清水正  村上玄一を読む(連載11)

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村上玄一を読む(連載11)

清水正

 

 

 〈ぼく〉は割付の仕事をしながら富田を思い、沢井原を思い、そしてオヤジのことを思 う。

 

  オヤジの病気が悪化していなかったら、冷静に断わっていた仕事かもしれない。九州 まで帰る交通費を稼ぐ必要がなかったら、いま頃、ぐっすり眠っているはずなのだ。しか し、ここはオヤジのために何としても乗り切らねばならぬ。だけど、なぜオヤジのためな のだろう?

  いつ死ぬかもしれないオヤジ。オフクロの連絡によると、「想像を絶する苦しみ」と 闘っているらしいけれど、用意されている死に一歩一歩、近づいているということだろう 。そこには、ひとつの平凡な死があるだけ。

  オヤジの一生はもうじき完了する。はて、これまでに考えてみたこともないけれど、 オヤジの一生とは、一体どんなものだったのか。

 

 このあたりの叙述はしんみりとした感じがよく出ている。三十数歳までは国のために戦 地に狩り出され、敗戦後三人の子供をもうけ、今、癌になって死のうとしているオヤジの 一生……。〈ぼく〉は「何の趣味もなく、ただ三人の子供を平凡に養い、普通の教育を受 けさせるために、金の苦労だけはしたであろう、存在感の薄かったオヤジ」と書いている 。

  〈ぼく〉のオヤジはわたしの父親のイメージにも重なり合う。わたしの父親は大正四年 生まれ、近所に住んでいた同じ年頃の男達も同じような性格のひとが多かったように思う 。おしなべて寡黙、余計なことなどいっさい口に出さず、黙々と仕事をしているひとが多 かった。丙種合格のわたしの父親が徴兵されたときは、近所の者たちがいよいよ日本は負 けるのかと噂しあったそうである。しかし、そんな話はぜんぶ母親から聞いたことで、父 親は自分の人生についていっさい語ることはなかった。はっきりと言えることではないが 、戦争に狩り出された日本人の多くもまた戦争の犠牲者であったと思う。誰が好きこのん で戦地に赴くであろうか。しかも戦争から帰ってくれば日本の戦争行為そのものが全否定 されている。わたしの父親は戦地につくこともなく、したがって人を殺したことはないが 、それでも戦争のことについて触れることはなかった。ましてや戦地で戦闘行為に参加し た者の口が重くなるのは当然であろう。

 〈ぼく〉のオヤジは九州、わたしの父親は関東の 千葉で、戦争体験も異なるはずなのに、その姿には共通したものが漂っている。〈オヤジ の一生〉を考えるとは、自分の意志とは関係なく狩り出されたオヤジ達の戦争を息子達が きちんと捕らえ返すことにあるように思える。

 〈ぼく〉は東京オリンピックが開催される前年、中学二年のある日の事を思い出す。

 

 オフクロと妹が市内に買い物に出かけて、思いもよらぬものを持ち帰った。真っ白な一 個のバレーボールだった。嬉しがり屋の兄は、さっそく近似の友達を集め、オフクロや妹 も一緒に、七、八人で円陣をつくり、ボールを打ち合った。ぼくも調子に乗って、「回転 レシーブだ」なぞと、必要もないのに転んでみせて、みんなを笑わせたりした。そんな日 々が二か月もつづいたろうか。しかし、オヤジは、そのグループの輪のなかに、一度も加 わろうとはしなかった。縁側にぼんやり腰かけていたオヤジは、ぼくらが遊び興じている のを見ているふうでもなかった。この、いかにも平和な家庭の風景に照れてでもいたのだ ろうか。

  それから半年ほどが過ぎて、誰も相手にすることがなくなり、薄汚れて庭の隅に放置 されたままだったバレーボールを、大切そうに両手で持っていたオヤジの後ろ姿を見たこ とがある。オヤジは何を思っていたのだろう。

 

 この場面はしみじみしていていい。〈薄汚れて庭の隅に放置されたままだったバレーボ ール〉とはまさに〈ぼく〉のオヤジそのものの姿と言えよう。このオヤジの後ろ姿をとら え、記憶に刻み込んだ〈ぼく〉の眼差しは信用するに足る。このときの〈ぼく〉が陳腐な 解説や分析をしていないのがいい。平凡な家庭の風景のなかで、ひときわ平凡な姿のまま に浮上してくるオヤジが抱え込んだ闇ははてしなく深い。三十数歳まで戦地に狩りだされ ていたオヤジの人生が平凡であるはずはない。オヤジが心の奥に沈めた闇は深すぎて平凡 に映るまでのことである。オヤジの死に対して「そこには、ひとつの平凡な死があるだけ 」と断定した〈ぼく〉は、はたしてどこまでオヤジの闇を覗き込むことができたのか。  〈ぼく〉は妻の順子に関しては次のように書いている。

 

  順子が別れたいと言ったら、きっと、ぼくは同意するだろう。ぼくに、男としての魅 力が欠けていることは、自分自身が一番よく知っている。それに、ぼくには順子を責める 資格がない。結婚してからも、美樹子との関係は長くつづいていた。順子が、そのことを 察知していたのかどうか、それは判らない。おそらく薄々は感じていたはずだ。だけど、 美樹子が富田と一緒になってから、順子に男ができるとは皮肉なものだ。           順子が家を出てしまったあと、ぼくにかかってくる最大の負担は、家賃の八万円を、 ひとりで支払わねばならぬことだ。ぼくが五万、順子が三万だして、高すぎる家賃を、こ れまでどうにか賄ってきた。生活費も八割以上を順子が出費していた。ぼくの収入のほと んどは、交際費の名目で酒代として消えた。銀行預金の残高は、いつも五万円前後。

  それでも、ひとりになっても何とかやりぬけるような気がする。具体的に面倒なこと が沢山でてくるだろうことは想像できる。でも、ぼくは時間を拘束されたサラリーマンで はない。ウィークデイに布団を干すことも可能だし、クリーニング屋にも行ける。自分で 、自由に時間の組み立てができる。金銭的に少々の不安はあっても、さしあたって心配事 はないといっていい。

 

 〈ぼく〉は妻の順子になんの執着も覚えていない。この感情は美樹子に対しても基本的 には同じである。否、順子や美樹子に対してばかりではなく、〈ぼく〉はオヤジやオフク ロや兄や妹、それに富田に対しても特別の感情を抱いているようには思えない。現実に生 きていながら、現実に丸ごと参加しているといった生の感覚が希薄である。〈ぼく〉には 烈しい感情の爆発が全くない。まさに熱くもなく冷たくもない、なまぬるい人間、つまり 神の口から吐きだされてしまうような典型的な俗物である。この俗物は『罪と罰』に登場 する俗物ルージンに較べてもなまぬるい人間である。

     ルージンは自分の嫁さんにしたい女 性は貧乏な家の美人で処女で夫を無条件に尊敬してくれるような女性にかぎると真剣に思 っているような中年の弁護士である。この男、かなりの敏腕家であるが、同時にしみった れで、婚約者となったドゥーニャとその母親を三等列車で首都に招くような男でもある。 まあ、ルージンのしみったれは、彼と結婚することでロジオンの将来の安泰をはかろうと したドゥーニャや母親プリヘーリヤの打算を考えれば、要するにどっちもどっちというこ とになる。が、許しがたいのはソーニャに冤罪事件を仕掛けたことである。一家の犠牲に なって娼婦に身を落としたソーニャに百ルーブリの金を盗まれたと公衆の面前で一芝居う つこの男の卑劣度はそうとうに高い。要するにこういったルージンのような卑劣漢に較べ れば、〈ぼく〉はかなり普通の良くも悪くもない俗物ということになる。

 ところで、ルージンが『罪と罰』という小説の中でその俗物性が突出してしまうのは、 彼がロジオン・ラスコーリニコフやソーニャといった、言わば〈純粋人間〉の直中に登場 してきたからと言えよう。ところが『謎謎』という小説では、〈ぼく〉を始めとしてすべ ての人物が俗物であるので、〈ぼく〉の俗物性や卑劣さは特に目立つことはない。あるい は、〈ぼく〉を卑劣漢と見なすわたしの批評に意外な感じを持つ読者さえいるかもしれな い。『謎謎』において〈ぼく〉の卑劣さを告発し糾弾する人物はいない。語り手である〈 ぼく〉自身が自らの卑劣さに気づいていない可能性すらある。  『罪と罰』においてロジオンは二人の女性を斧で叩き殺してすら自分を潔癖な人間だと 思っている節があった。鋭利な分析力を持つ予審判事ポルフィーリイはロジオンを、二人 の女を殺しておきながら自分は蒼白き悩める天使のような顔をしてペテルブルクを彷徨い 歩いている青年と皮肉っている。

      ロジオンは彼の母親と同じようにくだらない人間に属し ている。息子に向かって、おまえはラスコーリニコフ家の杖だ、柱だ、などと過剰な期待 を寄せて、せっせと仕送りを続ける母親プリヘーリヤと、高利貸しの婆さんを殺してその 金を奪い、その金を元手にして企業を立ち上げ、成功した暁に恵まれない人々に報いれば 、その一つの犯罪は贖われるのだなどと考える息子ロジオンは、確かに濃い血によって繋 がっている。

 このロジオンというロクデナシの殺人青年が、それにもかかわらず多くの読 者に支持されているとすれば、それは彼の苦悩の深さにある。一つの犯罪は百の善行によ って贖われるとか、非凡人は良心に照らして血を流すことが許されているとかいう、そう いった理屈を正当化しながらも、ロジオン自身は犯行後、一時として不安と恐怖から解放 されることはなかった。この不安と恐怖は単に逮捕、裁判、判決へのそれとばかりは言え ない。ロジオンは殺人という〈踏み越え〉を実践することで、論理を越えた何か絶対的な もの、微塵も疑い得ぬ〈真理〉を見いだそうとした。その、何か絶対的なるものを見いだ そうとして見いだせぬ、その苦しみに悶える、その姿に読者は共鳴するのである。

 

 ドストエフスキーが主人公格として据えるのは、殺人者ラスコーリニコフ、娼婦ソーニ ャ、酔漢マルメラードフなどである。ドストエフスキーは彼らに肯定的な照明を与え、殺 された高利貸しの老婆アリョーナやルージンなどにはどちらかと言えば否定的な照明しか 与えていない。『罪と罰』はその殆どの場面が主人公ロジオンの視点から描かれているの で、その語りの機能に乗せられた読者は無意識のうちにロジオンの感情を共有することに なる。つまり読者もまた人類全体の苦悩を一身に背負ったような気分になってしまうので ある。

 〈ぼく〉にはロジオンが抱えた問題、つまり或る何か絶対的なるものを見いだそうとす る視点が当初から欠けている。従って、それを見いだそうとする止むにやまれぬ衝動に駆 り立てられることもない。〈ぼく〉にはロジオンのような〈踏み越え〉の実験衝動がない ばかりではない。ルージンのような実業家としての野心もないし、自分の好みにあった女 性と結婚しようとする意志もないし、子供を作って幸福な家庭を築きあげようとする考え もない。〈ぼく〉はかろうじて夫であり、情夫であり、アルバイターである。〈ぼく〉は たまたま東京で働き、生活しているが、もちろん東京は彼にとって故郷とは言えない。〈 ぼく〉の故郷は九州の田舎にあるが、そこは彼にとって帰りたいと思う心の故郷ではない 。いったい〈ぼく〉は何を心の拠り所として生きているのだろう。親も兄弟も、妻も愛人 も、仕事先の上司や仲間も、〈ぼく〉の心の中心部に存在することはない。というよりか 、〈ぼく〉に心はあるのだろうか。〈ぼく〉は自分の人生をどこかで捨て去ってしまった のだろうか。しかし、〈ぼく〉には〈捨て去る〉などというドラマチックなものを感じ取 ることもできない。〈ぼく〉は自分を余計者として把握しているのだろうか。しかし、〈 ぼく〉に余計者としてのアンニュイな雰囲気を感じることもない。〈ぼく〉はかなり中途 半端なところにとどまっている。そして、その止まり方はかなり自己保身的で受け身であ る。おそらくこの男は今後とも、我を忘れて熱くなったり、泣いたりわめいたりすること はないだろう。なにしろ、この〈ぼく〉は『鏡のなかの貴女』の〈ぼく〉と同じように、 この優柔不断な、中途半端な、自分の生きるスタイルをダンディだと思い込んでいるのだ から。

  もし、〈ぼく〉が自らのダンディズムの空っぽさをきちんと認識し、その空っぽな 状態から一歩でも踏み出そうとすれば、新たなドラマが展開されることになるだろう。し かし、この〈ぼく〉はこの〈空っぽ〉な状態をこそ愛しているらしい。何しろ、熱くも冷 たくもない〈ぬるま湯〉につかっていることは、それはそれで快適な状態には違いないの であるから。

 〈ぼく〉が気にしているのは別れ話をもちかけてくる順子のことではない。順子と別れ た後、自分一人で負担しなければならない家賃のこととか生活費のことである。良くも悪 くも、〈ぼく〉は順子の内面にはいっさい関わろうとしない。〈ぼく〉と順子はただ肉体 関係だけで続いてきた夫婦であったのだろうか。肉体関係がなくなれば、夫婦である必要 もなくなったということであろうか。〈ぼく〉と順子の関係は夫婦というより肉体関係を 続けていた同居人と言った方がいいかもしれない。〈ぼく〉は妻にした順子に対しても、 愛人の美樹子に関しても、特別の所有欲はない。肉体関係をもった女に対するこういった 態度を何と形容したらいいのだろうか。〈ぼく〉は始めから〈男らしさ〉みたいなものを 放棄してしまっているから、男性優位主義的な考えはない。そういう意味では〈ぼく〉は かなり肩の力を抜いて生きている。〈ぼく〉は妻に対して主人でもないし、ヒモでもない 。自分の心のうちをすべて開いて、妻と〈愛〉によって結ばれているわけでもないし、そ んなことは始めから不可能であることを承知している。〈ぼく〉には結婚する前から美樹 子という女がいたわけだから、順子を純粋に愛していたなどとは口が裂けても言えない。 確かにこういった男に魅力を見いだすことは困難である。が、世の中は広いもので、こう いった男にイライラしながら離れられずにいる女がいないわけではない。

 それにしても、こんな中途半端なロクデナシの男と八年も一緒にいた順子のどこに魅力 があるのだろうか。この小説にはついに登場しなかったが、順子の浮気相手にぜひとも彼 女の魅力について語ってもらいたかったものだ。