「トルストイの「懺悔」をめぐって」の前半部分を掲載

 

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 近況報告

相も変わらず神経痛の痛みと共にある生活で、横になって動画を観ることが多い。が、頭のなかでは常に『罪と罰』を考えている。動画でドストエフスキーを取り上げているものもあるので聴いたりもするが、まだまだ表面的な次元にとどまっている。『罪と罰』のテキストの深層に踏み込んだものは皆無と言っていい。作品を読むことは大事だが、同時に作品論にも目を通すことが必要だろう。

ドストエフスキー曼陀羅─松原寛&ドストエフスキー

(D文学研究会星雲社発売)

本書はドストエフスキー生誕200周年・日芸創設100周年を記念して刊行されます。

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表紙と帯

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公告

今回はわたしの「苦悶と求道の哲人・松原寛をめぐる断想─トルストイの「懺悔」、松原寛のキリスト像柳宗悦の奇蹟観などに触れながら―」の中から

トルストイの「懺悔」をめぐって」の前半部分を掲載します。

 おしなべて松原寛はロシア文学に強い関心を示したとは言えない。プーシキンゴーゴリツルゲーネフチェーホフなどについては名前さえ出していない。トルストイに関しては『懺悔』と『幼年時代』を熟読したことを記しているが、『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』に関してはまったく触れていない。
 松原寛が『懺悔』をどのように読んだのか、詳しくは語られていない。が、この『懺悔』はトルストイの全作品中もっとも重要な位置を示すと言ってもいいのではなかろうか。
 『懺悔』は次のような告白から始まる(引用は中村融訳・河出書房新社版『トルストイ全集14』昭和37年8月に拠る)。

  私はギリシャ正教キリスト教で洗礼を受け、育てられた。幼年時代から少年、青年時代までずっとこの信仰を教えこまれた。が、十八歳で大学の二年から中退した頃には、私は教えこまれたことはもはや一つとして信じてはいなかった。(4)

 長崎で小学校を終えた松原寛は父・佐一を説得してミッションスクール東山学院へ編入学し、教師に勧められてキリスト教の洗礼を受けた。松原家は日連宗で、佐一は息子寛平のキリスト教入信に反対した。しかし一度言い出したら、絶対に方針を曲げない寛平は自分の意志を貫いた。主席で学業を終えた寛平は、卒業時には「知られざる神」(The Unknown God)というタイトルで英語で講演している。家業を継がせたいと考えていた佐一の考えに逆らって、寛平は落ちたら死ぬ覚悟で第一高等学校受験をめざし猛勉強していた。見事、寛平は現役で合格した。が、佐一は頑として寛平の入学を認めない。寛平は佐一に勘当され、ひとり東京へと出立する。が、高等学校での授業に失望した寛平は、学校に見切りをつけ、図書館に通い詰めて古今東西哲学書文学書を乱読する。学校に行かなくなった寛平は、とうぜん成績は下がり、教師や同期生からは低能児扱いされる。が、この〈低能児〉寛平は、真剣に人生の謎に挑戦して、その成果を論文にまとめていた。寛平の処女論文「若き哲人の苦悶」は当時、有力な教育雑誌であった「教育学術界」第二九巻第二号(大正三年五月十日 同文館)に掲載された。当時はまだ本名の松原寛平で論文を発表している。
 当時の松原寛はミッションスクールでキリスト教の洗礼を受けた初な寛平ではない。古今東西哲学書を読みあさるにつけ、信仰に対する懐疑が心の深部からたちあがってくる。松原寛は信仰から離れつつある自分を強く感じ、信仰を知性の次元で根拠付けるためにと哲学を志すことにする。信仰と哲学(思弁)は決して交わることはない。それはソーニャの信仰とロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフの思弁が一致しないことで証明される。松原寛の求道精神は哲学から宗教哲学へ、宗教哲学から総合芸術へと発展していくが、そこへと至るまでのプロセスは煩悶苦悶の連続であった。
 第一高等学校時代、松原寛は信仰への懐疑に煩悶したが、彼の生身の実存を死の危機に晒したのは失恋であった。哲学上の苦悶と失恋上の苦悶が何重にも絡み合って、松原寛の処女論文は成っている。観念上の苦悶ではない。松原寛の論文はまさにヨブの「わが魂のふるえ」をもって書かれている。が、松原寛はこの恋愛と失恋に関して、相手の名前を明かして具体的に語ることはついになかった。だれと、どこで、どのように出会い、どのような関係があったのか、裏切りとはどういうことなのか、何度も自殺を試みるほどの失恋に対して、松原寛はいつも言いよどんでいる。

  幼少の頃から知らされた教理は、他の人々の場合と同じく私のなかでも消えつつあったが、ただその相違は、私の場合は十五歳の時から哲学書を読みはじめていたので、私の教理放棄はかなり早く自覚されていたことである。私は十六歳の時から祈祷もやめたし、教会がよいや精進も自発的にやめてしまった。それは幼児から教えられていたことを信じていなかったからではなくて、あることを信じていたからだった。が、それは何かと言われても、とても返事はできなかったろう。私は神も信じていた、というより、神を否定はしなかった、が、どういう神かと聞かれても答えられなかったろう。私はキリストやその教えをも否定はしなかった、が、その教えはどういうものであるかは、やはり返答に窮したであろう。(6)

  いま、当時を追想してみると、私には自分の信仰ーー動物的な本能以外に私の生活を動かしていたものーーつまり、当時の私の唯一の真の信仰は完成への信仰であったことが、はっきり分かるのである。(略)最初は、もちろん道徳的完成にあったが、やがてそれは一般的な完成に、つまり自分自身とか神に対してよりよくありたいという希望よりは、他人に対してよりよくありたいという願望に代わってしまった。そしてさらに他人に対してよりよくありたいという願望はたちまちにして他人よりも有力に、つまり他人よりも名誉も、地位も、富もある者になりたいという願望に代わってしまったのである。(6)

 松原寛はトルストイの『懺悔』にまるで自分の内心の声を聞いた思いであったろう。松原寛はミッションスクール時代に、世俗的な巧妙心ambitious があったことを正直に書いている。父親と争ってまでキリスト教に入信した松原寛は、同時に世俗的な野心家でもあった。こういった松原寛が哲学を専攻して、古今東西哲学書に触れれば、とうぜんトルストイと同様、教会通いや精進もやめてしまうことになる。
 おもしろいのは、トルストイが教理放棄をしたにもかかわらず、依然として神を、キリストを否定しなかったことである。トルストイはこういった一見矛盾と思えることをそのまま素直に認めている。松原寛の信仰と哲学(懐疑)にも、トルストイと同様の曖昧さが潜んでいる。信仰にも全的に充足できず、哲学にも全的に充足できない。ドミートリイ・カラマーゾフではないが、まさに人間の心の世界は広い、広すぎる。トルストイは正直に告白しようとして、言葉が矛盾する心の世界に直面することになる。整合性のある、論理的な言葉で人間の謎に迫ることはできない。謎に迫るとは、言葉の混沌へと降り立つことなのである。
 

 

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。3回に分けてありますので是非最後までご覧ください。

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube