ネット版「Д文学通信」13号(通算1443号)岩崎純一「絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘 ──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──」(連載 第9回)連載

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ネット版「Д文学通信」13号(通算1443号)           2021年11月18日

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「Д文学通信」   ドストエフスキー&宮沢賢 治:研究情報ミニコミ

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連載 第9回

絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘

──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──

 

岩崎純一日大芸術学部非常勤講師)

 

三、様式美としての哲人の生涯

松原寛の生涯区分と哲学の手法 浄土信仰(非円環的安泰)を選択した哲人の、円環的著述

 一方で、松原寛自身の人生はどうだろうか。ニーチェとの違いとしてまず目立つのは、松原寛は新たな哲学用語・概念をあまり造語・創案していない点が挙げられる。松原寛の多用した用語で、私の気に入ったものには、「生命慾」や「総合芸術」、「文化哲学」、真善美と併存する価値としてのヴィンデルバントの「聖」(das Heilige)概念を、真善美を上回る価値として再構築した「聖」価値(『現代人の宗教』二六五―二六六頁)、「総合文化(synthetische Kultur)」(同二六七頁)などがあるが、いずれもヴィンデルバント他の哲学用語の焼き直しと言えばそうであり、松原寛の完全な独創とまでは言えない。

 巫女たちに松原寛の話をしてみたところ、やはり巫女たちも、松原寛が商人の出としての権勢欲・金銭欲と、キリスト教信仰と、哲学的学究と、芸術学園創設・拡大の実務とを堂々巡りし、しまいには「宗教哲学」、「歴史哲学」などの概念を持ち出し、自分自身を大混乱に陥れた後、最後に選んだのが親鸞・浄土信仰や、教派神道新宗教天理教や、軍国主義・特攻隊への賛美・鼓舞であったという点に、最も深い関心を抱いたようだ。

 そして、私が松原寛について最も興味ある点も、そこである。実際に松原寛は、親鸞天理教、軍国精神を自身の生涯の安住の地と見、そこにすっぽり収まってしまった。戦後に至っても松原寛は、怪我、公職追放、息子の死などにより経済的・精神的に困窮・疲弊したこともあってか、青年期のように実利・宗教・哲学・芸術の狭間で苦しむ挑戦をせず、非常に「安定的だが、発展もない」浄土思想、天理信仰を引きずっている。

 『日藝ライブラリー』No.3の松原寛特集への寄稿では、氏の生涯を大きく三つの時期に区分した。詳しくは同稿の参照を求めたいが、今一度概観すると、一高、東京帝大、京都帝大、銀行員、新聞記者と道を進めながら「宗教」と「哲学」の狭間で葛藤した少年期・青年初期(三十歳前後まで)、若くして日藝で芸術教育に携わりながら自身の哲学を展開し著作を続けた青年後期・壮年期(三十歳前後から四十五歳前後まで)、そして、日藝職の後期・戦争時代・退職後の時期(四十五歳前後から没年まで)である。これらを単に「前期」、「中期」、「後期」と呼んだ。

 そして、松原寛の思想のみならず著述手法も「円環」であって、著作ごとに「A、B、C」、「B、C、A」、「C、A、B」などと章・節の順が変更され、再編集されるのみで、煩悶を著述に打算なく転写しているだけの出版物である旨を述べた。松原寛には、少なくとも後期始めまでは、ニーチェが意識した「これを世に問うたから、次は何を世に出そうか」という将来思考・前進思考や「生涯最後の著作」や「人生の完結編」なる概念は全く見られない。松原寛の著作は、気まぐれである。

 「門」三部作(『芸術の門』、『宗教の門』、『哲学の門』)の後、松原寛の思想の泉が涸れたのではないかと友人から心配されたとした上で、実はその間ヘーゲルの歴史哲学の研究のため沈潜していたと書いて(『ヘーゲル哲学物語』自序)、ヘーゲル二部作を出版するなど、全く着地点が見える気配がない。

 今、ニーチェと松原寛の生涯の三区分を壊さず前提としつつも、ニーチェのほうが一貫した時計的精密性を持っているということを利用して、二人の生涯を、西暦ではなく各々の年齢を重ね合わせる形で五年ごとに刻み、区画整理し、そこに主著を分布させてみたのが先の年表である。

 こうしてみると、二人の生涯の極端な共通点と相違点とが明確に分かってくる。最後に永劫回帰思想に到達したニーチェの生涯のほうが、全く計算高い直線的・有限的なキリスト教時間論理で動き、キリスト教天理教や浄土思想を通じて絶対者への信心を求め続けたはずの松原寛の生涯のほうが、全く計算のない、荒野に放たれたような成り行きの円環的・永劫回帰的な時間で動いている。無論それは、超人に求められる、能動性を持った、希望・期待も反省・後悔も超絶した永劫回帰ではなく、極度に自暴自棄で受動的な面さえ持った危うい円環なのであるが。

 今逆に、松原寛の円環的な著作発表手法に、ニーチェの主著を思想別にプロットしようとすると、困難であることからも、松原寛の哲学の不安定ぶり、自身の評価についての丼勘定が分かるであろう。ニーチェの『ツァラトゥストラ』が松原寛の『現代人の芸術』にも該当しうるし、ニーチェの『悲劇の誕生』が松原寛の『宗教の門』であってもよいのである。

 ひいては松原寛は、日本が戦時体制下に入り、文部省・軍部から芸術科自粛の要請・圧力を受けた際には、あれほど芸術による日本民族の精神的戦闘を主張しておきながら、いざ戦果を上げたとなると、大東亜戦争の歴史的必然性と更なる実力・軍事力行使の必要性を説くなど、思想の着地点を全く考えていない。政府からも周囲の者たちからも、独り相撲の狂人と思われたに違いないが、当の松原寛は、単に愚直に暴れ回っているだけの意識だったであろう。

 松原寛のような、思想と著述手法とが(ニーチェのような殺気だった計画性がないという点でかえって)無矛盾であり(松原寛の場合はいずれも円環的時空を全うしており)、だからこそ生涯の最後で病的に発狂する必要のない気質の人間としては、まさに清水正先生がそうである。清水先生は、先生自身が松原寛の反復著述に自身を見ているように、読者による読み始めと読み終わり(一日の読書時間の問題ではなく、生涯の読書の始期と終期の問題をいう)を計算して書いていないので、著述(批評)方法自体が自身の批評観を全うしている。

 松原寛と清水先生の違いといえば、松原寛は祖述能力の卓越をもって満遍なく広く哲人たちを語ったのに対し、清水先生はドストエフスキー論五十年超という主軸を持っている。あるいは、松原寛は人生の後期に浄土信仰と天理教信仰と軍国主義に精神の安定を見出したのに対し、清水先生は浄土的な精神の安定にとどまることは頑なに拒否している。ただし、ぎりぎりのところで、日本語の持つ主述・主客未分離の性質が、その非浄土的な書き手が狂乱へ移行することを防いでいる。

 先に、ニーチェは自身の生自体の有限的直線性を強く意識して永劫回帰思想を論じたものの、読者であるドイツ国民や他の哲学者らを意図的に読み誤らせる手法は採らなかった旨を書いた。一方、松原寛の筆致は違う。松原寛も、実人生を嘘か本当か微妙なキリスト教信仰によって開始した点ではニーチェと近いものがある。

 だが途中から、内心ではカントに心酔しかけていながら、カントにはもう呆れた、次へ進もう、と自らや読者に言い聞かせ、ヘーゲルに心が移ったかと思えば、やはりヘーゲルもこの程度であったかと突き落とす。西洋の哲人たちを上へ昇らせておいて梯子を外すこの作業を、ソクラテスプラトンからスピノザリッケルト、オイケン、ベルクソン、ジェームズまで数十名の哲人たちに行った後、「生の哲学」の中心にいるドストエフスキーニーチェは一言触れたのみで終わらせ、最後の哲人は親鸞だというわけである。

 実は、このような松原寛の危うくも面白い、騙し騙しの言論手法(建前)にまんまと引っかかってしまったのが、私である。

 前回の原稿執筆時、私は清水先生より受け取った先の三冊のコピーのみならず、他の松原寛の著作をも国会図書館近代デジタルライブラリー(現国立国会図書館デジタルコレクション)で読み漁り、結果として代表的な著作は全て目を通した。

 ところが、肝心の『松原寛』(日芸創設五十周年記念に日芸が発行)のみ参照せず(その存在を知った頃には原稿の提出を終え、校正・編集も終わりかけており)、同書でのみ知り得たはずの情報ばかりを間違えて、あるいは漏らして書いてしまった。その他、松原寛の「随想録」などの資料は、当時の日芸図書館事務課長・戸田浩司氏など事務系の方々が多く取り上げており、清水先生はじめ文芸の先生方はそこまで読み込んでいないと思うが(私は全て未読だが)、『松原寛』の内容は皆が取り上げているではないか。唯一の外部からの特別寄稿者として奥付に名が載ったが、恥ずかしい限りである。要するに、私自身がまだまだ日芸に「潜入取材」できず、「日芸人」になっていなかったと言っておこう。

 そこで、前回の私の松原寛論について訂正・追記しながら、氏の著作に表れた建前と本音(本当の煩悶体験、本性)の差を追ってみたい。

 まず、松原寛の卒業した中学校を鎮西学院と書いたが、正しくは東山学院であった。いずれもミッションスクールであるが、鎮西学院とは、東山学院が閉校となって明治学院に吸収合併された際に、その在校生の一部を受け入れた学校で、それは松原寛の東山学院卒業後のことだったのである。それを誤って、松原寛が母校の鎮西学院とその周辺の荘厳なキリスト教的雰囲気に信仰を厚くしていったという内容を書いた。氏が見ていた荘厳な景色とは東山学院の周辺のものだったのである。

 このような正確な事跡の前後関係は、氏の他の著作内の自伝的記述を読んでも、曖昧すぎてさっぱり分からないようになっている(氏が意図して曖昧に書いてあることもある)ため、間違えて当たり前であったかもしれない。松原寛の同窓生であった(あるいは、同窓生だったと勘違いしている)ロシア文学者の大泉黒石からして、松原寛の出身校は鎮西学院だと言うなど、なぜか関係者たちのほうも、松原寛が東山学院の出であることをうろ覚えで述べている。面白く言えば、松原寛が大泉黒石や清水先生など、(疑似)同窓生や日芸教員たちをトリックで引っかけたのである。

 松原寛自身が卒業後、後輩たちの転入先である鎮西学院の周囲の景色を見て、自身の著作のキリスト教的雰囲気を醸し出すのにそちらの方がふさわしいと考え、曖昧に書いて発表したということもあり得るかもしれない。父の信ずる日蓮宗から脱し、キリスト教に身を置いていく準備として、中学時代の風景描写は重要な点であったはずだ。

 しかし、この程度の脚色は、哲人なら皆がやっているものと考えておいた方がいい。むしろ、大して寒くもない暖冬に「厳しい寒さが続いておりますので、ご自愛下さい」と書くとか、世話にもなっていない人間に「お世話になっております」から書き始めなければならない我々俗社会人のビジネス電話・メールほど、悪質な嘘と偽善の文学はない。私など、日々このような嘘と偽善ばかり書いて生活しているわけである。松原寛の建前は、読者への裏切りではなく、自身の精神安定を保つための必要な建前だったのである。

 それから、私は前作で、松原寛による芸術の殿堂創設を支えた二大立役者である山岡萬之助(日大第三代総長)と円谷弘(日大初代理事長)のうち、円谷弘の名を一度も挙げなかった。これについても、どうも松原寛は、円谷弘よりは山岡萬之助に一層触れたがって書いているように見えたので、それに釣られて私も山岡萬之助のことばかり挙げた。

 一方、松原寛の個人的心情に依らずに編まれた『松原寛』は、未だ少ししか見ていないが、松原寛の周辺の人物全員を満遍なく登場させ、記録している。無論、松原寛は、心中では両名に同じ謝恩を感じていた可能性は高いと思う。しかし、松原寛自身の円谷弘への謝恩が確認できるのは、『松原寛』や『日本大学七十年略史』などの編纂委員の一人である箭内真次郎が松原寛の「私記」として紹介している文章など、数点のみである。また、この「私記」をはじめ、箭内真次郎が引用・使用した資料は全て散逸しているようである。

 松原寛の出版された著作だけを読んでいると、山岡萬之助を松原寛に紹介したのが円谷弘であることをさりげなく通過して書いている。人からの紹介(人のおかげ)ということ一つが何となく気に障り、あくまでも自力で日大内に芸術の殿堂を作り上げんとしたことを強調する意図でもあったのか、そのあたりに松原寛の商売人としての面白さ、「俺は人の世話になんかなっていない」という顕示欲が垣間見える。

 また、それ以上に、円谷弘が松原寛と京都帝大哲学科の同期であったことが関係しているかもしれない。ニーチェがリッチュルから『悲劇の誕生』を最終的には批判されて悲しんだがごとく、松原寛は京都学派・西田幾多郎から受け入れられなかった。

 もっとも、ニーチェは一旦リッチュルの推薦でバーゼル大学の教授職に収まるのであり、一見すると松原寛のほうが「悲劇」に思える。しかし、この点について、清水正先生は先のように、西田幾多郎の意図した拒否だったという見解を示したわけである。机上の思弁では気が収まらない松原寛の素質を西田幾多郎は見抜いていた、という清水先生の見抜きである。

 また前作では、著作が途絶えた後の、戦後・晩年の松原寛についても、ほとんど触れなかった。しかし、蓋を開けてみると、先に述べた通り、思想的には若いときの大暴れは見られず、彼岸信仰による精神安定に終始しており、ニーチェのような狂乱はついになかったのである。

 逆を言えば、ただ淡々と松原寛の生い立ちや事跡を記録した『松原寛』を入手せずに、世に出た(つまり、松原寛が生い立ちや事跡の一部を隠したり誇張したりして書いた)氏自身の著書だけを最初に読んでよかった面もある。親族・他人による「松原寛」観よりも先に、松原寛の「自分」観、松原寛の本性がよく見えたからである。

それに、かえって親族や長年の日芸関係者には書けないことや、手に入らない情報も多いと思う。親族や関係者にも建前と本音があると思う。これは、前回の松原寛特集を全て読んでみて分かった。

 しかし、私は日芸との縁ができて一応まだ年数が浅く、タブーがない。いや、タブーというものが嫌いな人間でもある。松原寛の裏の本性かつ最終信仰形態である天理教信仰、極楽浄土信仰、軍国主義信仰に平然と触れることのできるチャンスは、今利用するしかない。本稿を書き始めた頃の或る日の夜、松原寛の裏世界はタブーだから書くなと誰かから止められる夢を見たが、書く。

 むしろ日本大学に大規模な天理教青年会の後援会があり、大学側も(松原寛の入信直前に)天理教夏期大学に場所を提供していたこと、円谷弘も当初天理教を礼賛し、それが松原寛の入信の引き金となったことをも、私は見逃さない(『生活の哲學』二五一頁)。私は、松原寛に深い敬意を持っているからこそ、新たに手にした表裏の松原寛像を全て加味しつつ、その本性に遠慮なく触れることになるだろう。

 ちなみに、松原寛率いる日芸が武蔵野美術大学(当時の帝国美術学校)や多摩美術大学(当時の多摩帝国美術学校)や帝国音楽学校に対して買収工作をしかけ、その「暗躍」と「物色」が批判され、「學校企業の天才」と恐れられ、ついに大学丸ごと「大學百貨店」、「日本大學株式會社」と揶揄される大騒動を引き起こしたという、もう一つのほうのタブーは、前回の松原寛論や清水正感謝祭での寄稿で触れたから、出典(反松原寛・反山岡萬之助・反日芸の批評文や新聞記事やストライキのビラなど)も含めて、省略する(『日藝ライブラリー』No.3 一一三―一四四頁)。

 これらの行動が全て、先の表の中期(哲学・宗教論の著述時期)に同一人物によって行われたとは、にわかには信じがたいだろう。これが松原寛の商魂・権勢欲のほうの裏の姿である。松原寛の表(建前)と裏(本性)がよく分かるだろう。

 

執筆者プロフィール

岩崎純一(いわさき じゅんいち)

1982年生。東京大学教養学部中退。財団事務局長。日大芸術学部非常勤講師。その傍ら共感覚研究、和歌詠進・解読、作曲、人口言語「岩崎式言語体系」開発など(岩崎純一学術研究所)。自身の共感覚、超音波知覚などの特殊知覚が科学者に実験・研究され、自らも知覚と芸術との関係など学際的な講義を行う。著書に『音に色が見える世界』(PHP新書)など。バレエ曲に『夕麗』、『丹頂の舞』。著作物リポジトリ「岩崎純一総合アーカイブ」をスタッフと展開中。

 

ネット版「Д文学通信」編集・発行人:清水正                             発行所:【Д文学研究会】

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2021年9月21日のズームによる特別講義

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「松原寛と日藝百年」展示会の模様を動画でご案内します。

日大芸術学部芸術資料館にて開催中

2021年10月19日~11月12日まで

https://youtu.be/S2Z_fARjQUI松原寛と日藝百年」展示会場動画

https://youtu.be/k2hMvVeYGgs松原寛と日藝百年」日藝百年を物語る発行物
https://youtu.be/Eq7lKBAm-hA松原寛と日藝百年」松原寛先生之像と柳原義達について
https://youtu.be/lbyMw5b4imM松原寛と日藝百年」松原寛の遺稿ノート
https://youtu.be/m8NmsUT32bc松原寛と日藝百年」松原寛の生原稿
https://youtu.be/4VI05JELNTs松原寛と日藝百年」松原寛の著作

 

日本大学芸術学部芸術資料館での「松原寛と日藝百年」の展示会は無事に終了致しました。 

 

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