清水正の『浮雲』放浪記(連載195)

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清水正の『浮雲』放浪記(連載195)
平成A年9月8日 

 作者にしてみれば、作品の幕の下ろし方は何通りも考えられたであろう。屋久島で二人が結婚し、平凡な生活を送ったという設定もできなわけではない。が、林芙美子が選んだのはゆき子の病死とそれに続く富岡兼吾の姿を描くことであった。前にも書いたが、わたしが驚くのは、ゆき子が病死したことである。『浮雲』はゆき子と富岡兼吾の腐れ縁の物語であるから、片方が先に死ねば、もはや物語は幕をおろすしかない。腐れ縁の終焉、それは富岡兼吾の死によっても果たされたわけだが、林芙美子はゆき子を先に死なせた。もはや、生きて富岡兼吾を追う者はいない。否、ここが凄いことだが、ゆき子に代わって作者林芙美子が富岡兼吾のその後を追うことになる。わたしはここに泣ける。ゆき子が死んでも林芙美子が富岡兼吾を追う、そのことに泣ける。だからこそわたしは、『浮雲』を書いて死んだ林芙美子を追い続ける。
 どこに、ゆき子に代わってまでも追い続ける魅力が富岡兼吾にあったというのか。これは確かに一つの大きな謎である。今朝、わたしはそのことを考え続けていた。近頃、夢を見たその続きのような感じで意識が覚醒する。ふと、思った。富岡兼吾は〈告白〉を封じられた存在で、あらゆる弁明を作者によって拒まれた存在であったということ。ニコライ・スタヴローギンのように〈告白〉を記すことも、従ってそれを発表することも封じられていたのが富岡兼吾であったのだ、と。すると、『浮雲』という小説全体が富岡兼吾の告白の内容となって浮上してきた。林芙美子は富岡兼吾に、漆についての文章を書くことしか許さなかった。富岡兼吾の内的世界になぞ微塵の照明も与えない、そんな林芙美子の強い決意さえ感じられる。
 林芙美子は富岡兼吾に対して、まさに正真正銘の現象学者のような判断保留の冷厳な姿勢を貫き通している。富岡兼吾のろくでもなさを体感している林芙美子は、にもかかわらず、決して彼を裁きの場に連れ出すことはなかった。富岡兼吾は林芙美子の小説世界で自由を全うしている。富岡兼吾は作品世界に登場した時から、幕が降りるまで自由であり続けた。林芙美子は作者の立場を利用して、人物を裁くような真似はしない。いったい、『浮雲』の登場人物で裁かれた者などいるのだろうか。確かに、おせいは殺された、向井清吉は殺人者となった。が、わたしは何度でも言うが、これは作者の設定ミスと思っている。おせいは殺されてはならなかったし、向井清吉のような男を殺人者に仕立ててはいけない。わたしは作者を絶対者として、作品を読み進める批評家ではない。作者もまた人間であり、テキストを尊重するが、テキストに隷属する者ではない。
 わたしはニコライ・スタヴローギンの告白を読んで腹がたつ。マトリョーシャ陵辱と、マトリョーシャの自殺を黙認し、その死を確認した後にどんちゃん騒ぎしているニコライを許し難い存在だと思う。要するにニコライ・スタヴローギンはくだらない男である。が、ドストエフスキーが描くとニコライは途方もなく巨大な存在に見えてしまう。そのように見てしまう読者は未だに多い。観念的に膨らんだニコライ・スタヴローギンの〈虚無〉にたぶらかされてしまうのだ。しかし、くだらないことはくだらないと見る常識のまなざしを失ってはならない。このくだらない男を育てたのが母親のワルワーラと家庭教師であったステパン・トロフィーモヴィチである。両者ともに肝心な所が欠如した人物である。林芙美子は富岡兼吾にニコライ・スタヴローギンの〈告白〉を封じたことで、彼のくだらなさを誰にでもわかるように描いた。そして林芙美子はその富岡兼吾のくだらなさを裁かなかった。林芙美子は富岡兼吾のくだらなさに最後の最後まで寄り添った。富岡兼吾には〈首吊り自殺〉などというきれいごとは許されなかった。わたしはニコライ・スタヴローギンの〈自殺〉は、ニコライの猿を演じていたピョートル・ステパノヴィチ一味の手による〈他殺〉と見ているが、未だにそのことに気づきもしない読者は多い。ドストエフスキーの読者は多かろうが、作者が封じ込めた内実を見る読者はほとんどいない。

  翌日、朝八時ごろ、屋久島が見え始めた。
  富岡たちは、安房の港へ上陸するのだ。船は、宮の裏の沖へ着いた。海岸は波が荒く、港もないので、沖あいに停泊して、小船が、船客を運んだ。大隅諸島のはずれの、黒子のような、こんもりした孤島を眺めた時、富岡は、ここが、自分の行き着く棲家だったのかと、無量な気持ちであった。
  青い沁みるような海原の上に、ビロードのようにうっそうとした濃緑の山々が、晴れた空に屹立している。
  種子島の西南三二カイリ、面積は五〇〇平方キロ、島形は、円くほとんど出入なき水平的肢節。島の中央には、九州地方第一の高山、宮の浦岳、一九三五メートルが聳える。永味岳、黒田岳、いわゆる八重岳の群巒をなし、垂直的肢節の変化に富む。海抜一〇〇〇から一五〇〇メートルの山腹に屋久杉の繁茂。