清水正  村上玄一を読む(連載13)

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村上玄一を読む(連載13)

清水正

 

 

 このロクデナシにもなれない〈ぼく〉の価値を浮上させるためには、この〈ぼく〉を相 対化する人物の登場が待たれる。美樹子も富田も順子も沢井原も〈ぼく〉を相対化できて いない。〈ぼく〉は他者を不断に客観化して見ている。この対他者関係を徹底化すれば、 〈ぼく〉は他者を客体化することになる。要するに〈ぼく〉は他者を〈もの〉化し、生き た人間と見なさなくなる。生きた人間は何を仕出かすか分からない。それは危険な存在で ある。〈ぼく〉は他者を自分の存在を脅かすかもしれない危険な存在と見なして関わって いない。美樹子や順子と〈ぼく〉は長いあいだ肉体関係を取り結んでいるが、そのことで 精神的関係を濃密にしているわけではない。この小説に登場して〈ぼく〉と関係を持つこ とになる人物のすべてが、〈ぼく〉の〈価値観〉を脅かす存在となってはいないし、そも そも〈ぼく〉のその〈価値観〉に気づいてさえいない。そしてその原因の大半は自らの〈 価値観〉をしっかりと認識していない〈ぼく〉自身にある。

 

 いったい〈ぼく〉は何に対して最上の価値を見いだしているのであろうか。ここに描か れた限りで見れば、金でもないし、女でもない。〈ぼく〉には自らの命を賭してまで獲得 したいものは何もないように見える。かと言って〈ぼく〉は特別、自らの命に価値を置い ているわけでもなさそうである。〈ぼく〉は精一杯、命を燃焼させることもできないし、 だからと言って死ぬこともできない。〈ぼく〉には沢井原のように自ら命を絶つことは絶 対にできない。まさにこういった男は、ウイスキーのコップを手にして両目を閉じて立ち 尽くすほかはない。

 〈ぼく〉は順子と別れたことで束の間の解放感を味わっているが、そ んな解放感は彼の存在を覆い尽くしているどんよりとした空気に比すれば何ものでもない 。〈ぼく〉は決して孤立しているのではない。しかし孤独でもない。〈ぼく〉には孤独に 徹した男の透明な寂寥感がない。〈ぼく〉には孤独に徹した男の底無しの闇を感ずること もない。〈ぼく〉をとりまく空気はどこまでもどんよりとしている。それは、息苦しさを 感じるほど汚れてはいないが、深呼吸したいほどさわやかなものでは決してない。〈ぼく 〉は東京に住んでいるが、東京人ではない。故郷は九州だが、その故郷は郷愁を誘う魂の 古里とはなり得ない。〈ぼく〉には家族があり、愛人がおり、妻までいたが、彼らの誰一 人としてかけがえのない人とはならなかった。従って〈ぼく〉は、肉体を持ち、なんやか んやを考え、日々を呼吸して生きてはいるが、愛を知らず、憎しみを知らず、怒りを知ら ず、悲しみを知らない。ただひたすら冷静を装って、孤立もできず、孤独にもなれず、内 的に閉塞されたどんよりとした時空をばくぜんと生きている。はたしてこんな人間を〈生 きている〉と言えるのか。いったい〈ぼく〉の最上の価値はどこにあるのか。

 

 『鏡のなかの貴女』の〈ぼく〉は命懸けで小説を書くと言っていた。『謎謎』の〈ぼく 〉もまた、この小説の語り手であり主人公であるから、〈ぼく〉の最上の価値は自分を主 人公にした小説(ぼく小説)を書くことにある、と言ってもいいだろう。〈ぼく〉は自分 が生きてあるその姿をできうるかぎり忠実に描きだそうとしている、そのことだけがかろ うじて彼の生きる証となっている。

 〈ぼく〉は小説の中の〈ぼく〉であるから、とうぜん虚構の語り手であり人物である。 作者村上玄一とこの虚構の〈ぼく〉を同一視することはもちろんできない。しかし現実の 村上玄一を知る者から見れば、『鏡のなかの貴女』の〈ぼく〉も、『謎謎』の〈ぼく〉も かなりの部分において作者の内的外的諸相を反映している。明らかに違うのは〈ぼく〉と 村上玄一の容貌である。村上玄一はどういうわけか『鏡のなかの貴女』の〈ぼく〉を醜男 に設定しているが、わたしなどから言わせれば『鏡のなかの貴女』や『謎謎』の〈ぼく〉 は美男子に設定しておいた方がいい。そうした方が、なぜこういった中途半端な甲斐性な しの男に愛人や結婚相手ができるのか分かりやすい。甲斐性なしのロクデナシだが、ダン ディでナルシストで女好きの美男子であれば、そういった男と関係を持ちたがる女はあん がい多いかもしれないからである。

 わたしが村上玄一と出会った頃、会うとよく『鏡のなかの貴女』の話をした。「なぜ、 〈ぼく〉は鏡の中へ侵入していかないのか、それを書くと面白いのに」といったようなこ とを執拗に繰り返し言った覚えがある。が、村上玄一はわたしが言うような小説は何一つ 書かなかったし、『穴まどい』を「江古田文学」(昭和六十年十月)に発表してからは小 説自体を書かなくなった。『生き方の練習』が発表された「江古田文学」は平成五年八月 であるから、実に八年ぶりということになる。ここで詳細に批評することはしないが『穴 まどい』『生き方の練習』『うしろ姿』の主人公たちの性格は『鏡のなかの貴女』『謎謎 』の〈ぼく〉と基本的にはほとんど変わっていない。

  村上玄一の主人公は執拗に、まるで依怙地になったように鏡の前に立ち尽くし、鏡の中へ と侵入することもなければ鏡を叩き割ることもなかった。換言すれば、幻想や希望や夢を 抱くこともなければ、狂気や絶望や自殺に到ることもなかったということである。彼らは 、現実の世界で原寸大の自分自身を遠くを見ることのできない肉眼の眼差しで見つめるほ かはない。彼らは、別に世界に頽落(ハイデッガーが言う好奇心・おしゃべり・曖昧に生 きている人間の非本来的な様態)しているわけではない。彼らは自分の甲斐性なしや虚勢 や自惚れや曖昧さをそれなりに自覚しているが、ただそこから別の生の様態へと飛躍する 力もないし、飛躍することに何らの希望も抱いていない。

  絶対的な価値があり、その価値に従って生きながら、人生の途上で価値変換を強制され た者なら虚無や絶望を味わうのはとうぜんであろう。『謎謎』の〈ぼく〉のオヤジのよう な戦争体験者なら、敗戦後、口を閉ざさなければならなかった内的必然性がある。しかし 、戦後に生まれ、お仕着せの民主主義教育を受けてきた〈ぼく〉たちには、そもそも絶対 価値なるものが存在しなかったし、とうぜんのこととしてその崩壊感覚もない。〈ぼく〉 はまさに日本の敗戦後の曖昧さを自らの存在の証のようにして生きている。〈ぼく〉はそ の鳥餅のようなねばっこい曖昧さのぬるま湯の中に投げ出された存在と言えようか。〈ぼ く〉はそのぬるま湯の中で満足しているわけではないが、かと言って必死になってもがい ているわけでもない。〈ぼく〉はこのぬるま湯を日常として受け入れており、〈ぼく〉に とってはどんな突発的な事故や事件もこのぬるま湯の中に放り込まれればたちまち日常と 化すことを感覚的に知っているのだ。このぬるま湯の日常をアニメ的に表現すれば巨大な 灰色の化け物となろうか。実はこの灰色の化け物は、敗戦後の日本全体を覆い尽くしてい るようにも思える。そういう意味では、村上玄一の描く中途半端で卑小な〈ぼく〉という 存在は、敗戦後の日本人の一つの姿(側面)を隠喩的に表現したものだと言えないことも ない。

  問題は〈ぼく〉に対して作者の村上玄一がどこまで突き放して冷徹に見ているかである 。おそらく村上玄一は〈ぼく〉に対して明らかに距離を持っていると主張するだろう。〈 ぼく〉は作者によって作られた語り手であり主人公であるから、それは当然である。しか し、読者の目から見ると、〈ぼく〉が作者と重なって見えることはあっても、〈ぼく〉が 作者から突き放された存在には見えない。〈ぼく〉に対して最も親和的な関係を取り結ん でいるのは、鏡に映った〈もうひとりのぼく〉よりもはるかに作者自身であるようにさえ 見える。

 『鏡のなかの貴女』を例にとると、〈ぼく〉は鏡の中に〈もうひとりのぼく〉、すなわ ち〈鏡のなかの貴女〉しか見ていない。読者に見えるのは〈鏡のなかの貴女〉と鏡の前に 立っている〈ぼく〉である。換言すれば、作者はこの二人しか描いていないということで ある。もし作者が〈ぼく〉に対して冷徹な眼差しを送っていたならば、〈鏡のなかの貴女 〉の背後に彼女とは全く別の存在をも描いたであろう。描かないまでもその存在を読者に 感知させたであろう。同じことを鏡の前の〈ぼく〉に則して言うなら、この〈ぼく〉を見 つめるもう一人の存在を描いたであろうということである。こういったことをさらに換言 するなら、村上玄一の〈ぼく小説〉には批評が欠如しているということである。語り手で ある〈ぼく〉は自分を主人公とする〈ぼく小説〉において、自らの存在を他者の眼差しで 見る視点を欠いている、そのことによって自らのナルチシズムとダンディズムを無意識の 内に肯定し、それを厳しく撃つことができないのである。