清水正の『浮雲』放浪記(連載103)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。




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 清水正の『浮雲』放浪記(連載103)
平成□年6月6日
 富岡はトルストイの愛読者でドストエフスキーの『悪霊』を読みこなすほどのインテリな山林事務官として設定されながら、作者は富岡に文学論などいっさい展開させない。言わば富岡は作者によってその精神世界を封印された存在であり、ゆき子にたいしても読者にたいしてもそのインテリぶりを存分に発揮する機会を与えられない。つまり富岡兼吾はドストエフスキー論や文芸批評を書いて発表することを禁じられた小林秀雄埴谷雄高のようなものである。ゆき子やおせいの富岡に対する関係は、小林や埴谷の文学世界に参入できない若い女が、彼らのダンディな容姿に惹かれて肉体関係を結んでしまったようなものである。
 男の観念世界などに無闇に踏み込まない女の直観の凄さはニコライ・スタヴローギンの正妻マリヤ・レビャートキナに体現されていた。ニコライの思想的次元の弟子にロシアの神を信じなければならないと説いたシャートフ、神が存在しなければ自分自身が神とならなければならないと説いた人神思想家のキリーロフ、秘密革命結社の主魁で実は二重スパイのピョートル・ヴェルホヴェーンスキーの三人がいる。彼ら三人の〈思想〉はかつてニコライ・スタヴローギンが抱いていたものだが、現在のニコライはいずれの思想も信じられない虚無のただ中にいる。まさに富岡兼吾はこのニコライ・スタヴローギンの虚無を彼なりに引き継いでいる。富岡がかろうじて信じているのは女の肉体である。女の肉体を通して得られる悦楽のみが、かろうじて富岡兼吾をこの世につなぎとめている。その悦楽の虚無にも倦いてしまえば、まさに生きながらの屍同然ということになろうか。
 ゆき子は富岡に〈唾を吐きかけてやりたい憎しみ〉を感じるが、この生々しく生理的・感覚的な〈憎しみ〉がある限り、ゆき子は富岡との関係を断ち切ることはできない。ひとは憎しみによってすら関係を深めることができるのである。

  四五日たっても、いっこうに、ゆき子は躯工合がよくならなかった。伊庭はじれったがって迎えにやって来たが、蒼い顔をしているゆき子を見ると、あまり強いことも言えないらしく、早く出て来てくれとは言いかねている。
 「どうした? ばかに弱っちまっているじゃないか……。元気を出しなさい。精神力だよ。死ぬも生きるも精神力だ。どうも、お前さんは仏印から戻って、人が変ったね。もっと愉快になって、おしゃれでもして、元気を出さなくちゃいけない。ーーところで、大津しもさんといったかね、あの女史やって来て、今日で三日ほどおこもりをしているが、なかなか有望だ。弁も立つし、小金も持っているいるし、このごろは、こってりとお白粉もつけて、とても張り切って来た。小学校の教員で家は味噌屋だって話だぜ。女も、年を取って来ると、行く末のことを考えるようになると見えて使いいいし、教祖も拾いもンだと言っている」(323〜324〈四十一〉)

 ここで伊庭について改めて見ておこう。設定において伊庭は妻子持ちだが、小説の中で妻の真佐子や子供たちが前面にしゃしゃり出てくることはない。前にも書いたが、下宿している若い娘と夫との関係に気づかないような妻はいない。現実的に考えれば、ゆき子のことで真佐子と杉夫の間に一悶着が複数回あってもおかしくはない。そんなことは百も承知の助で林芙美子は敢えてそのことに触れなかった。その理由の一つとしてあげられるのは、ゆき子と杉夫と真佐子の関係に照明を与え続けると、ゆき子と富岡の物語に支障をきたすということである。『浮雲』において最優先されるのはゆき子と富岡の関係、その延々と続く〈腐れ縁〉であって、それを描き続けるためにその他の男女関係(ゆき子と加野、ゆき子とジョオ、富岡とニウ、富岡と邦子、富岡とおせい)はすべて犠牲にされるのである。もし、作者がそのすべての関係を丁寧に描いたならば、ゆき子と富岡の肖像はだいぶ違ったものになった可能性大である。
 ゆき子のイメージはその大半が富岡との関係によって作られているが、少し観点を変えれば、富岡以上に重要な位置を占めるのが伊庭ということになる。なにしろゆき子は伊庭と三年もの間、〈男と女〉の関係を結んでいたのだ。しかも描かれた限りで見れば、ゆき子は真佐子にその関係を気づかれないように自然に振る舞う演技力を身につけていたことになる。この事実だけを取り上げてみても、ゆき子はそうとうしたたかな女狐ということになる。ゆき子が伊庭と三年間肉体関係を続けたのは、タイピスト学校の月謝代と下宿代のためである。保険会社に勤めていた実直な男伊庭は、ゆき子にそれなりの交換条件を出して関係を続けていたと見た方が説得力がある。ゆき子と伊庭はそのことに関して完璧に口を噤んだ。作者もまた彼らに荷担していっさい照明をあてなかった。
 ゆき子は伊庭との関係を通してもはや男なしの生活を送ることはできない。伊庭から富岡へ、富岡からジョオへとゆき子の男遍歴は続く。ジョオは途中で消えてしまったが、伊庭は言わばゆき子と富岡の物語の背景にあって断続的ではあるが確かな関係を保持していた。もし林芙美子がゆき子と伊庭の関係を丁寧に描いていれば、富岡の存在こそゆき子のつかの間の浮気相手ぐらいに見えてくるであろう。
 大日向教で宗教ビジネスに大成功した伊庭にとって、農林省を辞めて材木で一儲けしようと企みその事業に失敗した富岡など嫉妬の対象にすらならなかった。自信満々の井の中の蛙伊庭にとって、富岡が愛読していたトルストイドストエフスキーなどのっけから関係なかった。伊庭は実直な男であり、その実直さは主に金勘定に生かされた。伊庭の〈実直さ〉は自分の周りの人間に関しては大いに通用したであろう。この実直さは富岡の虚無などものともしない。そもそも富岡の虚無など、加野に分からず、伊庭にとっては問題外であった。伊庭は人生を水平的に生きる男であって、人間いかに生きるべきかという問題よりも、今日一日を精一杯楽しく生きたと思うことが大事なのである。