清水正の『浮雲』放浪記(連載121)

清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

清水正の講義がユーチューブで見れます。是非ご覧ください。
https://youtu.be/KqOcdfu3ldI ドストエフスキーの『罪と罰
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp 『ドラえもん』とつげ義春の『チーコ』
https://youtu.be/s1FZuQ_1-v4 畑中純の魅力
https://www.youtube.com/watch?v=GdMbou5qjf4罪と罰』とペテルブルク(1)

https://www.youtube.com/watch?v=29HLtkMxsuU 『罪と罰』とペテルブルク(2)
清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』は電子書籍イーブックで読むことができます。ここをクリックしてください。http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html


ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

デヴィ夫人のブログで取り上げられています。ぜひご覧ください。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-12055568875.html

清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。



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 清水正の『浮雲』放浪記(連載121)

平成○年12月29日

  朝からかなりひどい吹き降りである。
  おせいのいないベッドに横になり、富岡は、ぼんやり、雨の音を聴いていた。窓は白く煙り、水滴が汚れた硝子戸を洗い流している。身動き一つすることもものうく、富岡は、胸に手を組んだまま眼を開けていた。
(328〜329)〈四十二〉

 林芙美子ドストエフスキーと違って人物の内的世界を独白の形で表現しない。ここでも「心の底から、子供をほしいと思わなかった」富岡の内部に降下して、その理由を語らせる手法は採らずに、改行して「朝からかなりひどい吹き降りである」と続ける。これは断絶であり継続である。読者は富岡の内部深くに眼差しを注ぐのではなく、富岡が全身で感じている激しい雨降りの様子に注意を向ける。しかし、この〈かなりひどい吹き降り〉が富岡の内部世界を端的に隠喩している。富岡は心理分析官のように明晰に的確に己の心理状態を説明することはできない。富岡は浄書を仕事にしている九等官マカール・ジェーヴシキンよりも自分の内的世界を自分自身の言葉で表現することができない。ここでも富岡の思いは作者が代弁するかたちで表現されている。極端な物言いをすれば、富岡は作者に思考奪取されている。これは、再三指摘しているように、本来とっくに別れていたはずのゆき子と無理矢理関係をさせている作者が負わなければならなくなった役割と言える。富岡が重い口を開いて言葉を発するとすれば、ゆき子にではなくて作者に向かって「なぜぼくをゆき子と別れさせてくれないのか」ということになる。
 作者に思考奪取された富岡は明晰に自分の思いを語ることはできない。富岡はすでにおせいのいなくなったベッドに横になり、〈ぼんやり〉と雨の音を聴いているほかはない存在なのである。おせいは向井清吉に殺されていなくなったのではない。ゆき子とジョオの新しい生活、富岡とおせいの新しい生活を描くことを捨て去って、富岡とゆき子の関係の持続にこだわった作者によって都合よく抹殺されたのである。向井清吉などはそのために性格まで変更されて〈殺人者〉とされてしまった。もともと富岡は、向井のことなど配慮していない。ゆき子を手に入れるためには後輩の一本気な加野久次郎も平気で犠牲にしたのと同様、若いおせいを手に入れるためには向井のことなど一顧だにしなかった。おせいを殺して監獄に入っている向井の世話をするなど、ゆき子と心中しようとしたことと同じくらい必然性がない。
 ここで、富岡と作者は小説世界で一つの〈和解〉をはたしているかのようだ。富岡の耳はかなりひどく吹き降る雨風の音を聴き、眼差しは白く煙った窓を、その汚れた窓硝子を水滴が洗い流していくさまを見つめている。富岡は身動きひとつするのも億劫で、ただ視覚と聴覚だけをぼんやりと働かせている。富岡はすでに行き着くはてまでたどり着いてしまったように見える。作者は富岡の感覚と一体化してこの場面を描いている。富岡の実存は疲労困憊した者のそれであり、このまま二度と再び立ち上がることがなくても不思議ではない。作者は「富岡は、胸に手を組んだまま眼を開けていた」と書いた。作者がそっと富岡の両目を閉じてあげれば、富岡にふさわしい孤独な死は成就したであろう。が、『浮雲』の作者は、ゆき子以上のしつこさをここでも発揮する。作者は富岡を手放さない。小説的必然性を逸脱してさえ、富岡とゆき子の〈腐れ縁〉にこだわった作者は、富岡に安楽な〈死〉を与えることはない。