平成28年度「文芸批評論 」課題レポート より


田尾和哉

清水先生と松原寛は似ている。最初にそう思った。
そもそも、松原寛とはどういう人だったかを一切知らなかった私は、清水先生の文章を読み進めるにつれて感じたことのないほどの既視感と、それに伴う驚きに包まれた。
生きた時代やしてきたことは多少なりとも違えど、人間の根幹の部分、信念や理念、そこには非常に似通ったものがあるような気がする。
とはいえ、清水先生と松原寛。この二人についてはまだまだ知らないことばかりなので、私が知っているほんの少しのことと、日芸ライブラリを読んで感じたことを綴るだけになるけれど。
清水先生は、この中で、松原寛という人とその哲学性をこう評している。
そもそも松原寛の哲学は頭でっかちの知性と理性にのみ寄りかかった思弁のおしゃべりではなく、血潮が煮えたぎって、発する言葉に鮮血や肉片がほとばしっている。
これにまず驚いた。
知性と理性にのみ寄りかかった思弁のおしゃべりとは、いわばこれまで当たり前とされてきたかたちの哲学だろう。
だが、血潮が煮えたぎって、発する言葉に鮮血や肉片がほとばしっているという表現。これはまさに悟りを開くような考え続けるだけのものではなく、実践的な哲学というべきか、人間の本能的な部分を見ないようにするのではなく、むしろ良く見て、その土俵での戦い、というようなことだろう。
このように松原寛の哲学を表現している清水先生。しかし奇しくも、その人こそまさにここに書かれている通りの人ではないか。
この、発する言葉に鮮血や肉片がほとばしっている、という言葉を私は非常に気に入った。というより私もこうあってみたい、と思ったのだ。
本来、知性や理性あってこそと思われがちなように思うが、むしろそこよりも、食、睡眠、性、のように人間の本能に根ざしたところで思案を巡らせ、哲学する。まさに「本能の哲人」といったところか。
松原寛は、綺麗事だけでなく、本来見ないようにするようなものをしかと見据え、その上で多くのことを考えていたのだろう。
この松原寛の理念というか信念というか、そういったものと、そしてそこにかける情熱の大きさ、熱さ、鋭さ。それらが清水先生を見ていて感じることと重なることが多々あった。
清水先生が何度か話してくれた、ここにも書かれている、江古田の地に降り立った時に背中に寒気を感じた、という体験。清水先生自身もあれは松原寛の霊がそうさせたという風に言っていた。最初は何を言っているのか、結構オカルトチックなことを平然として言うなあ、くらいにかんじていたが、そんな思いは今や吹き飛んでしまった。確かに、清水先生が、江古田の地に降り立ったとき、そこには松原寛の霊魂が居たのだ。そして、何かを清水先生に感じ、この人こそは、という思いで近寄ったのだろう。何かを語りかけたのかもしれない。それが果たしてなんだったのか、何を伝えたのかは分かりかねるが、間違いなくその現象は実際にあったはずだ。
学生として各々に理念や信念があるが、皆どこか甘えというのだろうか、本気さ、異常さが感じられない。しかし、この男はどうだ。何か違うのではないか。この男なら気が狂うほどに自分の求める何かを追求しうるのでないか。
そう感じた松原寛が、清水先生を介してこの土地に新たに日本大学芸術学部という風をふかせようとしたのだ。
自分でもおかしなことを書いているかもしれないとふと思うが、何かを読んでいて声が出るほど驚いたのは初めてだったし、まさか本に向かって「なるほど」という日が来るとは思っていなかったせいもあって、衝動的に文字にしている。
オカルトつながりというわけではないが、もう一つ読んでいて背中に虫が這うような、恐ろしいような不思議な感覚になった箇所があった。
箭内真次郎が松原寛の生涯を活写しているという本の中でのことだ。
この本には松原寛の晩年の袴羽織姿の全身写真が載っていて、その左下には
「昭和34年 晩年の松原寛」
とあった。
しかし、ふと清水先生が確認してみると、松原寛は昭和31年に亡くなっているのだ。
つまり、現実にはあり得ないこと、死んだはずの男が死んだ三年後に袴羽織を着て、威風堂々と写真を撮った、ということがその本の中で起きている、ということになる。
ここだけを何度も読み返した。下手な怪奇小説よりよほどシャープで恐ろしい。
その後に書かれている部分を読んで、ようやく安心できた。
どうやら誤植なのだろう、ということだ。よく考えれば分かりそうなことだが、そこに考えが至らなかった。
しかし、清水先生はそれをイエスのようだ、としている。
神の子、イエスキリストは十字架にかけられて苦しみのもとで息を引き取り、その三日後に復活し、人々の前に姿を現している。
そして日本大学芸術学部の父、松原寛は亡くなってから三年後に清水先生の前に本という媒体を通して姿を現している。
ゾッとした。松原寛とイエスキリストに人ならざるものの力が働いたとしか考えられない共通の出来事があること、そのキーとなる数字までが同じだということ、そしてそこに気づいた清水先生がこの二人の姿を重ねたように語ること、何よりも、それをその通りだ、と驚き、信じきっている自分がいることに、だ。
清水先生が語る通りに考えると、江古田に降りた清水先生を襲った感覚こそ松原寛という考えは、ますます真実味を帯びてくる。
エスキリストは復活し、人々の前に姿を現し、人々の世を正すために力となった。
松原寛は復活し、日本大学芸術学部の文芸学科生となる清水先生の前に本という媒体を通して姿を現し、日本大学芸術学部という世を正すために力となったのではないか。
全てを読み終えて、以前から不思議に思っていた清水先生の江古田に降りた時の体験について、確信を持った。間違いなくそれは真実で、松原寛という霊魂が力を働かせたのだ、と。
果たして、この二人が同じ時代、同じ場所にいたらどのようなことが起こせたのか、また、どんな話をするのだろうか。白黒の松原寛とカラーの清水先生が机を挟んでコーヒーを片手に語り合っている所を想像して、微笑ましくもなり、怖くもなった。
松原寛が死してなお何かを伝えたがった清水先生は、今まさに日本大学芸術学部の文芸学科の教授として我々学生にあるべき姿を追求せしめてくれている。それだけでなく、自らも読み続け、書き続け、狂おしいほどに精進し続けている。
あまり好ましい話ではないが、生き霊としてでもいいので、私にも清水先生が現れてくれるような体験をしてみたい、と思った。
日芸ライブラリの冒頭には、こんなことが書かれてある。
「江古田の地に集まれし日芸青年たちに告ぐ
煩悶せよ、求道せよ、想像せよ
哲学徒松原寛の苦悶と烈しい探究心を知れ
松原寛の宗教哲学、文化理念を知れ
松原寛の芸術に賭けた情熱を知れ
書斎派の哲学徒から街頭の哲学者となった松原寛の生きた哲学を知れ
歌舞伎を愛し、演劇を愛し、総合芸術を目指して
日本大学芸術学部を創始した松原寛の不断の闘争本能とその創造精神を知れ
松原寛に日芸魂の源流を探り、その発展継承を引き受け、独自の芸術を創造せよ。」
一文字たりとも無駄なものなどない、美しく、崇高な文章だ。
こと、煩悶せよ、という一文には深く感銘を受けている。
つい先日、清水先生と話をさせていただく機会があった。
清水先生は、
「天才ほど苦悶と戦え、たとえ才能があったとして、その才能にあぐらをかくのではなく、才能がないやつが5倍努力するなら、10倍努力しなければならない。天才ほど悩んで苦悶と戦って、努力すべきだ」
と言った。
似たようなことは聞いたことがあるし、何処かで誰かが言ったはずだろう。だけれども、この言葉は今まで読んだり聞いたりしたどの言葉よりも耳から入り、全身に血となってながれた気がした。
清水先生の話を聞いて、清水先生の書いた本を読んで、清水先生と相対して、そこでその人から聞く言葉というのは何よりも血潮が煮えたぎっていて、鮮血や肉片がほとばしっている。まさに松原寛の哲学のように。
この日芸ライブラリの清水先生の書いた中にもあった松原寛は常に煩悶していたという箇所。いわば松原寛も一人の天才だったのだろう。だからこそ、やはり、人の何倍にもおける苦悶や努力があったはずだ。
これは自分賛美が過ぎる気もするが、少なからず清水先生は私にも何かの才能を見て、天才となりうるものがあるのではないか、と思っていてくれるのではないだろうか。
もちろん世界中の人はみんな何かの才能がある、なんてことを言って仕舞えばそれまでだが、そういうことではなく、追求したいことで大きく羽ばたける可能性を見出してくれたのではないか、と胸が熱くなり、心が震えた。
この清水先生の期待がついえないうちに、少しでも多くの苦悶と努力にまみれ、気が狂うほど自分が追求するものに没頭し、松原寛や清水先生を超えられるほどの何かを成したいと思う。
日芸ライブラリの中にある
「煩悶せよ」
という言葉。
そして、それを書いた清水先生の口から直接いただいた
「天才ほど苦悶と戦え」
という言葉。
これらは日芸ライブラリを読み終えて初めてリンクして、私の中でさらに大きなものへと変わっている。
思い返せば、学生生活のうちに気が狂うほど、失神するほどなにかに向き合って悩み努力したことは数える程もなかった気がする。
全てが中途半端で、何処かで必ず自分の中に甘えが生じて、どうしてもそこに縋ってしまうのだ。
そんな甘さを見透かされているような気がして、一文字読むごとに感銘を受け、同時に心をチクチクと針で刺されているような心持ちになった。
清水先生の言葉を胸に、気が狂うほど追い求め、信念を持ち、失神するほど何かに費やして生きていこう。