清水正の『浮雲』放浪記(連載87)

清水正への原稿・講演依頼、D文学研究会発行の本購読希望者はqqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。 ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
清水正の著作   D文学研究会発行本   グッドプロフェッサー
清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載87)

平成□年2月13日

  上着をぬいで、肩に引っかけて、ぞろりぞろりと靴を引きずっていた。
 「くたびれてるンでしょう?」
 「いや、水虫ができて、痛いンだよ」
 「でも、やっぱり、二人で歩いていると、何だか、肉親みたいね。あなた、心のうちでは、私のことよりも、おせいさんでいっぱいなンでしょうけど、私ね、私が勝手に、あなたのことを肉親らしく考えるのは自由ね。笑う?」
 「笑うもンか……。おせいのことよりも、おせいの亭主にすまない気がして、毎日が罪人みたいにきっぷせな生活なンだぜ。意気地がないくせに、おせいの強さに引っぱり込まれて行くンだ」
 「おせいさんと、いまに心中でもするようになるンじゃない? もしものことがあれば、あのひと、毒でものみかねないから……」
  富岡もそう思った。ゆき子に言いあてられたような気がした。おせいのために、自分の生活が、一日一日だめになってゆくのがよく判っているのだ。(318〈三十九〉)

上着を肩にかけて、暗い夜道を靴を引きずって歩く富岡の姿は、まさに生きることに疲労しきった男の姿を端的に晒している。〈ぞろりぞろり〉の擬音語による形容も富岡のみじめで哀れな疲労困憊した実存を赤裸々に表している。富岡はゆき子の前を歩いているのではない。ゆき子の後を、行き場所を失った、傷つき飢えた野良犬のようにして、足を引きずりながら歩いているのである。思い出すのは〈二十二〉章である。富岡はゆき子に速達を出して四谷見付の駅で待ち合わせる。指定した時間に来ないゆき子を不安と焦燥で待ち続ける富岡の眼差しがとらえた一場面を再び引用しておこう。

  富岡は、靴のさきを、ばたばたと貧乏ゆるぎさせながら、坂になった道を見上げていた。鉛色の光った坂道を、濡れ鼡になった雑種の犬が、よろめきながら、誰かを探し求めるように歩きまわっている。(251〈二十二〉)

 この時、ゆき子は三十分遅れで四谷見付駅にやってくる。すでにゆき子は大陸的な豊穣さを備えた優しい若い兵士ジョオと関係を結んで、新たな生活に踏み出していたにもかかわらず、富岡の誘いの手紙に応じてしまった。ゆき子の女としてのどうしようもない性がそうさせたのだとは言い切れないものをわたしは感じた。そこには小説の必然性を故意に逸脱させる作者の側の都合を感じないわけにはいかなかった。一つは当初の予定枚数を越えた長編になったこと、多くの男性を登場させてゆき子の恋愛遍歴物語を書くことよりも、富岡とゆき子の腐れ縁を延々と続けることの方に作者が魅力を覚えたことなどがあげられる。作者芙美子自身が富岡兼吾のようなダンディでクールな美男子が好みであったのだろう。そうとしか思えないほど、ゆき子と富岡の腐れ縁は、その関係性の明白な破綻にもかかわらず続行された。もともと自殺などという意志的な行為を実行できない富岡に、伊香保でゆき子と心中させるなどという設定そのものが、子供だましの設定で、これはすぐに撤回された。
 富岡とゆき子の関係に幕をおろす絶好の機を逃した作者は、以後、人物の新たな関係の芽を次々に自ら摘んでいくことになる。富岡とおせいの関係もその一つである。ゆき子とジョオの関係、富岡とおせいのリアルな関係を詳細に描けば、富岡とゆき子の男と女の泥沼の腐れ縁は自然消滅するほかはない。逆に、富岡とゆき子の関係の継続にこだわれば、ジョオとおせいを小説の舞台から抹殺するしかない。ジョオなどはあまりにも不自然なかたちで舞台から一方的に追放されてしまった。もしゆき子がジョオとの生活に踏み切れば、敗戦国日本と先勝国アメリカの両国をまたにかけた壮大なドラマが構築された可能性もある。しかし、見ての通り、ゆき子は大陸的な豊穣さを備えたジョオを捨てて、うす汚れたぼろ手ぬぐいのような富岡を選んでしまった。この場面では、富岡は野良犬のようにゆき子の後についていくが、伊香保での場面を想起すれば、ゆき子はすでに過去の女、若いおせいは富岡の〈再生〉を可能にするかもしれない新しい女として描かれていたはずである。もし作者が、富岡とおせいの関係を丁寧に描いていれば、読者のおせいに対するイメージもずいぶんと違ったものになったであろう。否、ゆき子が眼にしたおせいの部屋の光景は、富岡とおせいの親密な関係を端的に示していた。にもかかわらず、なぜこの場面ではおせいを舞台から退場させ、もはや破綻が確実な富岡とゆき子のふたりだけにして話を進めていくのだろうか。