清水正の『浮雲』放浪記(連載185)

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清水正の『浮雲』放浪記(連載185)
平成A年8月10日
  世の中のすべてに嫌悪の情を持っていたゆき子は、富岡をこの場所から、呪いつめてやりたい気もしてきた。おせいに敗北したことが、ゆき子には、自分が生き残っているだけに口惜しくもあったのだ。自分が死んでいたら、富岡は逆に、自分の死をいとしんでくれるだろう。(343)

ここで、唐突に富岡のことが思い出される。ゆき子の中でいつも富岡の存在が生きていた証である。目の前にいる伊庭の存在は消えている。伊庭は生活のために必要な男であるが、富岡はゆき子が生きるために必要な男なのである。ゆき子は死んでしまったおせいに敗北したことに、今でも悔しさを感じている。凄まじい嫉妬である。おせいは作品の中で、これほどゆに嫉妬されるほどの存在として描かれていなかったにも拘らずにである。

「だいぶやつれたじゃないか‥‥‥」
 「ええ、少しおいしいものでも食べて、ゆっくりしていれば、あなたみたいに肥って来るでしょう‥‥‥。女って。お金をかけてくれる人がなくちゃ、きれいにはならないもんなのね」
  伊庭はにやにや笑って、耳垢をほじくっていた。祈祷が済んだと見えて、太鼓が鳴りだした。すぐ、大津しもが、伊庭を呼びに来た。(343)

話をしているのは、伊庭とゆき子である。が、ゆき子は心ここにあらずの状態で、単に言葉を返しているに過ぎない。ゆき子の頭は富岡のことで占められている。もし伊庭が相手の心の動きに敏感な男であれば、ゆき子の〈思い〉の直中に矢を射るだろう。そこで初めて本来的な会話が成立する。『浮雲』には批評家が登場してこないので、ゆき子の欺瞞、それはすでに秘中の秘の次元にまで達しているが、その欺瞞を鋭く突くことがなされないままに展開していく。伊庭がゆき子の内部世界に参入するためには、ムイシュキンの憐憫(сострадание)、ロゴージンの激情(страсть)を必要とするが、生温き男伊庭は見事にそういった要素を欠いている。

尤も、ゆき子のような女は冷たいか熱いかどちらかであるような神に愛されるような男が好きなわけではない。富岡はどこから見ても〈生温き男〉だし、伊庭も富岡と五十歩百歩の〈生温き男〉である。ナスターシャ・フィリッポヴナはムイシュキンの憐憫を、ロゴージンの熱情をそそる絶世の美女であり、気紛れでファナティックな女であったが、ゆき子はまずそういった要素に欠けている。いわばゆき子は突出した美女ではないし、精神的な地獄を味わっていた女ではない。いったいゆき子は伊庭の強姦に真実、屈辱を感じていただろうか。ゆき子が伊庭に体を許していたのは〈暗黙の契約〉のためだったし、三年間も肉の関係を続けていれば、それなりに愛着も覚えていただろう。それに伊庭とゆき子は真佐子に対しては裏切りの共犯者である。ゆき子にとって伊庭が最初の男であったかどうかもかなり怪しいし、第一、作者は、伊庭に犯されるまで、ゆき子が処女であったなどとは一言も書いていない。家に来て一週間目にゆき子を強姦する伊庭もそうとう調子のいい男だが、伊庭の妻真佐子にばれずに三年間もそういった関係を続けたゆき子もそうとうしたたかで狡い女である。要するに、伊庭とゆき子は似たり寄ったりの人間で、二人の関係は、誰がいいとか悪いとかいった問題の網には引っかかってこないのである。
 ナスターシャ・フィリッポヴナとトーツキイの関係に、ゆき子と伊庭の関係を重ねて見ると、ナスターシャの悲憤に高尚な意味など付けたくても付けられないということになる。ナスターシャはただうるさいだけのファナティックな女として片づけられてしまうことになる。単純に考えれば、ナスターシャの悲憤は、四年間も肉体関係を結んでいたトーツキイが、彼女には内緒でエバンチン将軍の長女アレクサンドラと結婚しようとしていたことにある。トーツキイのそういった行動を裏切りと見なして、徹底的に復讐しようとしたのであれば、それはそれでいい。問題はナスターシャがトーツキイをきっぱりと切り捨てられなかったことにある。トーツキイの〈妾〉であることから、きっぱりと足を洗って、自分独自の生活に飛び込んでいったらいいのである。しかし、ナスターシャが選んだ道は、復讐する相手から経済的援助を受ける生活であった。七歳の時からトーツキイの庇護下に育ったナスターシャは、誰からの援助もなく独立した生活を営むことができない。口では〈街の女〉〈あばずれ女〉などと自分を揶揄してみせても、所詮は軽蔑している男の世話になって生きていかざるを得ない。
 ゆき子が惚れた男は富岡兼吾で、決して伊庭杉夫ではないが、しかし富岡との関係がにっちもさっちもいかなくなれば、伊庭の金を頼って身を任せることも厭わないのである。伊庭だけではない。ゆき子は若い外国人兵士ジョーにも身を任せている。作者はいちいち書いていないが、ゆき子がジョー以外の外人兵士相手に淫売稼業していたことも否定できない。富岡兼吾の後輩・加野久次郎ともなんらかの関係があったかもしれない。そうでなければ加野が殺傷事件を起こすこともなかったであろう。いずれにせよ、『浮雲』においてはゆき子が複数の男たちと肉体関係を結んだことは明白だが、〈街の女〉ナスターシャ・フィリッポヴナとなると、その男関係がすべて霧の中である。明らかなことは、十六歳から二十歳までの四年間、慰めの村でトーツキイと毎年夏の二ヶ月間、肉体関係を結んでいたことだけで、しかもその実態は何ら描かれていない。二人の肉体関係の具体的な場面が描かれていないことは、小説としては致命的ではないかと思うが、ないものねだりをしても仕方がないので、そういった点に関してはこちらが想像力を発揮して補うしかあるまい。それにしても描かれた限りで見れば、まさかトーツキイの眼前に全く新しい女として現れたナスターシャが、ペテルブルグでも肉体関係を続けていたとは思えないし、他の男と関係していたとは思えない。婚約者ガーニャともそういった関係にあったとは思えない。ただ一人だけ、ロゴージンはその可能性があるが、作者はナスターシャとロゴージンの濡れ場を描くことはしなかったし、明確にそういった関係があったとも記していない。
 ナスターシャ・フィリッポヴナはムイシュキンの憐憫によっても、ロゴージンの激情によっても、トーツキイの経済的庇護によっても救われなかった。彼女は畢竟、ロゴージンによって殺される運命を生ききる他はなかった。憐憫も激情も届かぬ虚無を抱えていたのだろうか。
 ゆき子に戻ろう。ゆき子はいったい何を求めていたのか。ゆき子が富岡兼吾を求めていることは明らかだ。問題は富岡兼吾の何を求めていたのか、ということだ。『浮雲』の読者、特に男の読者で富岡兼吾の魅力を理解できる者がいるのだろうか。描かれた限りで見れば、ゆき子は富岡兼吾との肉体的悦楽を求めていたとしか言えない。富岡兼吾の魅力を論理の次元で説明することはできない。ゆき子は論理ではなく生理で富岡に牽かれている。富岡の体、顔、その容貌から体臭、仕草、そして彼のつく嘘にまで牽かれてしまうということだ。男と女の相性にまで論理が立ち入ることはできない。