清水正の『浮雲』放浪記(連載119)

清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

清水正の講義がユーチューブで見れます。是非ご覧ください。
https://youtu.be/KqOcdfu3ldI ドストエフスキーの『罪と罰
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp 『ドラえもん』とつげ義春の『チーコ』
https://youtu.be/s1FZuQ_1-v4 畑中純の魅力

清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』は電子書籍イーブックで読むことができます。ここをクリックしてください。http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html


ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

デヴィ夫人のブログで取り上げられています。ぜひご覧ください。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-12055568875.html

清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。



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 清水正の『浮雲』放浪記(連載119)


平成○年12月26日
 英雄神話の文脈で言えば、英雄ニコライは龍と戦い、勝利を収めてとらわれの〈姫〉ワルワーラを救いださなければならない。しかし、ニコライはスクヴァレーシニキの地獄の龍に打ち勝つことができなかった。ニコライは太母ワルワーラを救い出すことができず、逆に太母ワルワーラに呑み込まれるような形で自己破綻しなければならなかった。ワルワーラを救い出す使命をおびた〈英雄〉は『悪霊』の舞台に登場することはなかった。〈英雄〉は批評家が負わなければならないのか。
 『浮雲』の世界に〈英雄〉が登場する隙間は微塵もない。救い出すべき〈ヒロイン〉が存在しない。ゆき子は敢えて言えばふつうの女である。伊庭杉夫も富岡兼吾も〈ふつうの女〉にふさわしい〈ふつうの男〉である。伊庭と富岡は哲学者でも芸術家でも文学者でもない。彼らには生きてあることの根源的な謎に迫る問い自体が欠落していている。ゆき子も同じである。ゆき子も富岡も目先の欲望に夢中になることはできても、普遍的な問題を追究する意志はない。ゆき子と富岡は暮らしの糧を得ることや性愛の次元でじたばたすることはあっても、人間いかに生きるべきかで懊悩することはない。戦前・戦中・戦後を通して、人間がいかに生き、いかに死んでいくかを目の当たりに見てきた者にとって、「人間いかに生きるべきか」という問題を正面に見据えること自体が空虚であったのかもしれない。戦争はいっさいのきれいごとを許さない。戦争のさなかにあって、実際にひとを殺した人間が、ヒューマニズムを口にすることがいかにさもしいことか。極限状況にあって人間は人間でなくなるのだ。より厳密に言えば、非人間的な思考や行為のすべてがまさに人間的ということである。人間は人間を殺すことも食うことも出来るし、想像の限りを尽くして虐待することもできる。それが人間なのだ。
 ゆき子も富岡も垂直的に降下したり上昇したりする精神運動の渦中に巻き込まれることはない。彼らは精神の地獄も悦楽も知らない。彼らの地獄と悦楽はいつまでたっても幕の降りない性愛の舞台で味わわれるばかりである。