清水正の『浮雲』放浪記(連載123)

清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

清水正の講義がユーチューブで見れます。是非ご覧ください。
https://youtu.be/KqOcdfu3ldI ドストエフスキーの『罪と罰
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp 『ドラえもん』とつげ義春の『チーコ』
https://youtu.be/s1FZuQ_1-v4 畑中純の魅力
https://www.youtube.com/watch?v=GdMbou5qjf4罪と罰』とペテルブルク(1)

https://www.youtube.com/watch?v=29HLtkMxsuU 『罪と罰』とペテルブルク(2)
清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』は電子書籍イーブックで読むことができます。ここをクリックしてください。http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html


ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

デヴィ夫人のブログで取り上げられています。ぜひご覧ください。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-12055568875.html

清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。



人気ブログランキングへ←「人気ブログランキング」に参加しています。応援のクリックをお願いします。







人気ブログランキングへ←「人気ブログランキング」に参加しています。応援のクリックをお願いします。




清水正の著作・購読希望者は日藝江古田購買部マルゼンへお問い合わせください。
連絡先電話番号は03-5966-3850です。
FAX 03-5966-3855
E-mail mcs-nichigei@maruzen.co.jp




人気ブログランキングへ←「人気ブログランキング」に参加しています。応援のクリックをお願いします。



 清水正の『浮雲』放浪記(連載123)
平成◎年2月24日

だが、自分と関係のある一人の男が、獄に投じられていると思うのは、富岡にとって、あまりいい気持ちのものではない。向井清吉のしょんぼり坐った、獄中の一片が、ちらちらと、富岡の心のなかを横切って行く。その思いは邪魔くさくもあった。本人の言うとおりに、早く刑がきまりさえすれば、自分もまた落ちつくのかもしれない……。(329〈四十二〉)

 富岡は獄に投じられている向井のことをつかの間思い出したりはするが、その思いに執着することはない。作者は「その思いは邪魔くさくもあった」と書いているが、富岡以上に作者自身が向井の件については邪魔くさく思っていたのではなかろうか。わたしの眼からすれば、向井という男はすでに伊香保でその役目を終えた存在である。向井を捨てて、富岡を追ってきたおせいという設定は許せても、おせいを追ってきたばかりか、居場所を発見して殺害してしまうという向井の設定は許せない。富岡とゆき子の腐れ縁のドラマに、向井のおせい殺人事件を絡めることは作品の密度を薄めるばかりか、作品自体を破綻させかねない。林芙美子ともあろう小説家がそのことに気づかないわけはない。つまり殺人事件を起こして、獄につながれている〈向井〉という存在は邪魔なのである。『浮雲』は雑誌に連載かされた小説であるから、今さら向井によるおせい殺人事件をなかったことにすることはできない。作者ができ得ることは、富岡の思いの中から向井を消してしまうことぐらいである。もし、富岡と向井の関係を詳細に描けば、間違いなく富岡とゆき子の腐れ縁で展開してきたドラマは破綻せざるをえなかったであろう。
 作者は、まずおせいを殺すことで富岡とゆき子の腐れ縁の存続をはかり、さらに向井の存在を〈邪魔くさく〉扱うことで、小説の表舞台からの抹殺をはかっている。

  雨の窓を見ていると、外の緑が濡れて霧を噴いているように見えた。一種の神秘な緑の光線が、ぐっと部屋の中にまで浸み込んで来る。死というものが、たやすく肌に触れる気がしたが、人間は、なかなか死ねないものであると思った。富岡は、会社も、あの事件以来、ずっと休んでいた。富岡はある新聞社で出している農業雑誌に、南方の林業の思い出といったものを、この数日ぽつぽつ書きだしていた。百枚ばかりのものであったが、それが書けたら、その農業雑誌に送って原稿を金にかえてみたい気がしていた。
  林業の思い出をつづる前に、富岡は、きまぐれな気持ちから、南の果物の思い出といった三十枚ばかりの文章を、その農業雑誌に送っておいた。ちょうどあの事件のあったころである。その一文は、農業雑誌に載り、一万円の稿料を貰った。思いがけなかったことだけに、富岡は、そのような才能もあった自分に勇気づけられていた。(329〜330〈四十二〉)

 富岡が書こうとしているのは「南方の林業の思い出」である。この思い出を書く前に、富岡が書いたのは「南の果物の思い出」で、この三十枚の原稿は一万円の金になっている。わたしが興味を抱くのは、『悪霊』の読者であった富岡が、南方での〈告白〉ではなく、南方での〈思い出〉、それもテーマが〈林業〉であり〈果物〉であったということである。富岡にそういった原稿を書かせるように設定しているのは、もちろん作者林芙美子である。とすれば、富岡にニウやゆき子に対する〈罪〉の意識が存在しなかったように、林芙美子にもまたそういった意識はなかったことになるのであろうか。
 富岡は友人であった小泉の妻邦子を奪って結婚し、ダラットでは安南人のニウと関係して妊娠させ、さらにゆき子とも関係を結んで、できもしない結婚の約束をして一足先に日本へ引き揚げてきた。しかし、富岡にはそのことに対する〈反省〉はまったくない。反省がないという点では、『罪と罰』のロジオンに似ている。ロジオンは二人の女の頭を斧で叩き殺してすら、反省もしないし、罪の意識に苛まれることもなかった。同時に思い出すのは、年下の友人中原中也の愛人を奪っても反省しなかった小林秀雄である。小林は戦争責任の問題に関しても「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。(中略)僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と「近代文学」(昭和21年2月)の座談会で言い放っている。小林は中也から奪った長谷川泰子を捨てて逃げてしまうが、べつにそのことを反省したりはしない。わたしの中では、『浮雲』の中でドストエフスキーの本などを読んでいる富岡兼吾と、ある一時期ドストエフスキーに夢中になっていた小林秀雄が重なって見えることがある。
 農林省の官吏であった富岡兼吾が記した〈思い出〉を描いているのは小説家林芙美子である。林芙美子はなぜ、この段階で富岡に〈南の果物の思い出〉などを書かせる気になったのか。富岡にとって〈南の果物〉とはいったい何だったのか。これらのことを念頭に置いて、林芙美子が記した〈富岡の文章〉を見ていくことにしよう。

  私は、以前農林省の官吏で、軍属として、四年ばかり仏印に住んでいたことがあった。熱帯地方に、四年の歳月を過したが、ここでは、私は、さまざまな果物の思い出を持った。
  熱帯地方には、いろいろな果樹が繁生し、この果物の豊醇な味覚は、熱帯に生活するものにとっては、何よりも強い魅惑である。最も私の印象深いものをあげるならば、熱帯の果実の王様であるバナナを初めにあげなければなるまい。このごろ、やっと台湾から、日本にも輸入されるようになったが、このバナナに、何百かの種類があると知っているひとは少ないであろう。細いもの、太くてずんぐりしたもの、稜角が顕著なもの、色が白茶けたもの、少し紅色を帯びたもの、芳香の強いもの、形や味は、まったく千差万別である。
  私は、熱帯の生活では、おもに、キングバナナや、三尺バナナを特に選んで食べていた。稀には料理用のバナナを供せられたが、美味とはいえない。繁殖には、ヒコバエを用いているが、植えて十五カ月くらいたつと、高さ十尺から二十尺となり、葉の着生した芯から、四五尺の偉大な花梗が出て花をつける。果実を結び、花梗は自然に下へ曲り、幹は枯れてゆき、その株から生じるヒコバエがこれにかわり、一年を経ると、また結実する。暑い湿潤な風土に適し、土壌は粘質で、排水がよければどこでもよい。だが、風当りの強い、石礫地や、砂質の石灰岩質の土壌には適さない。バナナは天与の果実で、貧者にも最もよろこばれて、食事のたしに用いる。バナナが果実の王ならば、女王というべき果実は、マンゴスチーンであろうか。学名をガルシニア・マンゴスタナという果樹に生ずる。私が、初めてマンゴスチーンを見たのは、河内の町、プラチックに近い果物店であった。小さい柿粒ほどの大きさで、頂点が扁平で、果皮平滑、褐紫色である。この果実を輪切りにすると、中にクリーム状の白い果肉のついた種が、塊をなしている。果皮にはタンニン酸と色素を含み、布片に果汁をつけると、その汚染はなかなかとれない。五月から七月ごろまでが出さかりということであったが、私が河内で求めて食したのは二月であった。ユヱのモーラン・ホテルに二週間滞在中も、毎食の卓子に、このマンゴスチーンが出た。マンゴスチーンはミカンの味いがした。
  この樹は、小喬木で、樹形は円錐状、葉は大形、対生、長楕円形、革質、馬来が原産地である。成長が非常に遅く、結実するまでには、九年から十年を要する。生育の地は、暑くて湿潤な気候で、土壌は深く、肥沃で排水良好でなくてはならない。マンゴスチーンを上品な果実とすれば、その正反対な果物に、臭気ふんぷんとしたドウリアンという珍果のあることを書かねばならぬ。
  富岡は、ほかにも、カルダモム、サポチル、バラミツ、パパイヤなぞの果実の生態を書き、その果実を食べた時の思い出や熱帯地方の旅行記をつけ加えておいた。富岡は、ベッドの下に手をのばし、その農業雑誌を取りあげてぱらぱらとめくり、自分の文章が活字になっているところを眺めていた。自然に南のダラットの風物が瞼に浮んで来る。あの時代を考えると、あまりにも、自分の生活の変りかたの激しさに、呆然として来るのだ。(330〜331〈四十二〉)