清水正  村上玄一を読む(連載4)

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村上玄一を読む(連載4)

清水正

 

 〈ぼく〉はかなり正気の男である。〈ぼく〉は鏡のなかの〈貴女〉がもうひとりの〈ぼ く〉であることをきちんと認識した上で、〈彼女〉に語りかけられている。主導権を握っ ているのはあくまでも鏡の前に立っている〈ぼく〉であって、決して鏡のなかの〈貴女〉 ではない。おそらく〈ぼく〉は狂気に落ちることはないだろう。ある日、とつぜん女装し てアルバイト先に出掛けて所長をびっくりさせることもないだろう。〈ぼく〉の自意識は 狂気を装うことはできても、狂気そのものに襲撃されることはない。

 この作品をはじめて読んだときからわたしはドストエフスキーの『分身』や『地下生活 社の手記』を想い浮かべていた。『分身』の主人公ゴリャートキンは自分が認めたくない 醜悪なもう一人の自分を拒み続けることで発狂してしまう。しかし、『鏡のなかの貴女』 の〈ぼく〉は自分の醜悪な側面にたじろぐことはない。〈ぼく〉は誰に頼まれているわけ でもないのに自分の醜悪な部分をさらけ出している。なぜゴリャートキンは必死で隠そう とし、〈ぼく〉は積極的に大胆にさらけ出すのか。ゴリャートキンはその〈醜悪〉を本当 に醜悪と感じ、〈ぼく〉はその〈醜悪〉を実は醜悪と感じていなかったということがまず 挙げられる。

 〈ぼく〉は田舎のオヤジに勘当されても、愛してもいない女と肉体だけの関 係を取り結んでいても、ボーナスを貰えるような定職についていなくても、別にそんなこ とは彼にとって恥でもなければ醜悪でもない。〈ぼく〉は単に〈不運〉で〈貧相〉で〈怪 し気〉なだけである。〈ぼく〉が「なぎさ」のママに言った「定職なし、独り暮らし、趣 味なし、特技なし、金もなし」「本当に好きな女とは一度も関係してない」というような ことは、そのことを他人から指摘されても別に彼をズタズタに引き裂くようなことにはな らないだろう。

〈ぼく〉はそんな自分を〈不運〉と思い、〈情ない〉とは思っても、そん な自分を醜悪な存在と見なしているわけではない。むしろ、〈ぼく〉が醜悪な存在と見な しているのは定職を持ち、結婚をし、金を持っていても、自分を誤魔化して生きている人 間、彼の言葉で言えば「自分自身のことが、ちゃんと把握できていない人間」である。

〈 ぼく〉は情けない男だが、その情けなさをきちんと把握していることで他の誰よりもまっ とうな人間だと思っている。「なぎさ」で若干二十五歳の遠藤に「職を探されているんで すか? それなら、僣越ながら俺がいくつか当ってみましょうか」と言われた時、〈ぼく 〉は「大きなお世話だよ、お前みたいなインチキ野郎に頼るほど、ぼくは落ちぶれてはい ないぞ」と思う。要するに〈ぼく〉は過度にプライドの高い〈定職なし〉であり〈金もな し〉なのである。

〈ぼく〉は、製本屋のオヤジの妾を抱くことは平気だが、ひとに頭を下 げて職を世話してもらうことには屈辱を感じる男なのである。〈ぼく〉は遠藤を〈インチ キ野郎〉とは思っても、決して自分自身のことをそう思ってはいない。〈ぼく〉は自分の 不運を嘆き、他人に傷つけられることに憤懣を感じているが、自分を醜悪な存在と見なし ているわけではない。否、〈ぼく〉は自分こそが誰よりもまっとうであり、まっとうであ るからこそ定職にもつけず、金も手に入らないのだと思っている。

〈ぼく〉が自分の情け ない場面を臆面もなくさらけ出せるのは、彼の内にこの確信が確固として存在するからで ある。〈ぼく〉はプライドの高い自信家であり、彼は誰よりも何よりも〈自分〉を頼りに している男である。〈ぼく〉がこの世で最も愛しているのは自分の情けなさを晒してもビ クともしない〈自分〉である。〈ぼく〉はみんなから蔑まされ馬鹿にされても決定的には 落ち込まない。なぜなら〈ぼく〉は誰よりも何よりも〈自分〉が好きであり、〈自分〉を 頼りにしているから。

〈ぼく〉は鏡の中の〈貴女〉から声をかけられるほどに弱くはなく 、狂気に落ちることもない。〈ぼく〉は〈鏡のなかの貴女〉に呼びかける〈もう一人のぼ く〉を演じる、その意識の次元から離れることはないだろう。

   この作品における〈鏡のなかの貴女〉は〈ぼく〉の味方であり、最大限の理解者である 。この〈貴女〉は〈ぼく〉を告発し、糾弾し、罰する恐るべき〈他者〉ではない。〈ぼく 〉には自分のどこを探してもひとから罰せられるような〈罪科〉はない。なにしろ〈ぼく 〉は自分を不運なだけのまっとうな存在と見なしているから、自分を賛美し、励ましてく れる者の出現をこそ望んでいる。たまたま現実の世界にはそういった他者が皆無なので、 自分自身の内部に〈もう一人の自分〉、すなわち自分を全面的に肯定してくれる〈貴女〉 を作りだしたまでのことである。この〈貴女〉だけが〈ぼく〉を限りなく包み愛してくれ る存在である。

 〈ぼく〉は〈ぼく〉が大好きなのだ。まったく、この〈ぼく〉ときたらド ストエフスキーの地下男に倣って「鏡のなかの貴女さえいれば、世界なんぞ滅びてしまっ てもかまやしない」などと口にするかもしれない。

 ドストエフスキーの地下男はまず最初に「ぼくは病んだ人間だ……ぼくは意地の悪い人 間だ。およそ人好きのしない男だ」と自己紹介する。わたしは十七歳の時に『地下生活者 の手記』を読んでドストエフスキーにとり憑かれた。以来、この作品を何度も繰り返し読 んできた。

 『鏡のなかの貴女』の〈ぼく〉はほんの少し地下男の性格を備えている。とい うのは、まず〈ぼく〉は地下男ほど病んでいないし、意地も悪くないし、人好きのしない 男でもない。〈ぼく〉には地下男の深遠な哲学もないし、自らの内部世界を披露する表現 力もないし、自らの絶望を徹底的に分析するその能力にも欠けている。地下男はアンチヒ ーロー足り得ているが、〈ぼく〉は単に情けない不運な主人公にとどまっている。

 〈ぼく 〉は地下男のような自意識過剰者ではない。もし〈ぼく〉が地下男の血を受け継ぐ者であ るなら、鏡の前の〈ぼく〉と鏡の中の〈貴女〉との間ではてしのない、自らの存在を賭け た闘いを繰り広げたであろう。そのことを通して〈現実〉を生きる〈ぼく〉が徹底して検 証されることになったであろう。

 〈ぼく〉は二十世紀の地下男というには余りにも中途半 端な次元にとどまっている。〈ぼく〉は鏡を叩き割ることもできないし、鏡のなかの〈貴 女〉と濃密な関係性を取り結ぶこともできない。つまり〈ぼく〉は現実にしっかりと足を 据えた生活者になることもできないし、狂気の世界へと突入することもできない。

 ドストエフスキーの人物の一つの大きな特徴として空想癖があるが、〈ぼく〉は決して 夢想にふけることはない。〈ぼく〉はかなり理性的な存在で、その理性が壊れてしまうほ どには〈貴女〉と係わろうとはしない。おしなべて〈ぼく〉は親にも、兄弟にも、友達に も、女に対しても、或る一定の距離を保持し続ける。  

 〈ぼく〉の眼差しは肉眼の眼差しであって、望遠鏡や顕微鏡的な眼差しは持ち合わせて いない。〈ぼく〉の眼差しは遠くの世界を見る眼差しでもないし、ミクロの世界を覗き込 む眼差しでもない。そればかりか、〈ぼく〉は自らの肉眼の眼差ししか信用していないの で、それ以外の眼差しがとらえた世界を頑に拒む傾向がある。〈ぼく〉は鏡を覗き込んで も、その表面に現れる〈貴女〉にしか注目しない。〈貴女〉が出現した広大深遠な鏡の世 界へと眼差しを送ることはない。しかも、表面に現れた〈貴女〉にさえ一定の距離を保と うとする。

 〈ぼく〉の肉眼の眼差しが捕らえるのは、例えばスナック「なぎさ」のママで あったり、飲み仲間の石川や小塚であったりするわけだが、その眼差しは彼ら(すなわち 他者)の内部深くへと注がれることはない。〈ぼく〉の眼差しはスナックとか自分の家の 内部をとらえる眼差しであって、そういった狭い限定された空間を突き破ってはるか彼方 に注がれる眼差しではない。要するに〈ぼく〉の眼差しは閉塞された日常の世界にのみ注 がれているので、この手記を読む者に何らの解放感も与えることはない。〈ぼく〉の情け なさや惨めさが伝染してきて、どうにもやりきれない感覚に襲われる。