岩崎純一「ニーチェと松原寛─東西の哲人の共通点と相違点─」連載5

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清水正編著『ドストエフスキー曼陀羅──松原寛とドストエフスキー──』D文学研究会星雲社発売)は来年二月には刊行する予定だが、各執筆者の掲載原稿の一部を何回かにわたって本ブログで紹介することにした。興味と関心を持った方はぜひ購読してください。

まずは岩崎純一氏の論文から紹介します。

ニーチェと松原寛 連載5

──東西の哲人の共通点と相違点──

岩崎純一日大芸術学部非常勤講師)

 今ここで、これら「弱者(畜群、僧侶、奴隷など)の道徳」と「強者(君主、貴族など)の道徳」の概念を、ニーチェの言葉遣いで確認しておこう。

 

ヨーロッパの全道徳は畜群の利益を基礎としている。すべての高級な稀有の人間たちは、彼らを際立たせるすべてのものが、卑小や毀損の感情をともなって彼らに意識されるのを悲しく思う。

(『権力への意志』上 第二書 これまでの最高価値の批判 Ⅱ 道徳の批判

2 畜群 同 二七六 二七七頁)

 

群居動物の弱さはデカダンの弱さがうみだすのとまったく類似した道徳をうみだす。すなわち、彼らはたがいに理解しあい、同盟する(――大きなデカダンス宗教はつねに畜群の支持をあてにしている)。それ自体では群居動物はなんら病的なものをもっておらず、きわめて尊重すべきものですらあるが、しかしおのれを教導することができず、「牧人」を必要とする、――このことを僧侶たちはわきまえているのである・・・

(同二八二 二八二頁)

 

 私は教える、畜群は一つの類型を堅持しようとこころみ、この類型から変質してゆく者(犯罪者その他)に対しても、また、この類型以上に高揚する者に対しても、この両面にむかってわが身を護ると。畜群のこの傾向は静止と保存とをめざしており、そのうちにはなんら創造的なものはない。

(同 二八五 二八五頁)

 

 これまで地上に支配して来た、或はいまもなお支配している多くの精粗様々の道徳を遍歴して、私は或る特色が規則正しく互いに回帰し、互いに連結しているのを見いだした。その挙句、ついに私には二つの根本類型が窺われ、一つの根本的区別が際立って見えた。すなわち、主人道徳と奴隷道徳とが存在する。(中略)

この第一種の道徳にあっては、「よい」と「わるい」との対立は「高貴な」と「軽蔑すべき」というほどの意味であることは直ちに気づかれよう。(中略)

――高貴な人間といえども不幸な者を助けるが、しかしそれは同情からではない。殆んどそうではなくて、むしろ却って力の充溢から生れる或る衝迫からである。高貴な人間は自分のうちに強力者を認めて尊び、更に自分自らを統御しうる者を、語ることと黙ることを心得ている者を、悦びをもって自分に対して峻厳と苛酷を行なう者を、またすべての峻厳と苛酷に敬意を表する者を尊敬する。(中略)

道徳の第二の類型である奴隷道徳については事情は異なる。(中略)奴隷の眼差しは、強力な者たちの徳に対して好意をもたない。彼は懐疑と不信をもつ。彼はそこで尊重されるすべての「よきもの」に対して敏感な不信をもつ。――彼はそこでの幸福はそれ自身、本物ではないと自分に説得しようとする。その逆に、忍苦する者にその生存を楽にするに役立つような特性が引き出され、照明を浴びせられる。ここでは同情が、親切な援助を厭わぬ手が、温情が、忍耐が、勤勉が、謙譲が、友誼が尊重せられることになる。――それというのも、これらのものはここでは、生存の圧迫を耐えるために最も有益な特性であり、殆んど唯一の手段だからである。奴隷道徳は本質的に功利道徳である。ここにあの「善」と「悪」という有名な対立を燃え上がらせる日床がある。(中略)この人間は善良な、欺され易い、恐らく些か愚鈍で、つまり《お人好し》なのである。奴隷道徳が優勢を占めるところではどこでも、言語は「善」と「愚」とを互いに近づけようとする傾向を示している。――究極の根本的区別はこうである。自由への渇望、幸福に対する本能、および自由感情の敏感さは、必然的に奴隷道徳と奴隷的徳性に属するが、それと同じく畏敬への、献身への技能と熱中とは、貴族的な考え方と評価の仕方に例外なく見られる徴候である。――ここからして直ちに、何故に情熱としての愛――これはわれわれヨーロッパ人の特異性である――が端的に高貴な由来をもつものでなければならないかが理解されうる。

(『善悪の彼岸』 第九章 高貴とは何か 二六〇 三〇八―三一三頁)

 

最高の階級が同時に僧職階級であり、従ってその僧職的機能を思わせるような尊称が彼らの総称として特に選ばれているといった場合には、政治的優位の概念は常に精神的優位の概念のうちへ解消するというこの通則に対しては、差し当たりまだ一つも例外はない(もっとも例外の生じる機縁はあるけれども)。そのような場合に初めて、例えば「清浄」と「不浄」とが階級的区別の目印として対立することになり、そしてここにまた、やがて一つの「よい」と一つの「わるい」とが、もはや階級的でない意味において展開する。

(『道徳の系譜』 第一論文「善と悪」・「よいとわるい」 六 二九頁)

 

――僧職的評価様式が騎士的・貴族的評価様式から分岐し、やがてそれに対立するものにまで発展を続けることがいかに容易であるかと、諸君はすでに察知したことであろう。(中略)

あのユダヤ人たち、あの僧職的民族は、結局、ただ価値の根本的な転倒によってのみ、従って最も精神的な復讐の一幕によってのみ、自分たちの仇敵や圧制者に対して腹癒せをするすべを知っていた。(中略)

諸君は誰がこのユダヤ人的価値転倒の遺産を作ったのかを知っている…… ユダヤ人があらゆる宣戦のうちで最も根本的なこの宣戦によって与えた巨怪な、かつ極度に宿命的なイニシァティブに関して、私は他の機会において筆にしたあの文句を指摘する(『善悪の彼岸』一九五節)――曰く、「ユダヤ人たちとともに道徳上の奴隷一揆は始まる」と。この一揆は背後に二千年の歴史をもっており、そしてそれが今日われわれの眼前から退いているのは、それが――勝利を得たからにほかならない……

(同 七 三一―三三頁)

 

 無論、私のような個人の人生においてばかりでなく、明治の西洋哲学の輸入期において、ニーチェを我が師として選択した思想家や文豪は多くいる。

 日本で初めて本格的にニーチェを受容・紹介したのは高山樗牛だが、樗牛は民衆に弱者道徳を見、日本主義、次いでニーチェ主義から日蓮主義へと舵を切った。その樗牛に影響を与えた日蓮主義者は、田中智學である。当初からニーチェの思想と日蓮・法華思想は相性がよかったのであるが、同時に日蓮の思想が日本国体学者らの間で、ニーチェの弱点を克服する仏教内の最高宗旨と位置づけられていることが分かる。

 そして、ショーペンハウエルニーチェなどのドイツの哲人たちをしつこく引用して、意図的に夏目漱石の英国風趣味に対抗したのが、森鷗外である。美学論争においては、高山樗牛が、あまり気の合わないはずの没理想主義・写実主義坪内逍遙に近い立場から鷗外を批判したことを見ても、鷗外は実は極めて徹底した理想主義的ニーチェ主義とでも言える思想を持っていたようである。

 ただし、ニーチェ実存主義ないし実存哲学の先駆者と位置づける前に、ニーチェ少年の悲嘆と孤独に正面から応答したのも、森鷗外であると思う。西部邁もやや応答しているが、高山樗牛や田中智學は、我々男子たちが幼少年期に体験したはずの悲しみの涙や母親のぬくもりへの回帰を恥であると見て、男権的な強者道徳と強靱な国体の建設に重点を置いている。日蓮の思想、国柱会に心酔した宮沢賢治には、まだいくらか、いや、大いに母・妹・女性への思慕が窺えるが、ナチスニーチェを利用したように、明治期の日蓮主義者たちも、ニーチェを男権主義的国体・国立戒壇の思想に利用している。

だが、いくら男子の自我成立に涙と甘えは不要であるとする冷徹な覇権主義を要求される、欧米列強との世界戦争が目の前にあるからと言って、それを隠すのは、ドイツやフランスの民衆蜂起の強がりと同様、弱者の覇権主義である。

 ニーチェの超人思想に男権主義が見られないと言えば嘘になるが、日本の国体主義者が誤解したほどではない。超人は、人の死を悲しむことや女に甘えることが永劫回帰することをも恐れない。強権的未来を目指して突き進んだところで、また同じ母という源泉から産まれ、完全に同一の男として実存させられる羽目になるのが、ニーチェのいう永劫回帰である。当時の日本主義や日蓮主義は、この点を切り落とす傾向にあったと私は考える。

二、哲人たちの哲学の根底

 フリードリヒ(・ヴィルヘルム・ニーチェ)少年の苦闘 自身の信仰を懐疑した先駆者にとっての自我、学問、母、女性

 

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。3回に分けてありますので是非最後までご覧ください。

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https://www.youtube.com/watch?v=B1grbVxCc0o

ドストエフスキー曼陀羅─松原寛&ドストエフスキー

(D文学研究会星雲社発売)

本書はドストエフスキー生誕200周年・日芸創設100周年を記念して刊行されます。

目次
苦悶と求道の哲人・松原寛をめぐる断想……清水正
トルストイの「懺悔」、松原寛のキリスト像柳宗悦の奇蹟観などに触れながら―

 入院中に松原寛論を執筆/  松原寛とドストエフスキー/  トルストイの「懺悔」をめぐって/  柳宗悦トルストイ観/  松原寛のキリスト像/  キリストと松原寛の決定的な違い/  柳宗悦の奇蹟をめぐって/  小室直樹の『日本人のための宗教原論』をめぐって/  「かのように」の哲学/  十字架上で奇蹟を起こさなかったイエス・キリスト/ 「死せるキリスト」をめぐって/  

ニーチェと松原寛……岩崎純一
 ――東西の哲人の共通点と相違点――

 序/  一、ニーチェ、松原寛との邂逅/  二、哲人たちの哲学の根底/  三、様式美としての哲人の生涯/  

理念(テクスト)と現実(コンテクスト)……此経啓助
 ――松原寛著『親鸞の哲学』を読む――

松原寛と日芸精神……伊藤景
 松原寛との出会い/  『芸術の門』と「苦悶」/ 

松原寛「随想録」から……戸田浩司/ 
  
松原寛とその周辺の年譜(町田直規編)/


ドストエフスキー文学の形而下学……清水正

マルメラードフの告白に秘められた形而下学――〈哀れみ〉とカチェリーナの〈踏み越え〉――/ ■性愛描写・省略の効果/ ■描かれざる場面・スヴィドリガイロフの場合/ ■〈奇跡〉の立会人から〈実際に奇跡を起こす人〉となったスヴィドリガイロフ/ ■〈実際に奇跡を起こす神〉スヴィドリガイロフとソーニャの〈神〉/ ■スヴィドリガイロフとソーニャの〈性愛場面〉をめぐって/ ■『貧しき人々』における描かれざる〈性愛場面〉/ ■『地下生活者の手記』における〈描かれざる性愛場面〉/ ■四十年ぶりに『地下室の手記』を批評する――〈描かれざる性愛場面〉をめぐって/ ■地下男と娼婦リーザの性愛関係/ ■地下男とリーザの〈描かれざるセックス〉後の場面/ ■《洋品店》でのセックス/■地下男の形而下的側面/ ■「べつに……」(Так…)の女リーザとソーニャ/ ■厄介極まる地下男/ ■地下男のリーザ征服の巧妙な手口――闇の中で〈似たもの同士〉がしゃべりあう――/ ■狂信者でも聖女でもない、人間としてのリーザ――地下男の〈たぶらかし〉――/ ■リーザが心の扉を開いた時――リーザの絶望と地下男の怖じ気――/ ■地下男とリーザの新たな関係――「リーザ、訪ねてきておくれ」/ ■〈さよなら〉(прощай)と〈またね〉(до свидания)/■魂の繋がりを求めるリーザ――〈いまわしい真実〉の露呈――/ ■地下男を訪れたリーザ――地下男とリーザの〈描かれざる第二回目のセックス場面〉――/ ■ロジオンの〈打ち明け〉と〈跪拝〉――殺意と〈嵐〉(буря)――/ ■リーザと地下男の〈嵐〉(情欲の発作)/ ■〈眉唾〉(невероятно)/ ■「さようなら」(прощайте)をめぐって/ ■三つの神/ ■地下男の〈冷酷な仕打ち〉/ ■〈すべて=всё〉(リーザ)を〈十字路〉まで追っていく地下男/ ■地下男とロジオンの類縁性と差異――〈踏み越え〉たロジオンは新たな〈キリスト〉となり得るか――/ ■〈すべて=всё〉を見失った地下男――大いなる〈Так〉の女リーザ――/ ■姿を見せない二人の女/ ■アンチ・ヒーローの全特徴/ ■《生きた生活》から乖離してしまった地下男との異質性/ ■〈淫蕩〉にふける地下男/ ■地下男の後継者ロジオンの〈淫蕩〉/ ■地下男、ロジオン、ドストエフスキーとキリストとの関係/ ■深く分裂したロジオン(〈瀆神者〉か〈狂信者〉か)/ ■ロジオンの革命家としての挫折/ ■『罪と罰』の〈踏み越え〉と現代の〈踏み越え〉――〈斧の振り下ろし〉と〈原爆投下〉(核ミサイル発射)――/ ■議会制民主主義と屋根裏部屋の〈単独者〉/ ■ロジオンの不徹底な〈非凡人思想〉――卑小な非凡人の〈アレ〉/ ■近・現代の〈独裁者〉の〈斧〉とロジオンの〈斧〉/ ■〈思弁〉と〈信仰〉――〈ラザロの復活〉をイエスに問う/ ■人類滅亡の夢と〈理性と意志〉の両義性――ロジオンの描かれざる〈新生活〉と新たな使命――/ ■〈思弁家〉から〈観照家〉へ――第五福音書としての『罪と罰』――/ ■スヴィドリガイロフの〈性愛〉をめぐって/ ■スヴィドリガイロフとソーニャの描かれざる〈性愛場面〉――〈同じ森の獣〉たちの対話――/ ■スヴィドリガイロフの〈奇跡〉/ ■ロジオンを支配する〈突然〉と描かれざる淫売婦ソーニャの実態/ ■ソーニャとキリスト/ ■ケンジ童話における数字の神秘的象徴性(三、六、九、五)とソーニャの部屋(九号室)/ ■〈ラザロの復活〉と聞き耳を立てていた〈立会人〉スヴィドリガイロフ/ ■ソーニャの部屋におけるロジオンの〈死と復活〉の秘儀/ ■ソーニャの住まいを巡る断想/ ■ロジオンがソーニャの部屋を訪ねた時の〈奇妙さ〉――〈何か戸のようなもの〉をめぐって――/ ■ソーニャの〈不安の秘密〉と〈時間の歪曲〉/ ■ソーニャとスヴィドリガイロフの〈秘密の時〉/ ■〈歪なもの〉が置かれた玄関とソーニャの不具的な部屋/ ■自ら罪を犯した〈キリスト〉としてのロジオン――ゲッセマネの〈キリスト〉に関連付けて――/ ■描かれざる日常のディティール ――ソーニャの部屋の間取りから〈トイレ事情〉〈水事情〉をさぐる――/ ■ソーニャの部屋と〈ラザロの復活〉朗読場面――ロジオンの眼差しで捕らえられたソーニャの部屋――/ ■〈この人も、この人も〉を巡って――人称代名詞に要注意――/ ■〈この人=スヴィドリガイロフ〉とソーニャの関係/ ■ソーニャの視る〈幻〉(видение)とスヴィドリガイロフが見る〈幽霊〉(привидение)/

清水正著『ウラ読みドストエフスキー』を読む……坂下将人

ドストエフスキー曼陀羅 目次(伊藤景編)/

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

 

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