清水正の『浮雲』放浪記(連載130)

清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

清水正の講義がユーチューブで見れます。是非ご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=LnXi3pv3oh4


批評家清水正の『ドストエフスキー論全集』完遂に向けて
清水正VS中村文昭〈ネジ式螺旋〉対談 ドストエフスキーin21世紀(全12回)。
ドストエフスキートルストイチェーホフ宮沢賢治暗黒舞踏、キリスト、母性などを巡って詩人と批評家が縦横無尽に語り尽くした世紀の対談。
https://www.youtube.com/watch?v=LnXi3pv3oh4


https://youtu.be/KqOcdfu3ldI ドストエフスキーの『罪と罰
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp 『ドラえもん』とつげ義春の『チーコ』
https://youtu.be/s1FZuQ_1-v4 畑中純の魅力
https://www.youtube.com/watch?v=GdMbou5qjf4罪と罰』とペテルブルク(1)

https://www.youtube.com/watch?v=29HLtkMxsuU 『罪と罰』とペテルブルク(2)
https://www.youtube.com/watch?v=Mp4x3yatAYQ 林芙美子の『浮雲』とドストエフスキーの『悪霊』を語る
清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』清水正への原稿・講演依頼は  http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html


ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

デヴィ夫人のブログで取り上げられています。ぜひご覧ください。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-12055568875.html

清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。



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 清水正の『浮雲』放浪記(連載130)
平成◎年3月9日

  雑誌を放って、ベッドに起きあがると、誰かが、扉をこつこつ叩いていた。富岡は冷やりとして、「どなた?」と呼んだ。
 「わたしです、ゆき子です……」と扉の外で言っている。
  富岡が、扉を開けに行くと、痩せてすっかりやつれ果てたゆき子が、濡れた雨傘を持って廊下に立っていた。
  薄情のようだけれども、富岡は肚の底から、ゆき子の訪問を迷惑至極に思った。(331〈四十二〉)

扉を叩く者がある。それは〈誰か〉である。この〈誰か〉が誰であるか分からないからこそ、富岡は「どなた?」と呼ぶ。ところで、富岡は声を出して呼ぶ前に〈冷やり〉としている。なぜ〈冷やり〉としたのか。不気味な予感が働きでもしたのだろうか。が、間をおかず、扉の外から「わたしです……ゆき子です……」という返事がある。富岡が扉を開けると、そこには〈痩せてすっかりやつれ果てたゆき子〉が、〈濡れた雨傘〉を持って廊下に立っている。ただそれだけのことなのだが、『浮雲』と『悪霊』の関係を執拗に追っている読者の目には、やはりこの場面はニコライ・スタヴローギンの告白の場面と微妙に重なるところがある。
 ニコライ・スタヴローギンは十一歳の少女マトリョーシャと肉体関係を持った後、いっさいのフォローをあえてしなかった。マトリョーシャは極度の不安のただ中に突き落とされ、しまいには神様を殺してしまったとまで譫言を吐くようになる。自殺する前、マトリョーシャはニコライの部屋の閾に立って小さな拳を振り上げて威嚇する。富岡の前に現れたのは凌辱された十一歳の少女ではない。二十歳も半ばを過ぎた、言わば海千山千の女である。〈富岡の〉子供を堕胎して、心身ともに疲労しきった女である。『悪霊』を読んでいた富岡が、突然、眼前に現れた〈痩せてすっかりやつれ果てた〉女にマトリョーシャの姿を重ねることはなかったのであろうか。こういった点に関して富岡も作者もいっさい触れることはない。おそらく『浮雲』の読者で、この場面とニコライ・スタヴローギンの告白の場面を重ねる者はいなかったであろう。今まで林芙美子ドストエフスキーの文学の関連性を探った批評や論文は皆無と言っていい。ましてや『浮雲』と『悪霊』に照明を与えたものは拙著以外にはない。
 『浮雲』の文章はその表面を眺めていても、その深層に秘められた世界は浮上してこない。小説場面の断層を見る眼差しでテキストを読み込んでいかなければならない。富岡が農業雑誌に掲載した〈南の果実の思い出〉について作者は長々と報告しているが、その前にきわめて手短に、富岡が雨の窓を見ている場面を描いていたはずだ。この場面に何度でも立ち返らなければいけない。富岡の眼差しに照らして〈ゆき子〉の登場を見れば、〈ゆき子〉は「外の緑が濡れて霧を噴いている」その〈緑〉の中から、〈一種の神秘な緑の光線〉となって、あらかじめ「ぐっと部屋の中にまで浸み込んで来」ていたことになる。
 富岡の部屋の扉を叩いたのは、現実次元ではゆき子以外の誰でもないが、象徴の次元では〈一種の神秘な緑の光線〉なのである。「どなた?」と呼ばれて、その〈緑の光線〉は、まず最初に「わたしです」と答えている。直後に「ゆき子です」と答えることで、大半の読者はこの場面の聖的な隠喩的意味を覚ることができずに読み進んでしまうことになる。
 『罪と罰』のエピローグで、ロジオンの傍らに、緑色のショールを被って突然現れる〈ソーニャ〉は、わたしの目には〈実体感のある幻〉(видение)に見える。イエス・キリストが娼婦ソーャに化身して、ロジオンの傍らに現出したのである。ニコライ・スタヴローギンの眼前に現れた〈マトリョーシャ〉もまた実体感のある幻であるが、ニコライはその〈マトリョーシャ〉に〈幻〉以上のリアルを求める。
 その意味では、林芙美子は〈ゆき子〉をリアルな存在として描ききっている。富岡は〈ゆき子〉を〈一種の神秘な緑の光線〉などとは微塵も思っていない。そのように思ってこの小説を読んでいるのはわたしであり、だからこそわたしは、扉の外で「わたしです」と答える、その声に敏感に反応するのである。