一日中、ドストエフスキー。鼎談ドストエフスキーの再録

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「文芸批評論」は『罪と罰』、「ロシア文芸史」は『悪霊』。その後、研究室で学生と話した後、同心房で飲み会。


「ロシア文芸史」の受講生と「和田屋」の前で。この店の二階で小沼文彦氏、江川卓氏と鼎談したのが昭和61(1986)年11月14日のことであった。鼎談は「ドストエフスキーの現在──『罪と罰』から『白痴』へ、そして『カラマーゾフ』へ」と題して「江古田文学」12号(1987年5月)に掲載した。あれから二十六年の歳月が過ぎた。すでに両氏ともに他界された。さまざまな思いを抱いて和田屋の前に立った。

26年前の清水正です。この長髪スタイルは学生時代から二十年以上続けていました。学生時代の写真を見せても、今の学生は誰も信じません。

小沼文彦氏と。小沼氏は筑摩書房より個人訳ドストエフスキー全集を完結しました。私は二十歳のころ小沼氏が渋谷に開設していた「日本ドストエフスキー協会資料センター」に一年ほど毎日曜日通っていました。

小沼氏はドストエフスキー研究がライフワークでした。


江川卓氏は『謎とき「罪と罰」』を刊行したばかり、私は『ドストエフスキー罪と罰」』を刊行したばかりで、この日はアルコールの効果もあって盛り上がった。ちなみに小沼、江川の両氏がこのようなかたちで顔を合わせるのは初めてであった。


鼎談 ドストエフスキーの現在 

江川卓・小沼文彦・清水正 

初出は「江古田文学」復刊12号(1986年11月発行)
復刻は「ドストエフスキー曼荼羅」(2008年1月20日発行)
  発行所 日本大学芸術学部文芸学科「雑誌研究」編集室


第 一 部

 ■二つの 『罪と罰』 論
清水   先生方には先ほど 『罪と罰』 から 『カラマーゾフの兄弟』 に到る大長編を対象にしたお話が、 学生相手にあったと思うんですけれども、 今回は気楽にですね、 お話をすすめていただきまして、 だんだん、 こう飲むうちにおもしろい話も出てくると思いますので、 現ヽ在ヽが女ヽ性ヽにかわっても一向に構わないと思うんですね……
小沼 そうですね、 一向にさしつかえない。
清水 先生方のお得意の分野の話を出していただければ、 今日は非常にありがたいんですけれども。 せっかく江川先生が 「謎とき 『罪と罰』」 を出されてますし、 ぼくも今度三年位かけまして 『罪と罰』 を対象にして、 まあ、 やったという関係で 『罪と罰』 の話が多くなるかもしれませんが……
小沼 あれは大作だよな。
清水 もっとマイクに入るように大きな声でどうぞ (笑)
江川 いやあ大作だ、 本当に (笑)
小沼 大作だ、 大作 (笑)
清水 あれはだけど先生、 ぼくは江川先生の 「新潮」 の連載で、 そのつど刺激を受けながら……
小沼 はあはあ、 なるほど。
江川 しかし、 ちゃんと仕事、 それで補足してあるんだよ、 ぼくのが。
清水 ところで、 『ドストエフスキーの現在』 ですが、 あれは亀山さんがお書きになったんですか編集後記は、 先生がお書きになったんですか。
江川 編集後記はね、 亀山くんがほとんど書いてます。 何から何まであれば亀山さんにおんぶした本です。
清水 ただあの本当に何か 「謎とき…」 のね、 ああいう研究領域みたいなものがどんどんふくらんでいくと、 批評も豊かになると思うんですよね。
小沼 絶対そうだ。
清水 非常に啓発された部分がたくさんありましたから。 そうでないと、 例えば千枚みたいな量は書けないですよね、 批評も。
小沼 そりゃそうだね。
清水 本当に何か、 肉声だけで、 もしやろうと思ったらちょっと無理ですね。
江川 や、 あれおもしろかった、 清水さんの。 やっぱりね、 こちらがね、 ああ、 あそこまで読めることがあるなあってことを、 時々ふっと、 専門でやってるとね、 逆にロシア語にこだわるから、 なかなか出てこないことがひゅっと出てくるのね。
小沼 へんな落とし穴があるしね。
清水 だから、 ロシア語が出来ないぼくなんかが、 一番やっぱりそういうところがね、 変に敏感に感応するところがあるんですよね。
江川 たしかにありますね、 それね。
清水 だから、 ロシア語をよんでいて、 それを日本語化するという翻訳者のご苦労がそこにあると思うんですけども、 ぼくなんか逆に翻訳で読んでいて、 ちょっとと思うところを、 原典にあたって、 ああ、 このひとつの日本語のことばが、 こんなに多様な意味をもっていたのかということで、 逆にひらけていくということがあるんですね。
小沼 ロシア語で読んでいて、 わからねえ奴っていうのが一番困るんですよ、 ね。 (笑) いるけどさ、 たくさん。 (清水 そうですか) なまじっか読むから (江川 いやホント、 いますね)   いやいや、 そちらの話じゃなくて、 いますよ、 そりゃ、 たくさん。
清水 ぶっそうな話になってきたら、 この辺のガラスものは片付けるように…… (笑)
清水 こういう話は編集の段階で全部削れるから (笑) 自由にお話を……
江川  (笑) いままでちゃんとしゃべってますよね。


 ■作者を超える神秘的存在

清水 ぼくはですね、 これはあの、 「謎とき 『罪と罰』」 ですけれども、 「新潮」 でずっと連載に (小沼 楽しかったけどね、 うん、 楽しかった) ええ、 ぼくはずっと楽しみにしてたんですけれども。 それで江川先生からいただいて、 また読んで、 また少し読み始めてですね、 おもしろいことに気がついたんですけれども、 やっぱり、 その、 何故謎ときに魅かれていったかという、 その背後にあるものをですね、 非常に、 江川先生ははっきりとお書きになっているんで、 そこをちょっと……
小沼 線入ってないじゃないの (本をのぞいて) ああ、 なるほどね (線が引いてあるのを確認して)
清水 それでですね、 「背後にいるらしいものが幻視されてくる。 よくはわからないが、 おそらくこれは作者を超える存在なのだろう。 その超越的な存在こそが……」 という書かれかたをされていましたけれども、 ぼくも三年間ずっと 『罪と罰』 を読んでいったときに、 読みすすめていくうちに  はじめはやっぱり主体は自分の方にありましてですね、 自分が 『罪と罰』 を読んでるんだみたいな発想で以前は 『罪と罰』 を読んでいく。 ところが  どうも、 こんなに底なし沼みたく 『罪と罰』 の世界が底深いものだとすると、 はたしてこれは、 本当に作者ドストエフスキーが……、 作者ドストエフスキーだけで書いていたのかという疑問にとらわれてきて、 むしろ作者に書かせている何ヽかヽが、 あるんじゃないかと。 それをその神といったらまあ、 変な言い方かもしれませんけれども、 そういうものが、 ドストエフスキーの手を通して、 何ヽかヽを書かせているんじゃないか、 という神秘的な気分におそわれるわけです。
江川 うーん、 おそわれるのね。
清水 ぼくもあとがきで書きましたけれども。 で、 江川さんの場合もやっぱりその感覚がまずあって、 ですね。 それはその、 謎をとかれていく過程の中でますます、 そういうことをお感じになったのか。 あるいはそういったものがまずありまして、 それで謎ときがどんどん展開されていったのかということですね。 これをその、 もうひとこと違ったことばで言ってるんで、 ちょっと読みますと 「作者が設定したもののように見えながら、 実は作者を超えるだれかから与えられたものではなかったのかという疑問である」 と、 こういうことですね。 これが、 ぼくは三回め読みおわってないんですが、 ……ここにですね、 やっぱりその 『罪と罰』 の謎をとこうとした、 最初の何ヽかヽがあるんじゃないかという、 ぼくはそういう感じをうけたんですね、 そこら辺いかがですか。
江川 まさしく、 そうなんですよね。 実は題をだいたい決める時にどうしようかっていうんでね、 ずいぶん迷ったのね。 迷ってて、 要するに謎があるんだってことははっきりしてんだけれども、 それを題名にどう表わそうかっていうんでね、 編集者と相談してね、 雑誌に連載始めるときにね、 結局この題に最後は落ち着いたんですけれどもね、暗号解読だとかね (笑) いろんな題が出てきたけれども、 あんまりそれこだわっちゃうとね。 今度はその方法でやんなきゃどうしようもなくなっちゃうし、 だからむしろ割と自由の残る形でやってほしいという注文つけて、 結局これに決まったんですよ。 ただ謎っていうのはドストエフスキーの作品読むとね、 何かわかるんだけれども、 どこか何かもうひとつね、 裏にあって、 ドストエフスキーが計算しつくして書いているという、 その計算に讃嘆すると同時に、 こんなこといくら計算したって出るはずがないものが、 ひょいと出てくるという不思議なことが、 どうもある作品みたいな気がするわけですよね。 それを結局一番最初のところは、 『貧しき人々』 のところでね、 あれは、    (清水 日付の問題ですか)   日付の問題ね、 あれ本当にね、 何であんなことが出てきちゃったのか、 自分でわからない、 ドストエフスキーだって、 きっとわかってなかったんじゃないかって思うんだけども (笑) とにかく最初にね、 第一章の初め、 冒頭に、あなたに接吻した、 あのときみたいな……って出てくるでしょう。 で、 何ともない……初めなんとも思ってなかったのよね、 子供の頃読んだときなんて全然何てことない、 ああ、 そうかと思っていたんだけど。 それ読んでいくとね、 こんなに長い期間つき合ってる二人がどうしてそのあと接吻しないのだろうという疑問に、 ハタと行きあたってサ、 それでこれはおかしい接吻じゃないかってなことになってね、 それが調べていったら、 その最初の日付がおかしいということが出てきて、 とすると、 最後の日付だって当然おかしいだろうっていうね、 結局はその日付のワクがね、 ま、 一応謎を解く手がかりになってなにかうかんできた訳ですよ、 ね。 だけど、 本当に考えてみて、 じゃあらかじめそのことを考えてドストエフスキーが日付をつくったのかと考えていくと、 これがまたわかんなくなっちゃうのね。
清水 そこら辺の江川先生のお書きになったもので、 ちょっとスリリングなおもしろさを感じるというのは、 もしかしたら作者はあらかじめ、 つまり凡人の読者が読んでいく上で、 想像もつかないような、 ちゃんとやっぱり計画、 設計図があって、 そして、 ただ読者がわからなかっただけなんだ、 百何十年たってもわからなかっただけのことであってですね、 実は作者は全部計画してた、 意図的だったという見方とですね、 いや違うんだ、 もうちょっと神秘的な何かがそこにはたらいているんだという見方ですね、 その二つの見方のゆれ動きの中といいますかね、 そのはざまの中で先生が謎解きをされているから、 やっぱり読む者にもスリリングなおもしろさを感じさせるんじゃないかという気が、 ぼくはしたんですけれどもね……それは、 誰も判断出来ないことですから。
江川 ま、 ドストエフスキーにきいてみなきゃわからないんでね、 これね。 きいてみなきゃわからないんだけどね、 そういうワクをおそらくドストエフスキーは最終的には、 どこかの段階で自覚したと思うのよ。 それで、 その自覚したときに少なくとも最初の接吻はね、 あれはどう考えたって、 どっか何かあるぞと思わせるようになってるでしょ、 始めっからさ。
清水 それは先生が接吻ということばにこだわってるから (笑)
江川  (笑) こだわってるせいなんだけどさ。
小沼 僕はね、 あの接吻は最初に読んだときからパスワードですね。
江川 やっぱりそう思われましたか。
小沼 これはね、 絶対にそう。 それ以外には考えられない。 だって他にないじゃない (江川 ないんですよね) もっといいじゃないですか、 もっと何回でもやったってね。 ところが無いんですよ。 そうしたらば習慣から言ったって何だって、 もっと大っぴらですもん。
江川 それでね、 あの大っぴらの土地にね。 本当の心情を込めて自分の中の秘められた愛情を、 接吻という行為に表現する人と単なる宗教的な儀礼だと思ってやる人と両方いるじゃない (笑)
小沼 そこが問題だね (笑)


 ■作品の新たなる読み直し

清水 ぼくはですね、 例えば 『貧しき人々』 で、 あの当時の例えばベリンスキーとか、 ドヴロリューボフとかピーサレフも全部含めてですね、 あの人たちの批評というのはやっぱり今から比べたらずいぶんウブな、 非常にロマンティックな感傷的な批評だと思うんですよね。 現実的に考えたらですね、 例えば米川正夫さんなんかが薄幸な処女というふうにワルワーラを言ってしまう。 ところが薄幸と言ったって、 女中がいるわけですよ、 あのワルワーラさんには。 しかも、 処女といってもですよ、 あれはブイコフと一度関係をもっていて、 (江川 もっていると思いますね) そして逃げてきているんですからね、 女中を連れて。 それで自分の純潔を、 つまり名誉を回復するためには、 ブイコフ氏との結婚しかないという形で、 マカールを結婚衣装の、 自らの結婚衣装の使い走りにさせてるわけですから、 たいへんな女性ですよ、 あのワルワーラは。
小沼 あれは悪ですよ (笑)
江川 悪ですよね、 あれは、 薄幸なんてもんじゃないですよね、 あれは絶対に (笑)
小沼 いろいろあるけどね、 今までの解釈が甘いんだ。
清水 あのたいへん悪い女性が、 今まで薄幸な処女みたいにみられてきたということの、 読みの貧困さみたいなものは、 やっぱりこれからどんどん暴いていく必要があるんじゃないかと思うんですがね (二人頷く) むしろ二十三歳のドストエフスキーが、 青年ドストエフスキーがそこまで女をみていたということのすごさを、 もう一度認識しなきゃいけないし、 そしてもし若きドストエフスキーが、 本当に女性を知らなかったとして、 知らなくてあれだけ女性の心理を見抜いて、 しかも読者をあざむいてですね、 今まで。 書けたということはすごいことじゃないですか。
小沼 だけどね、 今までの翻訳がそういうことに全然タッチしなかったわけです。 これはね、 仕方がなかったし、 また当然であると思うんですよ。 その頃からすでにこのこと言っちゃったらね、 もう身も蓋もないですよ、 これは。 あれで、 今まで来たからおもしろいんじゃないですか。 それで今、 江川さんが現れて、 ああいうことを言うから、 いいのであってね。
清水 また、 そういう角度から読み直されると……
小沼 そうそうそう。 薄幸の処女だって良かったんだと思うよ、 間違ってはいても。
江川 で、 たしかにそういう雰囲気はあるよね、 絶対。
小沼 そう、 そういう雰囲気に流されちゃったわけですね。 だから、 丁度いま良い時期なんじゃないですか。


 ■ドストエフスキーの女性像

清水 だからドストエフスキーの女性像というものを洗い直していくなら、 処女作 『貧しき人々』 のワルワーラもそうですが、 例えば 『虐げられた人々』 のナターシャにしてもですね  ナターシャとアリョーシャは肉体関係があったのかどうかというところまできちんと見た上で、 アリョーシャの軽佻浮薄な部分をみないとね。 あれ例えば今までの読者っていうのは、 ま、 ドストエフスキー自身が書いていないということもありますけれども、 同棲していてですね、 ……アリョーシャ・ワルコフスキーとナターシャが、 同棲していて、 あたかも肉体関係も何もない、 ロマンチックな精神的な交流しかなかったみたいな読み方がされてきたわけですよね、 性描写が全く無いですから。 で、 あれは、 全部あったと、 ヘタをすればもうナターシャがみごもっちゃってですね、 どうしようもなくなるような状況があってですね。 それで、 イワン・ペトローヴィチが変な役割を演じますけど、 ああいうところをもう一度、 ドストエフスキーの文学にもう一度、 谷崎潤一郎的な肉の描写というものを読者が想像しながら読み返してみたら、 全く違った小説になるかもしれませんね。
江川 案外違ったものが出てくる可能性があるのね。
清水 ぼくはまだ一番若いですから、 ……ぼくは江川さんのお書きになったことで、 あのラスコーリニコフとソーニャがね、 つまり肉体関係があったんだという、 その……
江川 すぐ女性にいっちゃってるじゃない、 もう (笑)
清水 最初聞いたとき、 ぼくはやっぱりショックだったですね、 絶対そんなことありえないだろうというね……。
小沼 純真なんだな (笑)
清水 純真なんですねぼくは (笑)
小沼 あれはショックじゃないはずだ、 当然のことなんだもの。 そういうものは書かないのが常識なんだから。
清水 ぼくは今度の本でラスコーリニコフの食事まで検討しましたけど、 あんなに腹ペコで、 そういうことが出来るんだろうかというね、 あれだけ食事してない青年珍しいですよね。
江川 だけどね、 植物っていうのは芽をいじめると実がつくんですよね (笑) それと同じなんだ人間も。 自分が今まさに死別しようとしている瞬間に、 残さなければいけないという感じになるんだよ、 あれ。
清水 そうですか……。 そういう御判断は両先生方にお任せすることにしまして (笑)
小沼 ま、 いずれにしても、 皆我々ふりまわされてきたってことでしょうね。
清水 あまりにも観念的な領域で……。
小沼 だけどこれをね、 今から十年前に言ったんじゃ、 仕様がないと思う。 当然これだけの時間がかかって言うべきことであると思うんですよ。
江川 百年めにね、 やっとね、 こう、 何か人間が回復されたわけよ (笑)
清水 肉づけされてくるような……
江川 肉づけされたわけよ。
小沼 すると、 どこか、 地面の下かどこかでにやにや笑って……いいじゃないですか、 それで。
清水 で、 ぼくが一番おもしろかったのはですね、 今度も書きましたけれども、 カチェリーナとマルメラードフの、 つまりマルメラードフがラスコーリニコフに演説をぶつ、 あそこで、 マルメラードフの非常に甘ったれたものではあるかもしれないけれども、 親鸞的な、 悪人正機的な神学が語られている。 これまでは形而上学的な側面からのみマルメラードフの演説は受けとられていたけれども、 実はやっぱり、 もっとくやしい、 もっとこう肉的次元の形而下的な、 くやしい思いを語っているわけだとぼくは思うんですよ。 やっぱりカチェリーナは結婚しても、 年に一回か二回しかお義理で自分の肉体を与えてくれなかったっていうことに対するあのくやしさっていうか……
江川 だからね、 あれきっと、 月給もらって帰るでしょ、 うれしがって帰って来るでしょ。 あのときに、マリャーヴォチカと私のこと呼ぶんですよっていう台詞があるんですよね。 あそこの、可愛い坊ちゃんとか可愛いコっていうマリャーヴォチカっていう呼び方のときにはね、 おそらく二人は寝物語でそれが出て来たんだとぼくは思うわけ。 だってあの二人だってさ、 あれだけ子供をつくるんだから、 そういうことが全然なかったなんて、 絶対ありえないわけだからさ (笑)
清水 でも、 マルメラードフとカチェリーナの間には子供いないんですよ、 ね。
江川 ん、 ? あ、 そうか。
清水 カチェリーナの連れ子ですからね、 あの三人は。
江川 ああ、 そうだね、 ダメだねこれは (笑)
清水 だからやっぱりカチェリーナは最初の夫のことを愛しているんですよ。 駆落ちまでして、 皆に反対くらってですね、 で、 逃げのびて、 貧しくてどうしようもない……。
小沼 そりゃ、 そうだけれども、 あの月給をもらって来た時にはこれは、 反対給付が当然あるわけです。
江川 ええ、 あると思います。 本当にね、坊やってかんじね、 あれ、 面と向かってシラフで坊やなんて言われてみなよ (笑) きみならしょうがないけど (笑)
小沼 言われた人じゃないと、 わかんないね (笑)
江川 あれはね、 やっぱり確実にベッドの中だと思う、 ぼくは。
清水 そうですか。 しかし、 あんなに子供が三人いて、 ポーレンカなんて九歳ですよね、 のちに十歳になりますけど、 あっという間に。 やっぱりあの、 通路でしょ、 どうやってあの二人が愛しあったのかという問題もありますしね。
小沼 いや、 そんなこと問題じゃないですよ。 自分のこと言っちゃおかしいですけどね (笑) 例えばね、 収容所にいましたよね。 ぼくがいた収容所は兵隊の方じゃなくて、 民間人ですからね。 ドイツ人も民間人がいるわけですよね。 それで同じ部屋に入って、 毛布で仕切ってあるわけですよね。 それで同じ人、 がいるわけですよね。 それで同じ部屋に入って、 毛布で仕切ってあるんですよ、 ただ。 我々の感覚としちゃ、 何も出来ないでしょ。   何でもないですよ、 だけど、 毛布なんて。 毛布一枚。 で、 これは収容所だけど、 ソビエトの生活みてごらんなさいよ。 今の生活。 ここだって毛布で仕切ってあって、 子供ごろちゃら産んでるじゃないですか、 通路だからだめだなんてそんなことないですよ。
清水 はあ、 関係ないですか。
小沼 関係ないです。
清水 皆覗いてたかもしれませんね。
小沼 いやいや、 そういうはしたないまねはしないですよ。
江川 だから一応ね、 シーツがかけてあるじゃない、 破れたようなシーツがさ (笑)
小沼 やることなんだから、 やっておかしくないですよ、 生理現象だから。 たとえばね、 文化と休息の公園っていうの、 あるじゃないですか。 あそこへいくと、 トイレが一本のこういう板が、 ずーっと並んであって、 穴があいてるわけですよ。 それで男も女も、 ただ平然と座ってるんですよね。 と、 私が座っていると、 前で女の子が上げたり下げたりしてるんですよ。 それをとやかく言うのは日本人ぐらいなもんですよ。 (笑) 何でもないんです。
江川 この前ね北京に行ったら北京の便所もそうなんですよ。 (小沼 でしょう?) 男、 女分かれてたけど、 一応、 男廁と女廁って書いてあるんですよね。 ただ男のところへ入ると、 女の廁へはちょっと入れなかったんで (笑) 男の方だけ入ったんだけど、 とにかくみんな、 そういう穴に腰かけてさ、 みんなイキばってるワケ。 みんなでいっせいに、 あれ異様な光景だと思ったけど。
小沼 何でもないことですね。 また別の収容所ではね、 横にこう穴が並んでて、 みんな前を向いてこう、 世間話しをしながらやってるわけですよね。 なんでもないですよ。 それよりも、 もっとおかしいのは、 ま、 貨車に乗って帰って来たわけですけれども、 何時間か走って、 おしっこ出来ないわけですよね。 停まると、 いっせいに皆、 降りる。 降りて、 やるんですけれども、 あれ、 人間の心理っておもしろいもんじゃないですか、 貨車がこうあるでしょ、 戸がふたつありますよね、 こっちとこっちと、 降りるでしょ、 皆内なか側を向いてやるもんですね、 あれは、 不思議に。 ということは、 顔と顔とが合っちゃうわけです。 しかも、 シベリア鉄道っていうのは、 丈が高いから、 我々みたいな小さい奴はこのまま走って通れるくらいですよ、 高さが。 そこにこう、 しゃがむわけですね、 おかしなもんですよ、 正面向いてしゃべってる、 男も女も。 何でもないんです。 ズドラーストヴィチェ (今日は)、 ホーロドナ セヴォードニャ (寒いね) とか何とか言っちゃってね。
江川 や、 あれはやっぱりちょっと日本の感覚じゃないね。 だから、 まさしくセックスそのものも、 たぶんできるんだと思うよ。
清水 ああ、 そうですか。 ただぼくはやっぱり、 給料もらったとき、 久しぶりにもらってきた時は、 どうかわかりませんけれども。 やっぱり一番、 文学の次元で問題になってくるというのはね、 どうしてその、 やっと職にありついたのに、 あの金を持って、 センナヤの乾燥船か何かに泊って、 五日間も酒を飲んでしまうのかと……あそこはやっぱりもう一度洗ってみたいという、 気持ちがあるんですよね。 それとやっぱりカチェリーナはマルメラードフを本当に愛してなかったと思うんですよね。 (江川 そォう? だけど……) いや、 肉体的には別にしてですよ。 やっぱり死ぬまで、 死ぬ間際まで、 マルメラードフのことはひとことも出ませんからね、 カチェリーナの口から。
江川 出ないけれどもね、 やっぱりあの、 いよいよ、 担ぎ込まれた時のあれはやっぱり全然感情がなかったら無茶だ。
小沼 心情が出てると思うけどな。
江川 出てると思うぼくは。 やっと望みが叶ったと死ぬでしょ、 あれ、 やっぱり、 いいんじゃないの、 あそこは。
清水 やっと本望を達したってやつですね、 マルメラードフが死ぬときですね。
江川 そうそう、 その前の動きがおもしろいよ、 やっぱり。


■カチェリーナの踏み越え

清水 ぼくがおもしろかったのは……気持ちは良くわかるんですけれども、 その、 江川先生お得意の語義の問題にいけば、 やっぱりカチェリーナっていうのは、 ずうっと罪グレフを感じてないでしょ。 罪ということに対して感じてない、 やっぱり、 過誤ですよね、 過失 (ヴィナー)
江川 強い人ですからね、 あの人は清子さんだから仕様がないけど。
清水 あの人はやっぱり、 女ラスコーリニコフだから、 世の中がすべて良くならなければ、 つまり正義というものが、 この現実で実現されなければ、 罪グレフというものを信じられないという立場に立っている女の人だから。 それに対してソーニャっていうのは、 あの人は子供なんだと、 子供で、 世の中が全部うまくいくっていうわけにはいかないんだっていうことがわからないんだっていうふうにソーニャは言ってるわけですからね。 だから、 カチェリーナにとって彼女の命っていうものは  あれだけ、 肺結核で、 貧乏のどん底であえいでいたわけですから、 あの人の生を支えていたものは何かって言ったら、 やっぱり好きな男と駆落ちしてね、 で、 辛いことがあっても、 三人の子供まで産んでね、 その思い出がやっぱりあの人を支えてたんじゃないかと。 それに、 あと賞状ですね。 女学校を卒業するとき、 踊りを踊って賞状をもらったっていう、 ああいう、 何か言葉で言ってしまえばつまらないけれども虚栄と自尊心、 誇りみたいなものがね、 あの人の生を支えているんで、 そういった誇りを全部マルメラードフって崩していくわけでしょ、 崩して崩して、 崩していくわけでしょ。 マルメラードフはカチェリーナを心の清い女だとか何とかラスコーリニコフに語りますけれども、 実は、 ものすごく憎んでたんじゃないかと、 カチェリーナを、 ね。 ぼくはマルメラードフの心理っていうのは二重三重にねじれていていると思いますね。 ラスコーリニコフはあそこで沈黙しているけれども、 あそこでチャリを入れればですね 「いやあ、 マルメラードフさんあなたはそんなこと言っても、 カチェリーナをずいぶん憎んでいるお方ですね」 みたいなチャリをいれれば、 それにものっかって来た男じゃないか、 という気もするんですけどね。
江川 ただね、 実際にマルメラードフがカチェリーナと初めて出会って自分が一緒になるという話がちらっと出てくるよ。 で、 私も貧乏暮らしにずい分慣れているんだが、 もうとっても、 こう、 私でさえ見すごせないようなすさまじいものでしたって、 言ってるでしょ。 あの辺でやっぱり救い出したという感覚は、 マルメラードフは持ってると思うのよ。 それから、 カチェリーナの方はそれがむしろ、 自尊心の強い女だから、 それが頭にきていて、 ずっと復讐しようというか、 その意趣返しを、 心理的にはしようという感じがたぶんあったと思う。
清水 お互いに持ってたんですね。
江川 ええ、 おそらく。
清水 ぼくはやっぱりあそこでカチェリーナがマルメラードフの結婚の申し込みを受けたってことは、 踏み越えだと思うんですよね、 カチェリーナの。 つまりもうどこにも行き場所がないから、 マルメラードフの結婚の申し込みを受けたんで、 愛も何にもないわけですから……。 仕方なく。 で、 それをラスコーリニコフに言う訳ですよ、 マルメラードフはね。 つまりカチェリーナのことを言ってるんですよね。 ところが今までは、 批評家は、 そこら辺をどういうふうに勘違いしたか、 何か全然違ったふうに持っていっちゃったですね、 もう行き場所が無いところでの踏み越え、 ということを。 だからラスコーリニコフに向かって 「あなたわかりますか」 と言うのはつまり、 まだ生活もそれほどしていない、 貧乏のどん底も味わったことのない、 それまで  母親は貧乏だけれども、 一生懸命働いて仕送りしてね  仕送りで学生生活を送っていたラスコリーニコフには絶対わからない、 あのどヽんヽづヽまヽりヽね。 で、 カチェリーナはそれを踏み越えてきた女ですよ、 という風に言ってるわけですから、 マルメラードフは実によくわかってはいるんですよね、 カチェリーナを。 ところがやっぱり一年に一回か二回お義理ではね、 どうしようもないというね……
江川 ジャレーチっていう言葉を使うんですね、 あそこでね。 あの、 憐れんでくれると言うね、 憐れんでくれるっていうジャレーチってことばは可愛いがってくれるという意味もあり得るのね、 俗語ではね。 だから、 カチェリーナは立派な女だと、 ただもうちょっとね、 私のことを憐れんでくれたら文句ないんですがっていうね、 あそこにはいろんなニュアンスがありますね、 確かにね。
清水 そうですね、 あそこはだからものすごくエロティックなところですよね。
江川 そうなんですよ、 ちょっとエロティックな感じありますね。
清水 小沼先生、 いかがですか。
小沼 いや、 相当そこは露骨に出してるんだと思いますよ。

■ディテールにこだわる批評の誕生

清水 何で今まで、 そういうふうに……批評の中に、 そういったディテールを問題にすることがなかったのですかね。
小沼 そういうことを言っちゃいけない感覚がどこかにあるんでしょうね。
江川 あるんでしょうね。
清水 もう無くなってきたんですかね、 そうすると。
小沼 うん、 今や無くなってきたんですよ、 彼の、 こういう人の時代だから。
江川 うん、 そうそう。 だからドストエフスキーってのは立派な人でね、 そんなことは歯牙にもかけないと思ってるもんだから皆が。 そんな馬鹿なことないんでね。
清水 でもぼくはやっぱり、 江川さんの謎ときもそうですけれども、 ものすごくディテールにこだわり始めたってことはあると思うんです、 読む上で。
小沼 うん、 うん、 やっとね。
清水 大上段に構えた (批評でなく) ね  
小沼 やっとね、 何十年もかけてここまで来たっていうことです。
清水 神があるか無いかみたいなことだけじゃすまない、 という  ある意味で、 ヘタをしたら重箱の隅をつつくことになりかねないけども…… (小沼 しかし一度はつつかなきゃ仕様がないですね) しかし、 その重箱の隅にいる一匹の赤い蜘蛛か何かがね、 非常に重要であったりするわけですから、 だからそういう研究と批評が、 これからどんどん展開されていけば、 ある意味でドストエフスキーは全く違ったふくらみをもった読み方がされてくると思うんですね。
小沼 ただぼくは  ちょっと変なことを言いますけどね、 その重箱の隅をつっつくようなものがもうしばらく続いていいと思うんですよね。 だけど、 いつまでもやってることじゃないね (清水 それはそうですね) これは大変ありがたいことなんだから、 それを肥料にして、 新しい評論か何か出てこなくちゃいけないと思うんですよ。 例えばね、 それをどうやって受け取めてくれるんでしょう、 他の人は。 これからの評論を書く人が、 あれをどういうふうに受けとめるか、 ですよ。
清水 例えばぼくは、 江川さんの 「謎とき 『罪と罰』」 がですね、 どういう形で批評に生かされていくのかということがあると思うんですよ。 たまたま同じような時期に、 ぼくの本もいっしょに出たんでアレですが、 例えば江川さんの 「謎とき 『罪と罰』」 を読んで、 こんどはどういう、 批評が出てくるのか、 もっと、 二十代の若い人達の中からどういうものが出てくるのかということは、 おもしろいことじゃないですかね。
江川 だから、 そこがね、 出てこないと、 こちらは何か書いてみたけれど、 おもしろがってくれたことは確からしいけれど、 でも、 その後どうなっちゃうのっていう感じがする訳ね。
小沼 悲しいことにね……もっと出て来ていいと思うんですよ、 すぐにね (江川 ええ) ところが手に負えないんだと思うんですよ、 ちょっと、 ……だからどうなりますかね。
清水 例えばこれは、 もう本当に、 二十年、 三十年、 四十年というふうにドストエフスキーを読まれてきた方の 「謎とき 『罪と罰』」 であり、 やっぱりもう半世紀もお読みになっている小沼先生のお言葉だから、 アレでしょうけれども、 これはやっぱりね、 一回ぱっと、 例えば、 『罪と罰』 なら 『罪と罰』 を読んで、 で、 江川さんのこの本を読んでですね、 何かすぐ反応できる人がいるかというと、 それを期待するのもね……
江川 それは難しいね。
小沼 それはそうかも知れないな (笑)
清水 それは過剰な期待というもので、 やっぱり十年二十年待つ他ないんじゃないか、 と。
小沼 だけどさ、 そのひらめき具合は見せてもらいたいと思うね。
清水 だからぼくは、 それはもし出てくればおもしろいなと思いますね。
小沼 ぼくはその、 今度ね、 意地の悪いこと言えば、 無視する人が出てくると思う、 無視する人が。
江川 そう、 「何か変な雑音が入ってくるけど、 やはりドストエフスキードストエフスキーだ」 ってなね、 言い方が出てきてもおもしろいと思う。
小沼 出てこないとはいえない、 と思うね。 これはこれで結構ですけど、 なんてね。

■666の刺激的発見

清水 で、 やっぱり江川さんの本の中で問題にしなきゃならないのは666の問題とですね、 それからぼくが先に言いました、 背後にあるもの、 ですね。 何か姿無き何者かの問題っていうのは、 永遠の問題ですから、 百年経とうが、 二百年経とうが、 人類の歴史が続く限りやっぱり問題にされていくとは、 思うんですよね。 ですからやっぱり、 666を江川さんが発見されて、 それによって 『罪と罰』 が飛躍的に深みと幅を持ったという、 そういう説はぼくは非常に刺激的だったし、 ぼくなんか、 もっともだと思ってるんですね。
江川 ぼくはね、 666はソ連で、 その後聞いた話なんだけどね、 ソ連のリュビーモフっていう、 モスクワのタガンカ劇場ってとこで演出やってね、 最近亡命しちゃった男がいるんですけどね。 それがやってた劇場で、 ラスコーリニコフの 『罪と罰』 を脚色して上演する時に、 666っていうたれ幕を出すかって話があったという話きいたよ。
清水 それは、 江川さんの本を読まれた方ですか。
江川 いや、 その前。 おそらく全然独立に。
清水 独立ですか、 そういうことはもう世界同時的に  
江川 同時的におきてるみたい、 どうやら。
小沼 ぼくは、 それ、 666というのはね、 考えてる人はたくさんいたと思うんですよ、 言わなかっただけで。 言っちゃまずいので言わなかっただけで。 何故かって 「それじゃ何かどこかに印でもついてるんですか」 なんて言われてね、 666を感じない読者ってのはウソだと思う。 絶対に感じると思う。
江川 本当にね、 印でもついてるという、 あれがやっぱり種明かしのね……ドストエフスキーがそこでぐずぐずしてるわけよ。 あるんだぞ、 ちゃんと  ってことをね。
清水 やっぱりポルフィーリイが犯罪論文で注目したのはあのイニシャルだと思うんですよね、 PPPエルエルエルのあれはやっぱりおかしいと思ったんでしょうね (小沼 当然だねぇ) あのPPPは、 日本語だってたとえば、 本当にNがね、 イニシャルでNNNってもし三つ続いたとしたらやっぱり変に思いますよね。
江川 変な名前だと思いますよ、 誰でもね。
清水 ま、 日本の場合ふたつしかありませんから、 いいんですけども。
小沼 ただぼくが思うのは、 江川さんには悪いんだけれども、 江川さん謎解きしてるじゃないですか、 そのPPPを。 ぼくはそうは思わないんですよ。 あれはそんなひっくり返したとか何とかってことじゃなくて (江川 はい (笑)) そんなことしないで直感的にわかったと思うんですね。 それにほら、 筆記体の字じゃあね、 活字体の字と違いますからね、 六百六十六ときちっと出てこないと思うね。
江川 そうですね、 それは言えますよ、 確かに。 ただドストエフスキーの今度は筆跡の問題ね、 彼のね、 あれは何ていうのかな、 カリグラフっていうのかな、 あれが好きなんですよ、 字書くのが。 何か下書きのノートでも、 何か字体に凝って一生懸命書いたりするのね。 で、 その辺のところがあるんでね  今言われたね、 実際にあれは、 完全なぼくの創作ですからね、 ひっくり返したり何とか言うのは (笑)
小沼 あの創作はおもしろいです。 おもしろいと思うけれども、 実際にはね、 何かもう、 わかってたと思うんですよ、 ちゃんと。
江川 ま、 それはわかってたと思う。
小沼 そんなことは何でもないことですよ。 しかし、 あの666はおもしろいですよ。
清水 そのドストエフスキーの読者が直感でわかったことを、 江川さんが実証的に、 あるいは、 その手続きを  
江川 あれは実証的な顔してやってるだけの話でね (笑)
清水   手続きを経てね。 もう一人の他者にわからせる手続きとしてはね  
小沼 あれは我々にわからせるために書いてくれたもんだよね。
江川 確率論なんてもっともなこといってるでしょ。 あんなのは、 いいかげんなものなんで、 はっきりいって。 そうでしょう、 だって (笑)
小沼 確率論があろうが、 なかろうが、 おかしいんですよ、 あれはおかしいんです。
江川 だってどう考えたって、 PPPなんてイニシャルはありえないはずなのよ、 ほとんど、 ロシア人ではね。
清水 あれやっぱり、 ワシーリイからロージャになったということがやっぱりPPPに結びついていったと……
江川 発見してると思いますよね。 それは別に、 ひっくり返したということは、 完全なぼくの想像だから。
小沼 ひっくり返した方が、 おもしろいですよ、 話としては、 実にね。
江川 というか、 あそこはぼくの小説だといって、 誰か批評していたけど。
清水 でもやっぱり、 今まで読者の方も直感していても、 はっきり言葉で出せてこなかったってことはあると思うんですよね。 初めて出してね、 それで初めて本当にはっきりする、 と。 今までドストエフスキーを漠然と読んでいた。 直感で読んでいた。    『罪と罰』 を読んでこれつまらない小説だとおもう人はあまりいないわけですからね。 どうだったってきけば、 凄いとか、 もう黙る他ないという位の感動を受けたという (江川 うーん、 それが普通ですね) だけど、 じゃ、 どこが素晴らしいのか言ってみろというと、 これが本当に言えない訳ですからね、 なかなか。 だから、 本当にこういうところが実に素晴らしいんだということが、 やっぱりきちんといえるような時代になってきたということですよね。
小沼 そうですね、 タイミング良かったですよ。
清水 あと、 やっぱり批評の方法も昔から比べると実に……
江川   いろんなこと言い出してるからね、 皆ね。 だから色んなことで参考になることたくさんあるでしょう。 ドストエフスキーに限らずね。

■作中人物達の現代への蘇生

清水 もう少し、 女性の問題に戻して  
江川 ハイ、 (笑) 初めっからもうつついちゃったね、 もう。
清水 ぼくがやっぱり一番おもしろいなあと思ったのは、 去年もそういう話したと思うんですけど、 やっぱりドゥクリーダですね。 カチェリーナの次女が、 つまりレーニャだったのがリーダになってしまうという、 その、 名前がレーニャからリーダに変わってしまったっていうことは、 やっぱりあの路地裏の女のドゥクリーダっていうのに結びついていって、 (江川 うん、 あれおもしろいね) それは現実的に見ていけばやっぱり十年後のレーニャ (リーダ) の運命だったと思うんですよね、 だからドストエフスキーがあの短い十三日間の物語の中に、 やっぱり前後百年間くらいはね、
江川 うん、 入れてるね。
清水   あの小説の中に入れちゃっているという凄さですよね、 やっぱり。 もっと大げさにいえば、 人類誕生から人類消滅それから人類消滅のあとの復活の問題まで全部ふくめている訳ですから。
小沼 そこまで言って良いんじゃないんですか。
江川 それは確実に入っているよ。
清水 だから、 それはやっぱり凄い小説なんですよね、 あれは。
江川 だから、 そのことはさ、 誰も実証的に言えるはずがないんでね。 それぞれが皆自分の予感を、 自分なりの形で書き綴っていくしか手がないわけでしょう。 書き留めていくっていうか。
清水 もしあのラスコーリニコフに、 エピローグでの復活の問題がなければ、 完全に現ヽ代ヽのヽ一ヽ人ヽのヽ青ヽ年ヽの物語なんですよね、 あれは (二氏、 大きく頷く)。 だからぼくはよく学生なんかに言うのは、 そういうことなんですね。 『罪と罰』 の主人公はラスコーリニコフという名前のついた十九世紀ロシアの一人の青年だけれども、 例えば現代の日本において、 東京という都市において一人の青年がどのように生きているのか、 ということを書けば、 それが現代を代表する小説になるんだという、 ね。
江川 だから本当にね、 ラスコーリニコフという名前は、 結局質屋に行ってあのばーさんに自己紹介するまでは知らないでいるわけでしょ。 一人の青年だと思って、 こっちは読んでるわけだからね、 ずっと。
清水 あの、 全部わかるまで、 あの名前が全部わかるまで大変なんですからね。
江川 かなり時間かかるからね。
小沼 随分もったいぶって隠してますわね。
江川 ええ隠してますね、 あれ、 すごく。
清水 あれは 『白痴』 においても手法は同じですね、 全く。 ムイシュキンもロゴージンもレーベジェフも名前は (はじめのうちは) 全然出てこない。 ああいう手法、 書き方ありますけれど  で、 学生とゼミなんかで話していて人気のある女性というと、 ポーレンカなんですよね、 ポーレンカ、 あの十歳のポーレンカね。
江川 可愛いいからねえ。
小沼 実際にああいうの、 どこにでもいますね。
清水 そうですか。
小沼 あの子供はいますね。
清水 先生お嫌いですか、 ああいう子供は。
小沼 いいや、 良いですよ、 こまっちゃくれてね、 ちょっと。
清水 唯一のカチェリーナの話相手ですからね、 ポーレンカは。
小沼 あーいう子供にはね、 その 「僕しもべロジオンのことを祈ってくれ」 って言いたくなりますね、 本当に。 あの時は嘘、 偽りでなく言ったんだと思うんですよ、 彼は。
江川 あそこに嘘偽りは絶対無いですね。
清水 ぼくは小説の読み方っていうのは読者のその時その時の心理的状況とか、 精神の在り所によって随分ちがうんだと思うんですよ。 例えばぼくが初めて 『罪と罰』 を読んだ時には、 やっぱりラスコーリニコフですよ、 自分は。 自分がラスコーリニコフになって、 ペテルブルグの街を一緒に歩いてるんですよね。 やっぱり老婆の頭に斧を打ちおろしてるんですよ。
江川 そうですよ。
清水 ところが、 どうもちょっと違うな、 というのは、 ぼくが批評なんかやってるのは、 つまりポルフィーリイの視点もね、 どこかにまぎれこんできてるから、 批評なんて書いてるんですけれども  それからずーっと読んでいて、 ある時非常にこう、 おもしろいね、 何か 『罪と罰』 というものを、 ひとつのふざけた小説として読んでいった場合にですね、 ラスコーリニコフがソーニャの前でぼくはお前の前に伏してるんじゃない、 頭を下げてるんじゃない、 人類の苦悩の前に頭を下げているんだっていう、 これ笑っちゃうじゃないか、 こんな気障なことばを言えるかと。 そうするとね、 そういう読み方を例えば学生なんかに強要すると、 そりゃあおかしいって、 俺なんか絶対そんなこと言わないよって反応するんですよ (江川 そりゃあ、 そうだよね) ところがあの状況にね、 本当におかれているラスコーリニコフみたいな男にとってみたら、 そういう気障なことばが平気で言えるわけでしょう。 だから、 ここがね、 やっぱり小説のの読み方っていうか、 おもしろいなあと。 やっぱり歳の問題もあると思うんですよね。 ぼくなんか、 ポルフィーリイの歳を越えましたからアレですけれども、 やがてスヴィドリガイロフの歳になったり、 あるいはルージンの歳であの小説を読んでいった時に、 また全然違うと思うんですね。 だって今、 現代は、 本当にルージンだらけですもんねえ。
江川 そうねえ、 うん。
清水 ルージンの言ってることは、 普通の今の日本人が言ってることじゃないですか?
小沼 全く同じじゃないですか。
江川 全然おかしくないですよ、 あれなら生きていけますよ、 日本で。
清水 いや、 ああいう人こそが偉くなっていくんですね。 (江川 そうそう) 偉いんですよ、 あれ、 相当な財産家で二カ所に勤め場所を持っているわけですから。 で、 ラスコーリニコフのお母さんが望んだことは、 ロージャよお前も、 ルージンになれ、 ってことを言ってる訳ですからね。 その為に一生懸命あのお母さんは働いて仕送りしているわけですから。 だからあのプリヘーリヤみたいな、 ああいうお母さんを持った青年はどんなにか息苦しかっただろうと思ってますね、 ぼくは。
小沼 そりゃつらいですな、 やりきれないですな。
江川 だからやっぱりその息苦しさってあるじゃない、 やっぱりね。 また、 こちらにも覚えがあるじゃない、 それぞれ (笑)
清水 あと、 『罪と罰』 の女性の中でぼくなんかおもしろかったのはダーリヤですね、 あのダーリヤ・フランツォヴナっていう女衒。
江川 あれはおもしろいこと言ったね、 あなた、 あの本の中でさ。
清水 ぼくはあのダーリヤっていうのが全然描かれてないと思う。 これは 『貧しき人々』 に出てくる女衒もそうだけども、 やっぱり闇の中に潜んでるんですよね。 あの闇の中に潜んでいる、 女衒でしか生きようのない女性にどうして照明を与えないのか。 そこら辺をも、 読者が想像力を働かせて読めば、 もっともっとふくらんでいく小説だと思うんですよね。
江川 そうね。

■ドゥーニャをめぐって

清水 小沼先生は 『罪と罰』 の女性の中ではどういう女性が気になりますか。
小沼 気になると言えばみんな気になるんじゃないですかね。
清水 ドゥーニャなんてのはいかがですか。
小沼 嫌いやですね。
清水 嫌ですか。
江川  (笑) にヽべヽもなくやられちゃったなあ。
清水 やっぱりドゥーニャはスヴィドリガイロフと一回関係していますかね。
小沼 してるのが当然だと思うね。
江川 まあ、 おそらくね。 ただ本当にふわあ、 となっただけだから、 一時期ね。
清水 前にあの、 女子学生で、 卒業した人と、 酒飲んでてその話が出た時に、 たぶん一回だろうって話が出たんですけどね。 あれやっぱり二回も三回もやってたらおかしいんでね。
小沼 好きだの嫌いだのでなったわけじゃないから、 一回ですよね。
清水 江川さんお訳しになっている、 あの 『ドクトル・ジバゴ』 のね、 あれを読めば、 非常にあれ、 現実の話になっちゃうんですよね、 スヴィドリガイロフとドゥーニャの関係は。 やっぱりきちんと関係していて、 しかもああいう口調でスヴィドリガイロフを拒否する女なんですよね、 ドゥーニャっていうのは。
江川 だけど一回っていうのはさ拒否しやすいんじゃないの、 女性は。
清水 あ、 そうかも知れな……いや、 どうですか (笑)
江川 いや、 知らないけど俺は (笑) 一回ね、 つまり半分詐欺的に犯された場合にね。 で、 その後さ、 もう一度向こうが迫ってきた場合にね、 拒否しやすいと思うけどね。
清水 あ、 そうですか。
小沼 それは、 そうだと思います。
清水 ドゥーニャっていうのはスヴィドリガイロフを拒否して、 ルージンを拒否して、 それでラズミーヒンを受け入れるんだけれども、 ラズミーヒンをまた、 蹴る可能性もあるんですよね。
江川 うーん、 ……待てよ、 その、 蹴る可能性、 あるか……
小沼 ぼくはそう思わないな。
清水 思わないですか。 ぼくは、 本の中にも書きましたけれども、 やっぱりラズミーヒンと一緒になって出版社なんかやっていたら全然おもしろくないですねぼくは、 ドゥーニャっていうのは。 (小沼 なるほど) で、 ドゥーニャはまだわからないんですね、 その、 スヴィドリガイロフの魅力というものが。 ところがラズミーヒンと結婚生活やっていくうちに、 どんどん何かね、 スヴィドリガイロフの魅力みたいなものがわかりかけてきたときが、 こわいんじゃないかと思う。 あの 『虐げられた人々』 でワルコフスキーが言っている、 あの淫蕩な伯爵夫人ですよ。 関係を持って大笑いする女の話が出て来ますよね、 それでその、 ワルコフスキーも女の気持ちがわかるから自分も一緒になって大笑いしたっていう話が出てきますけれども、 ドゥーニャっていうのはぼくは、 あの伯爵夫人になる可能性あると思うんですよ。 それは初期作品で言えば、 あのジナイーダですよね、 あの 『おじさんの夢』 に出てくる、 あのジナイーダですよ。 初め、 ワーシャという自分の弟の家庭教師と恋愛ごっこみたいなことをしているけれども、 やがて、 総督夫人か何かになって、 モズグリャコフが全く無視されてしまいますよね。 それぐらい変わり得る可能性をもったのがドゥーニャだと思うんですよね。 それを見こしてるから、 スヴィドリガイロフはやっぱりある程度ドゥーニャに魅かれるんですよ。 それが無かったら、 わざわざ追いかけてこないんじゃないですか。 ところが、 それをまた幽霊となってマルファが追いかけてくるってところが凄いですよね。 だからスヴィドリガイロフの奥さんっていうのは、 凄いんじゃないですか、 また。
小沼 あれはとにかく一応、 彼が関係してるから追いかけてきたんでしょうけれども……
清水 例えばちょっと訊きたいんですけれども、 あのマルファっていうのは息がくさい女って書かれているんですよね。 あの息がくさい女っていうのは何か意味がありますか。
江川 だからね  でも、 やっぱりあれじゃない、息がくさくてもね、息がくさいっていうのはさ、 いろんな意味の臭さがあるわけね。 で、 だけど抱くときにほんとに息がくさかったらどうなるんですかね、 やったことない? (笑) そういうの。
清水  (笑) こういう時はひたすら沈黙を……
小沼 ……ちょっとマズイですよ。
江川 息はマズイよ、 やっぱり。 特に相手が女性でさ、 どうしたってその時には鼻と向こうの口とが近い位置にいますからね。
清水 よく八年間我慢できましたね。
江川 それはあの、 奉仕するという精神に徹したんでしょう、 スヴィドリガイロフさんが。 だって救ってもらったわけだから。
小沼 義務ですな。
清水 義務ですか。 時計のネヽジヽを巻くように、 義務ですか。
江川 だから、 本当に義務的に、 くさい口を嗅ぎながら、 毎日毎日の様に、 それを繰り返しているという、 悲惨な状況よ、 ね。
小沼 本当はね、 あの臭い口なんて書かなくてもいいわけですよ。
清水 きちんと書いてますねえ、 ドストエフスキーは。
江川 だけどあれだけね、 マルファに男メカケにされるわけでしょ、 はっきり言えばね。 で、 男メカケにされたという境遇だけで十分語ってあるんだけど、 それがいかに辛い境遇かっていうことをね、 やっぱり臭い口で書かなきゃ仕様がなかったんだよね。
清水 それともうひとつおもしろいのは、 マルファがどうしてドゥーニャのような絶世の美女を家庭教師にしたかという問題ですよね。 これはよっぽど自分の亭主を信頼していたのか、 或いはそれがわかっていて試したのか、 ですね。
江川 つまりね、 それは張り合う対象が近くにいるとさ、 女性は余計自分に対する、 ハッスルさせる一番の良いアレかもしれませんよ。
清水 でも、 スヴィドリガイロフより歳上ですからね、 マルファは。
江川 ああ…
清水 それがその二十二、 三ぐらいのドゥーニャと張り合おうと思ったんですかね。
江川 いや、 勿論ね。 だけどドゥーニャにはそういう気持ち無いだろうけれど。 私はね、 このスヴィドリガイロフさんっていうのは私のものよと。 あんたがいくら清純な乙女みたいな顔をして、 若々しい肉体を持ってるかもしれないけれど、 だめなのよってなことをやるとね、 勝利の快感がゾクゾクするってなことがあるかも知れないよ (笑)
清水 しかしあの契約もおもしろいですね、 スヴィドリガイロフとマルファの契約。 小間使いには手をつけてもいいけれど、 我々と同じ階級の女性に手をつけちゃいかんみたいな……
小沼 あれはよくわかりますね、 その通りだと思います。 契約するとしたらそうだと思う。 (清水 そうですか) さっきも話にでたけれども、 つまり商売女とならいくらやってもいいけど、 素人女に手を出すなっていうのと同じですよ。
江川 同じですね。 日本だって今そういうモラルはけっこう女房族が叫んでるみたいよ (笑) だから案外今の日本で考えられてることと、 そんなに違った世界じゃないのよね、 たぶん。 あの、 日常そのものはね。
清水 そうですね、 人間は変わらないですからね、 人間そのものは。
江川 それを、 あれだけ違う断面からひょいと切られてみると、 はあっと思っちゃうわけだ、 こっちがね。

■ソーニャの踏み越えと三十ルーブリ

清水 ソーニャっていうのはどうですかね。
江川  (笑) どうですかっていうのは、 どういうこと?
清水 ソーニャっていうのは、 例えば非常に抽象的な言い方しちゃえば、 非常に聖女であると、 偉大なる罪人であるけれども、 罪に堕ちた、 今の言葉で言えば踏み越えたと、 罪に堕ちたけれども、 やっぱり聖女なんだ、 と。 それでドストエフスキーは、 徹底してラスコーリニコフの踏み越えの場面は詳細緻密に描いたけれども、 ソーニャの踏み越えの場面は暗幕を下ろしてしまって一切書かない  と、 そうするとソーニャの踏み越えの時間帯と、 ラスコーリニコフの踏み越えの時間帯はおそらくまあ六時から九時までの間でしょうね。 細かく言えば五時過ぎとか何とかいえますけど。 まあ六時から九時までの間、 つまりイエス・キリストが十字架上で磔刑された時間帯ですね  
江川 そうね、 読みすぎかも知れませんけどね。
清水 ま、 聖書では朝の九時からってなっていますけど、 まあだいたい正午から三時までとすれば、 六時から九時までといえる。 ドストエフスキーは踏み越えの時間を全部イエスの十字架上の死と結びつけてやっているとすれば、 そこでの踏ヽみヽ越ヽえヽは六時から九時まで、 と。 ところがソーニャの踏み越えを一切書いてない。 だから肉体無き女性なんですね、 ソーニャは。 そこで、 例えば 『罪と罰』 をソーニャの 「罪ヽと罰ヽ」、 ソーニャの 「踏ヽみヽ越ヽえヽと罰ヽ」 という形で書き直せば、 全く違った小説が出来るはずだ、 と。 ま、 結果は同じとしてもですね。 だからぼくはその、 数字の象徴性でいえば、 やっぱり3という数字は三位一体の聖なる数字であると同時に、 踏み越えの代償金  ソーニャは三十ルーブリの銀貨だし、 これはもうイスカリオテのユダのお金と同じですね。 だから三千ルーブリをマルファがおくりますね、 ドゥーニャに。 あれはつまりドゥーニャがスヴィドリガイロフに許ヽしヽたヽ代金であると。 そして、 もうひとつありますね、 三千ルーブリというのが。 スヴィドリガイロフが自殺の前にソーニャに贈った三千ルーブリの債券がね。 だからそれはやっぱり、 ソーニャがスヴィドリガイロフに一度許している、 その代金なんだと、 そういう風に考えた方がむしろ辻褄が合うんですね  
江川 なるほど、 それはおもしろいですね。
清水 その、3という象徴性でいけば  だからスヴィドリガイロフは淫蕩な何かわけのわからない人物だという風に見られているけれども  実は黒いキリストといいますかね、 つまり現実的な意味での奇跡をおこなった人だと、 ぼくはまあ読んでいったわけですけどね。
小沼 その読み正しいでしょ、 おそらく。 それとは別だけど、 ソーニャが三十ルーブリもらってくるでしょ、 あれどう思います。 ぼくは高すぎると思うけど。
江川 この間やったんです、 一緒にやったんですよ。
清水 この間も江川先生とやったんです、 江川先生とその話したんですよ。
江川 絶対、 高いですよ。
小沼 ね、 高いですよね、 あんなべらぼうなことないですよ。
江川 あんなにもらえるんだったら皆身体売りますわ (笑)
小沼 そうですねえ。 何故あんな高いのを書いたんでしょう。
清水 例えばぼくがひとつ考えたのは、 つまりダーリヤ・フランツォヴナっていうのは女衒ですから、 そのダーリヤからアパートの家主の妻に話をもちかける。 それで家主の妻からカチェリーナに話がいきますね。 それでカチェリーナがソーニャにいいますね。 いつまでタダ飯食らってるんだみたいな、 非常に乱暴な事を言う。 するとソーニャはたいへんおとなしい女性だから、 私あんなことしなければなりませんの、 みたいな形で、 黙って出てゆきますよね。 それでどこに出ていったか、 ソーニャがね。 と、 考えられるのは、 いきなり街へ出ていったっていうんじゃなくって、 やっぱりダーリヤのところへ行ったんですね。 するとダーリヤは女衒だから、 そういう客を知ってる、 つまり地主階級の、 いくらでも金なんかあるような、 ブイコフみたいな男をたくさん持っている訳ですよね、 顧客を持っていて、 それでソーニャに紹介した、 と。 ソーニャはそこで三十ルーブリをもらって、 ダーリヤに挨拶することなく、 いきなり帰ってきちゃった。 そこで無視されたダーリヤが怒ってソーニャは何だ、 あれは私が紹介してやったのに、 私に何の挨拶もなく……ということでソーニャは従順な顔してるけれども実はからだを売ってるんだみたいなことを言いふらしてしまう。 それでソーニャはアパートから追い出され、 黄色い鑑札を受けなければならなくなってしまった  というのが真相じゃないかとぼくは考えたんです。 ソーニャというのは、 十六ぐらいですか、 あの当時ね。 十五、 六の少女がいきなり街に出て……
江川 街娼が出来るはず無いものね。
小沼 そりゃもう、 やれなかったでしょう。
清水 だからその、 ダーリヤが鍵を握る存在じゃないかっていう感じがぼくはしたんです。
江川 どこから金が  つまりダーリヤから紹介料として或いは登録料としてもらってるか、 または男からもらったのをそのまま持ってきちゃったか、 どっちかなんですよね、 あれはまちがいなく。
小沼 それはやっぱりね、 まるがかりの形式でもらったんじゃないかと思ってましたよ、 今まで。 つまりこれから契約して、 あとずっと私のために仕事をするということで、 少し多いけれど……。
江川 あとはつまりいくら稼いでも身入りにならないわけ、 そういうのはね。 だけどそれやると……。 「お客が毎日つく訳じゃないんだろう」 なんてラスコーリニコフが言うでしょう。 あの辺がね、 ちょっと矛盾しているんです。
清水 ぼくは例えば、 ダーリヤを抜かして考えた場合ですね、 ソーニャは何処で客をとったのか、 という、 つまり単なる立ちん坊だったのか、 それともちゃんとそういう場所があって  
江川 俺は場所はね、 ダーリヤさんがちゃんと手配してくれたと思いますけどね。
清水 それは最初だと思うんです。
江川 最初は、 だってまだカペルナウモフのところへ行かないんだからね。
清水 黄色い鑑札を受けちゃってからは、 もうダーリヤは関知してないと見た方がいいんじゃないですかね。
江川 だから非常に高級コールガールのあれなんですよね……
清水 まさかあの菱形の部屋で、 客取ってたとは思わないんですけどね。
江川 思えないね。
清水 またあの部屋がおもしろいですよね、 隣りにカペルナウモフ一家がいて……
江川 そうそう。 あれ耳聴こえないから全然、 声出しても大丈夫かもしれませんから  。

■隠されたままの謎

清水 全然出て来ない女性っていうのはレスリッヒ夫人ですね。 あの、 スヴィドリガイロフに部屋をかしていたレスリッヒ夫人って全然出てこない。 それでぼくはスヴィドリガイロフが借りた部屋っていうものを、 何回も間取り図にしてみたんですけれども得体の知れない部屋なんですよね、 あれ。
江川 ああ、 あれは変だよね。
清水 あれはドゥーニャが入って来て、 何部屋かを通り過ぎたといってますが、 間取りいくらしても、 わからない部屋なんですよね。
江川 でね、 真ん中に空間のね、 何にも入らない部屋が一つ無いと辻褄が合わなかったりしてね。
小沼 ええ、 なかになけりゃいけませんね。
清水 ああいうのも、 徹底してやるんだったら間取りはどうだったかみたいなことまでやらないと、 ね。
小沼 あれはぼく、 ミスだと思うんですよね。
清水 ドストエフスキーの方のですか。
小沼 ええ、 ドストエフスキーの方の。
江川 何か、 立ち聞きっていう非常にある意味で正常でない状態をつくる為にちょっと無理してますね、 あそこはね。 あのね本当にね、 朝の十時頃目を覚ますと、 お陽さまがラスコーリニコフの部屋に入り込んでドアの反対側の隅が明るくなるっていう描写があるわけ。 それを全部角度計算やってね (笑) 朝の十時にペテルブルグのあの季節に大体太陽は仰角何度かっていう計算をやったわけ。 で、 どうやって計算しても、 そこまで届かないんだよね。 それで工大 (東京工業大学) の学生たちに、 皆で式出してね……
清水 あのラスコーリニコフの住居だって、 江川さんとぼくとじゃ違うんですよね、 位置が。 (江川 そうね) だからあれも、 たとえば中村健之介さんの本 (「ドストエフスキー写真と記録」 中村編訳) ではふたつの説があるという風にていねいにやってありますけれども、 あれだって例えば本当に学問としてのドストエフスキー研究だったら徹底して (小沼 やるべきですね) 出所  出典はどこかみたいなことまできちんと明記した上でやっていかないと、 やっぱり何も知らないで読んだ人たちは、 何だろうこれは、 と思うでしょうね。 だから江川さんの本だけ読んだ人はそういうものだと思うでしょうし、 ぼくの本だけ読んだ人はそうだと思うし、 これはわからないじゃないですか、 ちょっと。 だからそこら辺きちんと、 ね。
小沼 あれは確かにね、 二カ所あるんですよね。 どう考えても。 あの、 運河の流れによって決まるんじゃないんですか。 つまり橋のどっち側に立ってたかってことで。 反対になっちゃいますからね。
江川 あそこ行ってみると実際そうですね。 非常に難しいですよ、 あそこ、 特定すんの。
清水 ラスコーリニコフが、 ぼくの推論でいきますと、 時計回りでいくとすると、 老婆アリョーナ宅までわざわざ遠回りしていくわけですけれど、 帰り道がわからないんですね。 ぼくはまあ、 こういうものじゃないか、 こういう帰り方じゃないか、 というのをゼミで学生達と討議しましてね。 たとえばここで殺人を犯した人間がその通ヽりヽで帰って来るかやっぱりもうひとつの通ヽりヽまで急いで行ってひと安心するのが犯罪者の心理じゃないかっていうんで (江川 ふつうそうだと思うね) まあ、 ああいう帰り道の経路にしたんですけれども。 もうちょっと当時のペテルブルグの地理に詳しければですね、 時計廻りだったらもうちょっとあそこら辺に橋があってですね、 それこそ全く正反対の方向からぐるっと廻って帰ってきたものなのかどうなのかというね、   現実に当時の地図とか言っても小ちゃな橋とか何かまで描いていないとすればわからないですよね。
江川 いやあ、 おそろしくたいへんですよ。 地図は非常に苦労しましたよ、 ぼくもね。 結局はっきりした完璧な地図っていうのは無いのよね。
清水 ええ、 だからそこら辺ドストエフスキーの書き方も、 あんまり具体的に書いていないんで……
江川 ま、 少なくとも反対の方向へ、 時計廻りでずっーと、 逆の時計の延長に行っちゃったということはわかるんですけどね。
清水 あれもぼくは問題にしましたけど、 何故あんな急いでる時にわざわざ遠廻りをするのかということが……
江川 同じ道を帰ったら危険だと思うんですよ、 やっぱりね。
小沼 それが当然の心理っていうやつですね。
清水 そうすると行く時はまわり道をしていて、 帰りは最短距離で帰ろうという意識があって、 しかも反対方向から行こうという意識が働いたと  
江川 だから最短距離ではないですね、 絶対ね。
清水 そうですね。
江川 こういうふうに運河がうねったところのここにあるわけだから、 逆から来るとね、 運河沿いに少し遠まわりをしなけりゃならない。
清水 ぼくは自分でも気持ち悪いと思ってるんですけども、 老婆アリョーナ殺しのあの時間、 七時三十八分。 ドストエフスキーが亡くなった時間が一時間後の八時三十八分というあの符号ですね。 (江川 あ、 そうですか、 はあ) おそらくドストエフスキーはそんなこと考えてなかったと思うんですよね。 (江川 と思いますけどね) (笑) それがね、 やっぱり批評を展開していくとああいう風になってしまうんですよね。
小沼 随分からかわれたもんですなあ (苦笑)
清水 からかわれたですねえ。
小沼 うーんからかわれたもんです。 (一瞬沈黙) それにしてもドストエフスキーっていうのはイヤな奴だと思うんですよ、 此頃もう、 (江川 そうですよ) ええ、 本当にイヤな奴だと思う。
清水 この頃ですか。
小沼 うん、 この頃。
清水 先生、 あと五十年くらい経つと   (笑)
江川 可愛いいところあるよ、 だけど。

■ 『罪と罰』 との出会い

清水 それより小沼先生ぼくちょっとおききしたいことあるんですけど、 ドストエフスキーよりも十年歳とったわけですよね。 お年を召したわけですねえ。
小沼 ああ、 そうそう。
江川 そうですね。
清水 その感覚はどうですか。
小沼 そんなこと考えたこともないわ。
清水 そうですか。
江川 で、 小沼さんは最初にドストエフスキーを読まれたのはいつごろなんですか。
小沼 中学校の三年ぐらいじゃないですか。
江川 三年ぐらいですか。
小沼 だいたい皆さんと同じくらい。
江川 大体同じくらいですね。 で、 ドストエフスキーやろうと思われたのはいつ頃ですか。
小沼 ロシア語やってから。
江川 ロシア語やられて  
小沼 ロシア語やって、 先生がいたわけですよね。 その先生が 『罪と罰』 をやろうって言い出したんですよ。 それでその彼が色々題名を言うわけですよ。 ロシア語ではこう、 ドイツ語ではこう、 フランス語ではこう、 イタリア語ではこう……とか、 並べたわけですよ。 そしてやっぱりその次に一番最初に言ったのは 『犯罪と刑罰』 か 『罪と罰』 かということですよ。
江川 あーなるほどね。
小沼 これはさんざん言われましたよ。 それでおもしろくなってそれでドストエフスキーをやろうって気になりましたね。
江川 ほおー
小沼 どう考えたって、 最初から 『犯罪と刑罰』 だと思うんですよね。
江川 ははあ。 だけどいい先生だった、 ですね。
小沼 それでですね、 皆さんも言われるように内田魯庵罪と罰』 って名訳だと思うんです、 題名は。
江川 うーんそうだと思いますね。
小沼 やっぱりいきつく先はあそこだと思うんです。 それをね、 内村剛介さんなんかは 『犯罪と刑罰』 にいやにこだわるわけだけど、 あれはいけないと思うんです、 ぼくは。 ああいう風にこだわっては。
江川  『犯罪と刑罰』 という題の小説だったら、 誰も読まないですわね (笑)
小沼 読まない、 誰も読まないですよ。 それであの藤原藤男さんっているでしょ、 牧師さん。 あの人もこだわってる訳ですよ。 だけどそれは日本語の有難いところだろうと思いますよ。 つまり 『犯罪と刑罰』 が 『罪と罰』 ということばで全部抱括できて我々に伝わってくる……
清水 でもそれは一度 『犯罪と刑罰』 なんだということが一度言われて、 そうなんだと  ロシア語の意味は本来そうなんだと一度わかった上での 『罪と罰』 なんですよね、 今は。
小沼 ああ、 今はね。
清水 昔はそうでなかった。 そんなこと意識も何にもしてなくって、 もう 『罪と罰』 以外には考えられなかったっていうことですから。 逆に 『犯罪と刑罰』 であるんだということがはっきりわかった上で、 その日本語のもっている罪という言葉の奥深さみたいなものがね、 また逆に日本語の凄さみたいなものが……
江川 そうなの、 だから逆に  魯庵の訳だと思ったけど 『虐げられた人々』 が 『損辱』 っていう確か題ですよね。 あれはね、 『罪と罰』 というあんなすっきりとした、 スマートな題を考えた人が、 なんで 『損辱』 にしたのかっていうことがね、 ちょっと不思議なの、 腑におちないね。
小沼 あれは訊いてみたいですね。
江川 ま、 『罪と罰』 はまさしく題名としては傑作ですよね。

■題名の多様性

清水 さきほど、 研究室で小沼先生とも少し話したんですけれども、 例えばほかの 『未成年』 だったら 『青年』 というのもあったし 『生意気盛り』 もあったと。 『悪霊』 だったら 『憑かれた人』 とか 『憑かれた人々』 とか 『悪鬼ども』 とか色々ありますけれども、 『罪と罰』 だけは、 例えば小説とか全訳とか余計なものがついているのは別にしまして 『罪と罰』 ですよね。
江川 ええ、 あれ無いですね、 他にね。
清水 他にないですから、 あれは。 だから 『おかみさん』 がいつも問題になりますよね 『家主の妻』 だとか。 でもあれだけはどんな翻訳名つけてもね……ぼくはあれこそ 『ハジャイカ』 でいいんじゃないかと思う (笑) あれ 『女主人』 でも 『家主の妻』 でも 『おかみさん』 でもね……
江川 下宿の何とかとかね。
清水 絶対おかしいですよ、 あれは。 テーマから言ってもですね、 むしろあれはオルドゥイノフが主人公でしょ、 むしろ。 オルドゥイノフがみた、 カチェリーナであり、 ムーリンなんですからねえ。 なんであれが 『家主の妻』 になってしまうのかという  あれもだから、 どうしてそういう名前つけたのかと。 だからぼくはハジャイカという言葉のもっている、 もっと語源的な意味をね、 その、 ロシア文学者の方にもうちょっとわかりやすく説明していただきたいっていう感じするんですよね。
江川 だからね、もてなす女なんですよね。 つまりホステスってことですよ。
小沼 ホステスですよねえ。 ただホステスだとまずいわけだ、 日本語だとね。
江川 ホステスっていう日本語は全然にらまれちゃったからどうしようもないわけ。
小沼 本当はホステスですよ。
清水 だけど先生、 あれはすごいホステスですよ、 そうしますとあの女性は。
小沼 そうたいへんなものです。
清水 あのカチェリーナっていうのは自分の母親が死ねばいいと思っていて、 実はその母親の情夫であったムーリンとの間に生まれた子供で、 しかもそのムーリンと駆落ちして、 しかもオルドゥイノフが下宿させて下さいなんていうと、 それも受け入れてしまうような女性で、 しまいにはあの女は気狂いなんだなんていう風にドストエフスキーはうまく逃げてますけどもね。 しかし未完で終わらざるをえなかった。 でもあれはやっぱり凄い問題ですよね。
江川 ええ、 すごい問題ですね。

■父親 (皇帝・神) 殺しのテーマ

清水 やっぱり父親殺しのテーマっていったら、 もう、 『おかみさん』 は最初に出ているわけですから。 だから父親殺しというとすぐもう 『カラマーゾフの兄弟』 なんていうふうにフロイト以来言われてますけれど、 実はもう 『貧しき人々』 からあった。 (江川 うん、 あったね) マカールとブイコフとワルワーラの関係にもう出てたし、 それはもうはっきりと、 フロイトとかユング深層心理学的な証明を与えていけば、 完全に 『おかみさん』 にある、 『ニェートチカ・ニェズヴァーノヴァ』 にあるということですからね。
小沼 ドストエフスキーはどうしたって父親を殺さなけりゃだめだったんですよ。 殺したかったんですよ、 絶対に。
清水 で、 やっぱり殺しきれなかったところがね、 ぼくは一番問題だと思うんで……
江川 だから自分の小説の中で実現すればいい。
清水 ただ父親の、 実際の父親のミハイルだけを 『カラマーゾフの兄弟』 で殺したんで、 あと、 つまり皇帝殺しと神殺しっていうのは、 あの人の永遠の問題だったわけで  
江川 そうでしょうね。
清水 あの人はやっぱり百五十歳まで生きても、 その問題で苦闘したんじゃないんですか。
小沼 うん、 おそらくそうだね。
江川 あれ、 憶病さとか弱気を、 ちょっと捨てますと出来るんですよ、 あれ (笑)
清水 だけどあれは西洋圏っていいますかね、 ロシアもやっぱり、 そういうキリスト教国の作家だから、 あれは大変なことじゃないですか。
江川 いや大変でしょう、 反逆ですものね、 はっきり言ってね。
清水 反逆ですから。 あれ、 もしドストエフスキーが書こうとしている意図がわかったら、 まず作家生命断たれますからね。
江川 まあ、 出してもらえないですよね。
清水 それにキリスト教圏からも排除されますよ、 もしそれをやろうとしたら。 単にロシアから、 ロシアの皇帝から排除されるだけではなくて。 だからものすごく慎重に慎重を重ねて書いたと思うんですよね。
小沼 それだけに、 あれだけ巧妙に韜晦したんでしょうね。
清水 それがね、 彼の小説技法のあの複雑さと神秘めいた謎がね、 内臓されている……
小沼 それを今頃こう、 暴かれちゃ困るんですよ、 本当は。
清水 でももうそろそろ暴かないと……。

■666から999へ

清水 666でしょう、 ドストエフスキーの時代が  だから今は999だと思う (笑) あれ (666) をまたもう一度ひっくり返して999でね。 まさに1999年を迎えようとしているこの時代に、 新人類とかいわれている、 あの青年たちが、 何をするかっていうことが、 ぼくは現代文学の大きなテーマになると思いますね。
江川 本当に、 ドストエフスキーを昇華した文学が今出てこないと、 つまんない訳よね。 それを、 いい加減に昇華するんじゃなくてね、 もういわゆる新人類的な読み方も全部含めた上で、 その上で昇華しちゃって、 そこに何か新しい小説の可能性みたいのが出てくるとおもしろいと思うんだけど……
清水 ぼくはおもしろいなあと思うのは未だにドストエフスキーということがね……例えばロシア文学といえばドストエフスキーでありトルストイであり、 少し現代風といってもチェーホフでね、 全然現代ソヴィエト文学にまでいきつかない。 例えば今ドストエフスキー読んでる人いるかも知れないけど、 もしかしたらソルジェニーツィンはもう読まれていないかもしれないという  
江川 まあね、 そういうことでしょうね。
清水 この、 つまりロシア文学が、 ドストエフスキートルストイでやり遂げてしまった大問題ということが、 百年経っても、 やっぱり本当にはまだめていない、 と思うんですよね。
江川 やっぱりまだ抜け出ていないですよね。
清水 はたして二十一世紀になって本当に抜け出られるのかと言ったら、 また、 これもちょっと疑問な感じもするんですけれどもね。
小沼 その前に、 この世はぼくは滅びるんだと思います (笑) 変なこと言っちゃうけど。
清水 999で滅びますかね。
小沼 滅びる。
清水 先生はいいでしょうけどぼくなんかもっと生きたいですね、 やっぱり二十一世紀まで。
江川 あなたは999にはいくつになるのよ。
清水 そういう計算はしないことにしています (笑)
江川 本当にだけど、 やっぱりそろそろね、 いくつまで幾ら生きてもここまでだっていう限界があるからね。

■ 『罪と罰』 から 『白痴』 へ

清水 先程も小沼先生とお話してたんですけれども、 ドストエフスキーの中でも一番読まれるのは、 例えば今年なんか特にそうですけれども、 やっぱり 『罪と罰』 ですねえ。 もうそろそろ 『白痴』 が問題にされてもいい頃だとぼくは思うんですけれどもねえ。
江川 やりましょうよ、 『白痴』 も。
清水 ぼく、 もうそろそろ 『白痴』 もやり始めてますよ。
江川 ぼくもね、 四年がかりでマヤコフスキー学院で 『白痴』 全部読んだんですよ、 学生相手に。
清水  『白痴』 はぼくは、 今やっぱり時間かけてやろうと思うんですよね。 ぼくが一番不思議に思ったのはあれだけの世界を 『罪と罰』 で書いちゃっている作家が、 一年足らずでよくまた次の 『白痴』 という大小説