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清水正の『浮雲』放浪記(連載194)
平成A年9月7日
『浮雲』を読んでいて最も気になるのは、ゆき子にとっての富岡兼吾とはいったい何だったとかということである。このことが頭から離れない。ゆき子は書かれた限りでみても、伊庭杉夫、富岡兼吾、ジョオと肉体関係を結んでいる。富岡兼吾と別れてジョオとまったく新しい人生を踏み出すこともまったく不可能というわけでもなかったし、伊庭杉夫の妾として経済的には何不自由のない生活を続けることもできたのに、なぜ敢えて富岡兼吾の後を追い続けなければならないのか。『浮雲』論を執筆し続ける過程で何度も繰り返し問い続けた問題である。富岡兼吾がゆき子だけを愛していたとするならまだしも、彼はゆき子と心中しようと思った伊香保の地で、酔いつぶれたゆき子の眼を盗んで向井清吉の若い妻おせいと関係するような男なのである。富岡は自分の性衝動に実に素直な男で、後先考えずに事に及んでしまう。とうぜん、ゆき子はそんな富岡に不断にいらついていなければならない。それでも、ゆき子は富岡との関係を切ることができず、富岡の運命に寄り添っていく。もういいかげんにしてくれ、と叫びたくなるほど、二人の腐れ縁は徹底している。この〈腐れ縁〉には、倫理や道徳もまったく太刀打ちできない。この〈腐れ縁〉の壷は何もかも呑み込んで溶かしてしまう。ゆき子も富岡も、この壷を叩き壊すことができない。叩き壊そうと何度試みても、この壷は不死身なのである。
富岡兼吾は屋久島行きを決意する。ゆき子もまたそんな富岡に付いていくことを決意する。ゆき子は伊庭との安穏な生活に充足することはできない。ゆき子は富岡の〈体臭〉に支配されている。この富岡の男(雄)の〈体臭〉にゆき子の女(雌)の生理が順応してしまう。
ところで、ゆき子と富岡兼吾の〈腐れ縁〉を延々と続けていくだけなら、『浮雲』は悲劇的作品とはならなかったであろう。生活力旺盛に見えたゆき子にも病魔はぬかりなく忍び寄っていた。つまりゆき子は死ぬことでしか、富岡との〈腐れ縁〉を断ち切ることができなかった。ゆき子の死の場所として設定されたのが屋久島であった。