清水正の『浮雲』放浪記(連載118)

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https://youtu.be/KqOcdfu3ldI ドストエフスキーの『罪と罰
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp 『ドラえもん』とつげ義春の『チーコ』
https://youtu.be/s1FZuQ_1-v4 畑中純の魅力

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デヴィ夫人のブログで取り上げられています。ぜひご覧ください。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-12055568875.html

清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。



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 清水正の『浮雲』放浪記(連載118)


平成○年12月25日

林芙美子の描く富岡兼吾はドストエフスキーの作品を読んでいる割には、かなり単純な男で、ゆき子の妊娠に関して微塵の懐疑も抱かない。先にも触れたように、ゆき子がはらんだ子供はジョオの可能性もある。ゆき子がパンパンで生計を立てていた時期があるということは、当然、子供の父親の可能性は複数であったということになる。作者はゆき子のパンパン稼業に関してもそのすべてを描いているわけではない。読者はゆき子とジョオの情事の有様、その具体をまったく知らされていないし、ゆき子がジョオ以外の外人兵士と関係を持ったのかも知らされない。が、少なくともゆき子が肉体関係を持った男として富岡とジョオの二人の存在は明確で、富岡もそのことを知っているのであるから、ゆき子の妊娠に関してはジョオの可能性もあることを疑わないほうがおかしいということになる。しかし、『浮雲』全編を通して富岡が男のことで嫉妬したことはない。これも一つの不思議だが、こと女に関して富岡は絶対の自信を持っていたのかもしれない。ニコライ・スタヴローギンが弟子格のシャートフやキリーロフやピョートルに微塵の嫉妬も覚えなかったように、富岡はゆき子に一目惚れしてしまった加野久次郎にも、ジョオにも、伊庭杉夫にも、向井清吉にも嫉妬しない。富岡の女関係は、描かれた限りでみればすべて三角関係であり、しかもいずれの場合も富岡は優位に立っている。富岡に嫌気がさして去っていった女はいない。ニウなどは富岡の子供まで産んでいる。邦子はゆき子の存在を知っても別れようとはしなかったし、おせいにいたっては、富岡に妻邦子がおり、愛人のゆき子がいることを知っていてさえ向井清吉を捨てて富岡を追って東京に出てきた。
 わたしはニコライ・スタヴローギンが多くの女性たちを虜にする、その魅力を理解しがたいように、否、それ以上に富岡が女たちを夢中にさせるその魅力を理解しがたい。ニコライの場合は女性ばかりでなく、男たちをも虜にした。ピョートルなどは敢えてすすんで〈ニコライの猿〉を演じてはばからなかった。しかし富岡の場合、彼を崇拝する者はいない。富岡はある種の女性を引きつける性的魅力を備えていたかもしれないが、男を引きつけるそれ以外の魅力を備えていたとは言いがたい。
 作者は「子供をこの世から消してくれた、ささやかな祝いの餞別」という言葉を記している。富岡は自分の子孫をこの世に残す気持ちはない。富岡に多くの子や孫に恵まれた家父長のイメージは全くない。というよりか、『浮雲』に〈父親〉は登場しない。ゆき子の父親、富岡の父親は『浮雲』の舞台にまったく登場しなかった。伊庭杉夫には子供がいるが、自分の子どもに対する父親としての伊庭は描かれない。向井清吉もまた別れた先妻との間に子どもがいるが、子どもたちとの交流はまったく触れられていない。ニウは富岡の子どもを産んだとは報告されるが、その報告を裏付けるほどのことはなにも描かれていない。富岡、伊庭、向井は妻のある夫であるが、彼らは夫であり父親であるよりも前に、若い女と関係を持ちつづける男として描かれる。
 ここで富岡が愛読していた『悪霊』の場合を見てみよう。主人公格のニコライ・スタヴローギンの父親はその履歴が簡単に報告されるだけで、舞台に登場するまでもなくすでに亡くなっている。母親のワルワーラは息子ニコライの家庭教師として自由主義者のステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーを自分の領地スクヴァレーシニキの屋敷に招くが、ステパンがニコライの〈父親〉的存在となることはできなかった。ステパンは〈自分の子供〉ピョートルですら、生まれるとすぐに郵便馬車で〇県の伯母のところに送り出してしまった。ステパンがピョートルに会うのは、ピョートルが大学受験のためにペテルブルクに出てきたときが最初である。ピョートルが成年に達するまで一度として自分から会おうとしなかったステパンを〈父親〉と見なすことはできない。それに作者によって「ピョートル・ステパノヴィチ」(ステパンの息子ピョートル)と常に名前と父称で表記されるピョートルが、実はステパンが結婚当時、妻と一緒に同居していたポーランド人の子どもである可能性も否めない。ステパンはニコライに対してもピョートルに対しても〈父親〉としての役割を果たしたことは一度もなかったと言ったほうが的確であろう。ピョートルは〈息子〉を伯母に預けっぱなし、ニコライとはホモセクシャルな関係まで取り結んでいた。ワルワーラの庇護のもと、わがまま放題のことをしていたステパンは大きな子どもの域を超えることはなかった。建築技師で人神論者のアレクセイ・キリーロフ、農奴出身の国民神信仰者のイワン・シャートフ、彼らは『悪霊』の舞台にあって重要な役割を果たす人物であるが、読者は彼らの〈父親〉を知ることはない。まさに『悪霊』は父親不在の物語であると言っても過言ではない。
 自由主義者のステパンは自分の教え子たちに進むべき道を示すことができず、〈スパーソフ〉(キリスト様のところ)へ向かう途上で病に倒れた。ステパンは再びワルワーラによってスクヴァレーシニキへと連れ戻されてしまう。スクヴァレーシニキは多くの人間の血を吸って生き続ける地獄の龍の化身とすら見える。この龍が守っているのは太母ワルワーラである。