清水正 動物で読み解く『罪と罰』の深層■〈虱〉(вошь) 連載10

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江古田文学」99号(2019-3-25)に掲載した「動物で読み解く『罪と罰』の深層」(連載3回)を数回にわたって紹介する。

動物で読み解く『罪と罰』の深層

 

清水正

■〈虱〉(вошь)
連載10

 

 ロジオンを傲慢な青年に育て上げてしまった責任の大半は、息子に没落したラスコーリニコフ家の再建を託し、息子を一家の柱だ杖だと持ち上げたプリヘーリヤにある。この教育ママの母親は、自分でもよく理解できないままに息子に過大な期待をかけ、息子から本来的な自由を奪い、粘着質的に拘束し、出口のない窮地へと追いつめていった。

 ロジオンが母親の期待に応えられる息子であれば問題はない。貧乏などものともせず、たくましく現実を泳ぎ切っていったことだろう。しかしロジオンという頭でっかちの〈英雄〉は、出世の階段を一歩一歩地道に上っていくことができない。ロジオンは権力も財産も一挙に手中にすることのできる非凡人の途を選ぶ。なぜなら彼は自分を保守と服従をこととする凡人ではなく、あらゆる障害を踏み越えていく〈非凡人〉〈英雄〉と見なしたかったからである。もちろん、並の学生の思索力をはるかに越えていたロジオンのことである、自分を非凡人と見なすこと自体の滑稽をよく知ってはいた。しかしそれでもなおロジオンは自分を非凡人や英雄の範疇から解放し、自らを民衆の一人として素直に受け入れることはできなかった。

 ロジオンは犯行後もアリョーナ婆さんを一匹の〈虱〉から解き放つことができなかった。彼はアリョーナ婆さんの肉体を死に至らしめることはできたが、夢の中に出現する不気味な笑いを湛えたアリョーナ婆さんを殺すことはできない。彼はアリョーナ婆さんという〈虱〉に呪われた男なのである。

 ロジオンはアリョーナ婆さん殺しに関してソーニャに向かって次のように言う。「ぼくはしらみを殺しただけじゃないか、ソーニャ、なんの役にも立たない、けがわしい、有害なしらみをね」(下・127)〔Я ведь только вошь убил, Соня, бесполезную, гадкую, зловредную.〕(ア・320)と。 2018年6月8日(金) ロジオンはリザヴェータ殺しの犯人が自分であることをソーニャに分からせるが、それは〈報告〉であって〈告白・懺悔〉でないことはこの言葉によって明白である。読者が忘れてならないのは、ロジオンがソーニャに報告し、大地に接吻し、警察署で自首し、シベリアで復活の曙光に輝こうとも、彼は〈踏み越え=преступление〉(二人の女を殺したこと)に最後の最後まで〈罪=грех〉意識を感じなかったことである。

 ロジオンはアリョーナ婆さんに〈同情〉(сострадание)を覚えたことは一度もない。アリョーナの夫は官位で一番下の十四等官で亡くなっている。読者はアリョーナがいつどこでとのようにして夫と出会い、どのような生活をしたのか、いつどういう事情で夫が亡くなったのか何一つ知らされない。腹違いの妹リザヴェータはどういうわけか年中孕んでいるような女であるが、この性的に奔放な妹と二人でどのような暮らしをしてきたのか。読者が知らされるのは或る学生の口から漏らされた情報だけである。アリョーナ婆さんは自分が残した財産を永代供養として教会に寄付するという遺言を書いてあったというのであるから、ロジオンなどよりはるかに神を信じていたとも言えよう。リザヴェータは分離派の一派、観照派に属していたという説もあるが、アリョーナがロシア正教の信徒であれば、二人の信仰上の確執なども問題にしなければならないが、作者はこういった点に関しては全く触れることがなかった。いずれにしても、わたしが言いたいことは、アリョーナ婆さんをロジオンの生理的嫌悪感に汚染された主観の檻から一度は解放する必要があるということである。

 ロジオンの内にはアリョーナ婆さんから皇帝まで、人間はみな〈卑劣漢(подлец)という人間認識があるが、しかし一度だけこの認識に疑問を投げかける瞬間があった。彼は独語する『もし人間が、一般に人間が、つまり全人類がほんとうは卑劣じゃないとしたら、あとのことはいっさいが偏見で、見かけだけの恐怖で、なんの障害もないってことになる』(上・62)〔коли действительно не подлец человек, весь вообще, весь род то есть человеческий, что остальное

всё―предрассудки, одни только страхи напущенные, и нет никаких преград, и так тому и следует быть!〕(ア・25)と。この独語は『罪と罰』において最も重要であるかもしれない。

 マルメラードフはロジオンに向かって言う「あなたはわたしが豚でないと断言なさる勇気がありますか?」と。誰もがマルメラードフを〈卑劣漢〉〈ろくでなし〉〈豚〉と見なすだろう。一家の犠牲になって娼婦に堕ちた娘ソーニャのところへ酒代をせびりに行くようなマルメラードフは間違いなく〈豚〉以下の存在である。しかし、この〈豚〉以下の父親をソーニャだけは「豚ではない」(не свинья)と確信している(作中には一言も語られていない)。ソーニャは彼女のことでマルメラードフが誰よりも深く苦しみ悲しんでいることを知っている。ロジオンはマルメラードフの質問に沈黙を守っているが、わたしがここで指摘しているようなことは理解していたはずである。

 では、改めてロジオンに問おう、ソーニャもまた卑劣漢であり、一匹の〈虱〉に過ぎないのか? と。神の命に背いて淫売稼業を続ける〈罪の人〉ソーニャが、もし〈卑劣漢〉でもなく〈虱〉でもないとすれば……。すべての〈卑劣漢〉が、一挙に卑劣の衣装を剥ぎ取られ、今までまったく知られなかった新しい存在として誕生する。それは地上の世界で様々な役をあてがわれた役者たちが、各々の衣装を脱ぎ捨てた姿にも重なる。 

 ロジオンは人間を凡人と非凡人の二つの範疇に分類し、すべての人間を例外なくそのいずれかに当てはめる。ここでは人間をすべて〈卑劣漢〉とみたり、〈非卑劣漢〉とみたりしている。この見方に立てば、ソーニャは卑劣漢でもあり非卑劣漢ともなる。ソーニャは淫売婦であるが心優しい自己犠牲的な側面が強調されているので、彼女を卑劣漢と見る読者はいないのではなかろうか。しかし、冷酷な見方をすれば、どのような事情があれソーニャは「汝姦淫することなかれ」の命に背いている〈罪人〉には違いない。作者はこの〈罪人〉に聖なる書物を朗読させ、殺人者ロジオンに大地への接吻(公衆の面前で罪を告白すること)を断固として指示する。〈罪人〉がもう一人の〈罪人〉(ロジオン自身は自らを犯罪者とは認めているが、殺人行為に罪を感じることはなかった)に罪の告白を指示する。

 改めて考えれば奇妙なことである。ロジオンもまたソーニャと同様の奇妙さを抱えている。ロジオンは二人の女を殺すという大罪を犯しておきながら、ソーニャに百ルーブリ盗まれたという冤罪事件を仕掛けたルージンを正義者面して非難する。まさにロジオンは卑怯者であり、卑劣漢である。なにしろ彼は自分の犯罪をひた隠しにしながら他者の卑怯を告発し罰する正義の側に立つのであるから。しかし、ロジオンはルージンに向かって自分の卑劣を披露することはしない。彼の〈卑劣漢〉〈非卑劣漢〉も抽象的でなんら具体的ではない。彼は「もしルージンやスヴィドリガイロフが卑劣漢でないとしたら」とか「もしソーニャが卑劣漢であったら」とかいうふうには考えない。これは彼自身にも言える。彼は犯行前「もし俺が凡人でしかないとすれば」と真剣に考えたことはない。彼は漠然と自分を非凡人の範疇に属する者と勝手に思いこんでいたに過ぎない。非凡人であれば、当然、実際的精神を駆使して犯行後の計画を具体的に練ったであろうし、練れば、否、練るまでもなく〈アリョーナ婆さん殺し〉など現実離れした妄想にしか過ぎないと思うだろう。ロジオンの思想は大ざっぱで単純であるから、突っ込みどころ満載である。

 人間には卑劣なところも卑劣でないところもある、というならわかる。もし「人間はすべて卑劣漢である」というなら〈卑劣漢〉をきちんと定義してもらわなければこまる。が、ロジオンは〈非凡人〉〈凡人〉に関してはポルフィーリイに向かってその定義を披露しているが、〈卑劣漢〉〈非卑劣漢〉に関しては何ら具体的な説明をしていない。従って読者が勝手に解釈することになる。

 ロジオンはもし人間がおしなべて卑劣漢でないとしたら、なんら恐るべきことも障害もないと思う。分かるようで分からない言葉である。『悪霊』のキリーロフはてんかん発作の前兆(アウラ)における〈永遠調和の瞬間〉を口にする。彼はすべてが良いと思えばすべて良し、という全世界肯定の言葉も口にしている。この境地に立てば、地上世界における〈善〉と〈悪〉の区別はない。すべてはあるがままに許容されることになる。はたしてロジオンにこの全世界肯定の思想が舞い降りたのであろうか。彼の言葉は舌足らずで、思想の核心が的確な言葉によって表現されているとはとうてい思えない。

 すべて良し、というニーチェの善悪観念を超脱した全世界肯定の思想がドストエフスキーの人物に賦与されていたのかどうかも疑わしい。キリーロフの永遠調和の瞬間はてんかん発作の前兆において体感されるが、それが確固たるキリスト教を超えた思想として定着していたかどうかに関しては疑問である。ドストエフスキーの人物たちは、神人論者は狂信的であり、人神論者は神の存在を前提とした悩める反抗者の貌を隠しきれないでいる。全世界肯定の思想及び体感は悟りの境地と合致していない。ドストエフスキーの最後の神人論者アリョーシャの内部には悪魔の子供が潜んでおり、アリョーシャ自身がそのことを明確に自覚している。ドストエフスキーが創り出した最大の人神論者イワン・カラマーゾフは誰よりも〈神〉(地上世界において公平・正義・真理を実現する神)の存在を求めていた。彼の不信と懐疑は神の存在を前提にしたそれであり、ドストエフスキー文学の人物たちは例外なく神の周りをまわっている。キリスト教の神を超えた永遠、絶対を問題にする人物はいなかったと言っても過言ではない。

 ロジオンはマルメラードフの説く〈赦しの神〉、ソーニャの信じる〈神〉に最終的にはすくい取られていく。作者はエピローグにおいて愛によって復活したロジオンを報告する。思弁の代わりに命が到来したと書く作者は、ロジオンが今再び不信と懐疑の思弁に立ち返る可能性を認めない。ロジオン・ロマーノヴィチは紛れもなく〈ロマンの子〉(長編小説の子)であり、作者ドストエフスキーが創り出した子供なのである。ロジオンはさらなる殺人を犯すことも、発狂することも、自殺することも許されず、ただ一つの途、復活に至る途へと誘導された。誰によってか。言うまでもなく、キリスト教の神を前提にした小説家ドストエフスキーによってである。