉が書ける唯一の男は「自分に納得の できる仕事をしたい」と念じながら、アルバイト先で電話番、新聞の切り抜き、使い走り に身を焦がし、週給二万七千円を貰うためにいかなる屈辱にも甘んじている男、呑み仲間 からは「お前には何の取り柄もなさそうだな」「俺は、こういう感じの人にはなりたくな いなあ」「どこか、生き方が狂ってるんでしょうね」とか「もっと彼の身にもなってみろ 、可哀そうじゃないか」などと言われてしまう男である。

 〈ぼく〉は自分の顔つきが生まれつき不運の相をおびているのかもしれないと思った直 後、ふと「だけど、真正の自分の顔を確認したくて、鏡を覗き込む人がいるだろうか…… 」と独りごつ。はたして〈ぼく〉は、その〈鏡を覗き込む人〉となる。〈ぼく〉が小説で 書きたかったことはこのことの他にはなかったと言っても過言ではない。〈真正の自分〉 を確認するためには、自分を誤魔化すことは許されない。どんなに醜いことでも、どんな に恥ずかしいことでも、そこから目を逸らすことは許されない。

〈ぼく〉はその実験に果 敢に乗り出す。電車の窓ガラスに映った〈もうひとりの自分〉を眺めながら、〈ぼく〉は 〈彼〉に語りかける「顔が長すぎるよ。鏡のせいじゃない。水色のワイシャツ、ちょっと カッコよすぎるんじゃないか? 口が大きすぎる、とくに上唇、猥褻な感じだねえ。髪の 毛がのびているよ、フケはついていないか? 目脂は? いつも左眼につけているけど。 ああ、疲れたねえ、……さあ、笑って、笑って、六十秒。歯茎を出しちゃあ、いけないよ 、それは下品というものだ。ぼくは、ほんの少しだけ歯を出して、ガラスに映るぼくに微 笑みかける。そのとたん、絶望の感覚が背筋を這う。お前は笑う資格のある人間だったの か。いったい何を笑ったんだ? 愉快なことでもあったのか、え? 醜い、お前の顔は醜 い! さっきのお前の顔は、乱交パーティー主催者といった感じだった。いいえ、そんな 多勢の人びとを取りしきるような器ではありません。あの笑いは、場末のストリップ劇場 で、本番をやりたい一心で舞台に駆けあがろうとする中年男のものだった。いえ、そんな 勇気と行動力のあるタイプには見えません。女性の下着に執着し、秘かにその臭いを喜ん でいる変質者的な笑いだった。好色さが露骨にあらわれている、ボロボロになった人間の 救われない顔だ。」

 さて、〈ぼく〉はこの小説において「ぼく自身の、もっとも醜い部分を直視し」得たか 。〈ぼく〉は自分の容姿に関しては「ぼくの目は細く、鼻はすわっているし、唇は厚い。 背は高くないくせに猫背で足も短い」などかなり大胆に、素直に語っている。しかし容姿 の醜さなどはそれをそのように見なす意識の醜さに較べればなにほどのことでもない。〈 ぼく〉が自分の上唇に〈猥褻〉を感じようと、歯茎を出した笑いに〈変質者的な笑い〉や 〈好色〉を感じようと、そんなことは彼の〈もっとも醜い部分〉を直視したことにはなら ない。

 〈ぼく〉は本当に自分を〈愚劣な人間〉〈破廉恥漢〉だと思っていたのだろうか。 〈ぼく〉は「自分で死ぬ気など、さらさらない。ならば、せめて見せかけでも、世の中に 通用する人間であるというポーズをとらなくてはならない」と語っている。〈ぼく〉は〈 ぼく〉を主人公にした小説において故意に自分を〈愚劣な人間〉〈破廉恥漢〉に仕立てあ げようとしたのではないか。それは単なる〈ポーズ〉なのではないか。

 自分を誤魔化さず 、真剣に生きようとする〈ぼく〉、「金を稼ぐことを目的として生きている人種を、この うえもなく嫌悪しつづけてきた」と語る〈ぼく〉は、定職なし金もなしの、その惨めな生 活に秘かな誇りさえ抱いているのであって、その心理の二重性をきちんと押さえないかぎ り〈もっとも醜い部分〉は浮上してこないだろう。

 〈ぼく〉は彼が認知している〈愚劣〉 や〈破廉恥〉に顔をしかめて赤面することはないだろう。なにしろ〈ぼく〉の心の底には 自分のことをきちんと把握できないインチキ野郎どもとは違って、自身の〈愚劣〉や〈破 廉恥〉を直視することができるすばらしい男だという、この小説では最後まで語られなか った自分に対する思いが潜んでいるのだから。もっと端的に言えば、「おれぐらいカッコ いい男はいないよ」と〈ぼく〉は秘かに思っているのである 。

 さて、鏡のなかの〈貴女〉に「あなた好きよ!」と言われた〈ぼく〉はその後どのよう に生きていくのだろうか。