清水正の『浮雲』放浪記(連載122)

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デヴィ夫人のブログで取り上げられています。ぜひご覧ください。
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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。



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 清水正の『浮雲』放浪記(連載122)
平成○年12月30日

  たったこの間まで、自分のそばに、大柄なおせいが横になっていた。おせいは、寝覚めに、かならず、富岡の脚の上に、自分の両の脚をのっけて、唄をうたった。その時だけが、二人をしみじみと近いものにしているような気がして、富岡は眼を閉じたまま、おせいの唄を聴いていたものだ。いまは、そのおせいは、どこにもいない。だが、富岡は、死んだおせいを恋しいともなつかしいとも思わなかった。かえって、さばさばとした気持ちである。富岡にとって、もう、女はこりごりであった。ベッドに一人で横になっていることが、こんなに楽々として健康なことも初めて知ったような気がした。今日になって、初めて、生活転換の機会が到来したのだ。政治、社会道徳、それらのものを、粉ひき機械のように、粉々に打ち砕いて、奔放な自分にかえりたかった。独りということがどんなに爽やかなものかと、窓外の枝木をふるわせて激しく降る雨に、富岡は、うっとりと眼を向けてみる。(329〈四十二〉)

 すでにおせいは死んでいる。富岡はおせいと新たな生活を展開していくことはできない。「富岡にとって、もう、女はこりごりであった」と作者は書くが、ゆき子との〈腐れ縁〉に幕を下ろす気はない。富岡はおせいと〈現在〉と〈未来〉を生きることはできないが、おせいとの〈過去〉に生きる気もない。ここに引用した場面にも忍び込んできているのは、富岡の生存に幕を下ろそうとする作者の思いであるが、作者は強引に富岡の延命策に突き進んでいく。
 『浮雲』が原稿枚数をきびしく限定されていれば、完成度の高い作品に仕上がったことは間違いない。林芙美子は力の限りを尽くして、『浮雲』を書き続けた。「風雪」の編集者もまた作者の意向を尊重し、原稿枚数に制限を持たせなかった。その結果、作者は富岡とゆき子の関係を小説上の必然性を逸脱してまで続行することになった。しかしこの〈続行〉は、いわゆる流行作家が読者のご機嫌をとりながら部数をのばす商業政策の一環として採られたのではない。富岡とゆき子の〈腐れ縁〉の果てまで行かなければ浮上してこない問題が潜んでいた。この〈問題〉があるからこそ、わたしもまた『浮雲』という小説の現場を舐めるようにして読み進んでいるのである。
 富岡は〈独り〉であることの〈爽やか〉を満喫している。しかし、この〈独り〉は人間本来の孤独な精神とは性格を異にする。富岡には両親がおり、妻の邦子がおり、とりもちのようにしつこく追いかけてきて離れないゆき子がいる。富岡は邦子からもゆき子からも逃げ切ることはできない。生温い人生を狡くたちまわってきた富岡は、今、つかの間の〈独り〉を満喫しているだけのことで、この〈独り〉の壁など、ゆき子の執拗にまとわりついてくる情念の炎に溶かされてしまうのである。が、作者はしばし富岡をぬるま湯の風呂桶にひたしてあそばせている。

  独りで暮す緊張だけが、今日の富岡の救いでもある。
  まず、この部屋から去ること。それと同時に、妻も両親も捨てること。もし、よかったら、自分の名前さえも替えてみたかった。勤め口もやめて、新しい仕事をみつけたかった。何もおせいが亡くなったから、急に、おせいのために、こんな気持ちになったのだとは思いたくなかった。
(329〈四十二〉)

 ぬるま湯の風呂桶に身をひたしている者には自殺も新規蒔き直しもできない。富岡には〈死〉と〈再生〉の扉は堅く閉ざされている。富岡のような人間に可能な死は病死か事故死で、彼が願っていたかもしれないニコライ・スタヴローギンの〈首吊り自殺〉などはもっとも似合わない。尤も、わたしはニコライの〈自殺〉は、彼の書いた〈告白〉の公表と同程度に信じていない。もしニコライに〈自殺〉が可能であるなら、彼の抱えた〈虚無〉などたかがしれているということになりはしないか。
 富岡は〈自殺〉からも、〈心中〉からも、〈再生〉からも拒まれた存在であるからこそ、ろくでなしのリアリティがある。『悪霊』を読んでニコライ・スタヴローギンに牽かれるドストエフスキー愛好者は未だに少なくはなかろうが、わたしにとってニコライは劇画的な誇張が過ぎてリアリテイがない。ニコライなどより、この男をイワン皇子に仕立てあげるという情熱的〈演戯〉を存分に発揮して、無傷でスクヴァレーシニキを後にしたピョートル・ステパノヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーの方がはるかに面白い。ピョートルにしてみれば、ニコライなどはずいぶんと担ぎやすい御輿であったに違いなかろうが、わたしはニコライなど担ぎ気はまったくない。ドストエフスキーはピョートルが担ぎやすい御輿としてニコライを小説舞台に登場させているが、もし本当にニコライを〈イワン皇子〉として担ぎ出すというのであれば、どんなことがあってもニコライを登場させてはならなかったと言えよう。観客の前にその姿を現した時点で神話的人物の神話はたちまち瓦解してしまう。ニコライを初めから〈偽イワン皇子〉として設定するのであれば、彼は無様な道化役を演じなければならない。しかし、すでに舞台には〈革命運動の首魁〉を装う〈二重スパイ〉の〈豚野郎〉ピョートル・ステパノヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーが見事に道化役(ニコライの猿)を演じきっている。ニコライが二番煎じの道化として舞台に登場すれば、みっともない滑稽沙汰を生きるほかはない。その滑稽の真骨頂が、最後の場面を飾る〈自殺〉であったわけだが、この〈自殺〉を仕掛けたのが二重スパイのピョートルであり、国家から派遣されたアントン・ゲーと見ないのであれば、作者ドストエフスキーの演出の現場に関わることはできないということになる。
 もし、林芙美子が富岡を〈自殺〉させていれば、わたしはこれほど執拗に『浮雲』を批評することはなかったであろう。富岡には〈自殺〉も〈他殺〉も許されていない。生温き虚無者は決して熱くも冷たくもなれない。ユダヤキリスト教の神からは予め吐き出された存在が富岡兼吾であり、彼はその生温き実存を全うしなければならない。
 作者は「富岡は、死んだおせいを恋しいともなつかしいとも思わなかった。かえって、さばさばとした気持ちである」と書いた。この文章をどう理解したらいいのか。富岡は残酷な男なのだろうか。自分と深く関わった女が殺された時に、〈さばさばとした気持ち〉になるということはあり得る。しかし、女を〈恋しい〉とも〈なつかしい〉とも思わない、そういった感情だけがずっと持続するとは思えない。富岡に人間の感情があるなら、つい最近までベッドを共にしていた女を、恋しい、なつかしい、と思う気持ちも蘇ってくるだろう。
 作者は、ベッドの上でおせいが富岡のそばで寝覚めにかならず唄をうたっていたことを報告している。作者は、おせいがどんな唄を歌っていたのか明かしていないが、この場面をじっくり思いをこめて脳内で映像化すると、富岡とおせいの日常の積み重ねが実にリアリティをもって迫ってくる。富岡は独り、ベッドの上に横たわって、現におせいの脚の温もりと重さを感じ、唄を耳にしているにもかかわらず、作者によって「富岡は、死んだおせいを恋しいともなつかしいとも思わなかった」と括られてしまう。
 富岡がおせいに対して冷たいのは、富岡の人間性の問題と言うより、やはり作者の側の問題に見える。すでにおせいは『浮雲』の舞台で作者によって切り捨てられた存在で、血肉を備えた人物として蘇ってきては困るのである。おせいに限らず、富岡の内に自分の子供を産んだニウや、戦時中に舅姑に仕えて富岡家を守ってきた邦子などが、大きな比重をもって不断に蘇ってきたのでは、ゆき子との腐れ縁の続行が困難になる。これは作者の側の問題であって、人物の問題ではない。
 おせいはゆき子の分身のような存在で、若い頃のゆき子を反映している。大柄なからだのおせいは描きようによっては、富岡を大きく包む母性的存在に成長する可能性もあったが、作者はその可能性を抹殺した。作者はジョオと新しい人生を歩み出すゆき子を許さず、おせいと新生活に踏み出す富岡を許さなかった。