清水正の『浮雲』放浪記(連載193)

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清水正の『浮雲』放浪記(連載193)
平成A年9月6日 

ここで林芙美子が書いていることに、内心の声が「そのとおり」と共鳴する。この共鳴がなければ何年にもわたって『浮雲』論を展開できるわけもない。「作家と云うものは、どんなに意気込んで立派なことを云ってみたところで、作品自身が芸術でなければ何もならないのです」このことは小説家に限ったことではない。音楽も美術も、そして映画も同じである。成瀬巳喜男は「意気込んで立派なこと」を言っているわけではないが、しかし彼の監督した映画作品が林芙美子の言う〈芸術〉でなかったことは言うまでもない。林芙美子は「芸術と云うものは、作家が永久に尋ねあてゝゆかなければならないもの」と言っている。芸術家には、作品製作上のいかなる妥協もあってはならない。観客動員数や予算を考慮して製作する者に、「永久に尋ねあて」ていくものははてしなく遠ざかる。〈面白い小説〉〈面白い映画〉などを目標にしている者たちを〈芸術家〉と言うわけにはいかない。まさに林芙美子の言う通り、小説は工夫や技術ではないし、そんなものを駆使して創作するものではない。芸術家としての思想も哲学もない者が、工夫と技術でなしたものは〈読みもの〉であり、一過性の娯楽作品の域を越えるものではない。林芙美子のこの厳しい小説観を、成瀬巳喜男の映画作品に適用すればどうなるか。林芙美子の作品を成瀬映画は一歩も深めていないばかりか、製作会社や観客の水準に迎合して、きれいに完結させているとしか思えない。成瀬映画を見ていると美人女優しか主役は張れないのかとつくづく思ってしまう。成瀬巳喜男林芙美子の文学を読み込んでいれば、『浮雲』の幸田幸子に高峰秀子を、おせいに岡田茉莉子をキャスティングすることはあり得ない。『放浪記』に高峰秀子を起用することもありえない。高峰秀子のメークは不自然だし、自然性がない。美女が意識的にブスを装っているその意識が興ざめである。未完の小説『めし』も、成瀬流のきれいなまとめ方で幕をおろしている。まさに林芙美子の虚無も諦念も、甘い薄皮で覆われてしまっている。そんなお上品な、一見高級そうに見えるお菓子の類とはまったく無縁なのが林芙美子の作品である。「私のような作家もとにかく生れたけれど、私は一度も面白い小説を書こうなぞ思った事はありません」と林芙美子は言い切っている。まさに『浮雲』は〈面白い小説〉などを目指して書かれたものではない。なぜ、わたしがこれほど『浮雲』にこだわり続けるのか。それはこの作品が、林芙美子が真摯に、真剣に、それこそ命がけで書き上げた小説だからである。十七歳のドストエフスキーは「人間は神秘であり、その神秘を解き明かすために、一生を費やしたとしても、決して時を空費したとは言えない」と兄のミハイルに宛てて書き送った。またドストエフスキーはホフマンの作品に関して「神という玩具を弄んで」云々と書いている。ドストエフスキーがその生涯を通じて問い続けたのは神の存在である。神は存在するのかしないのか。『カラマーゾフの兄弟』の主人公アリョーシャは、父フョードルに訊かれて「神は存在します」と答える。次兄イワンは、たとえ神の存在を認めても、神が創造したこの地上の世界を認める訳にはいかないと言う。なぜなら、地上の世界は不条理に充ちているから、と。林芙美子の文学において、神の存在が真っ正面から取り上げられたことはない。富岡兼吾はドストエフスキーの『悪霊』を読んで、自らの醜悪な側面をニコライ・スタヴローギンのそれに重ねることはあっても、決して神の存在を問うことはなかったし、ましてや神に抗議することもなかった。林芙美子の文学には、要するにドストエフスキー文学の一特徴である〈議論〉がない。グロテスクなまでに延々と続く〈議論〉がない。大日向教の幹部に収まった伊庭杉夫と、ニコライ・スタヴローギンの虚無を自分なりに抱え持った富岡兼吾が直接会って〈議論〉すれば、彼ら二人の内的世界もより鮮明に浮上したはずだが、林芙美子はそういった〈議論〉場面を設定することはなかった。
 「小説が面白いものだけの興味ならば、何も哲学はいらないでしょうし、思想だの、宗教だの、学問だのと人間が、こうしたわずらわしい学問の釦をはめようと焦る必要もないだろうと思います」と林芙美子は書いている。林芙美子は〈哲学〉〈思想〉〈宗教〉の重要性を深く自覚していた小説家であるが、こうした〈わずらわしい学問の釦〉を焦ってはめようとしたことはなかった。富岡兼吾の読んだ『悪霊』は、別に何の注釈もコメントもなく、作中に無造作に放り投げられている。富岡兼吾は漆に関する論文は書いても、〈ニコライ・スタヴローギンの告白〉のようなものは書かない。要するに富岡兼吾は『悪霊』を媒介にして内的対話を展開するような人物として設定されていない。
 『浮雲』は戦前、戦中、戦後が舞台となっていながら、富岡兼吾も幸田幸子も〈戦争〉を問うことをしない。「おいしい紅茶が飲めれば、世界なんぞ滅びてもかまいやしない」これはドストエフスキーの〈地下室人〉の発した言葉だが、富岡とゆき子もまた、それに匹敵するような境地を生きている。特にゆき子にとって富岡兼吾は世界以上の存在になっている。富岡兼吾さえ傍にいれば、世界なんぞ滅びてしまってもかまわない、まさにこんな感じでゆき子は生きている。