清水正の『浮雲』放浪記(連載144)

清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

清水正の講義・対談・鼎談・講演がユーチューブ【清水正チャンネル】https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8Bで見れます。是非ご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=LnXi3pv3oh4


批評家清水正の『ドストエフスキー論全集』完遂に向けて
清水正VS中村文昭〈ネジ式螺旋〉対談 ドストエフスキーin21世紀(全12回)。
ドストエフスキートルストイチェーホフ宮沢賢治暗黒舞踏、キリスト、母性などを巡って詩人と批評家が縦横無尽に語り尽くした世紀の対談。
https://www.youtube.com/watch?v=LnXi3pv3oh4

https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8B 清水正チャンネル
https://youtu.be/KqOcdfu3ldI ドストエフスキーの『罪と罰
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp 『ドラえもん』とつげ義春の『チーコ』
https://youtu.be/s1FZuQ_1-v4 畑中純の魅力
https://www.youtube.com/watch?v=GdMbou5qjf4罪と罰』とペテルブルク(1)

https://www.youtube.com/watch?v=29HLtkMxsuU 『罪と罰』とペテルブルク(2)
https://www.youtube.com/watch?v=Mp4x3yatAYQ 林芙美子の『浮雲』とドストエフスキーの『悪霊』を語る
https://www.youtube.com/watch?v=Z0YrGaLIVMQ 宮沢賢治オツベルと象』を語る
https://www.youtube.com/watch?v=0yMAJnOP9Ys D文学研究会主催・第1回清水正講演会「『ドラえもん』から『オイディプス王』へードストエフスキー文学と関連付けてー」【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=iSDfadm-FtQ 清水正・此経啓助・山崎行太郎小林秀雄ドストエフスキー(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=QWrGsU9GUwI  宮沢賢治『まなづるとダァリヤ』(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=VBM9dGFjUEE 林芙美子浮雲」とドストエフスキー「悪霊」を巡って(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=S9IRnfeZR3U 〇(まる)型ロボット漫画の系譜―タンク・タンクロー、丸出だめ夫ドラえもんを巡って(1)【清水正チャンネル】


清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』清水正への原稿・講演依頼は  http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html

ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

デヴィ夫人のブログで取り上げられています。ぜひご覧ください。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-12055568875.html

清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。



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 清水正の『浮雲』放浪記(連載144)
 平成◎年11月9日




ゆき子はソーニャにもなれないし、ダーリヤにもなれない。第一の原因は、富岡がロジオン・ロマーノヴィチでもなければ、ニコライ・スタヴローギンでもないからである。富岡は〈踏み越え〉のドラマを演じる男とは縁遠い男だし、ニコライのように神に成り代わって少女を凌辱することもない。富岡が関係した女はすべて合意の上で性的関係を結んでいる。邦子、ニウ、ゆき子、おせい……の誰一人として富岡を嫌っていたわけではない。彼女たちは富岡の魅力に落ちた女たちであり、富岡がほかの女と関係を持っても、嫉妬はしても憎みきることはできなかった。富岡は女に欲情すると、その欲情を理性や分別で押さえることをせず、その場の流れに身をまかせてしまう。要するに、女好きの男で、それ以上でも以下でもない。彼がドストエフスキーの『悪霊』を読んでいたとはいっても、別にドストエフスキーに影響されていたというわけではない。富岡にとってドストエフスキーの作品は、彼がはめていたオメガの腕時計のようなもので、一種の高級アクセサリーの域を一歩も出ていない。富岡は一人勝手にニコライ・スタヴローギンの虚無を自分のそれに重ねているところもあるが、両者のそれはまったく別種のものである。不断に神の意識に呪われているニコライと、あらかじめ神の口から吐き出されてしまっている生温き者・富岡を同一次元で重ねてみることはできない。

 「ねえ、ダラットのあのテニスコートの、中国人の別荘の庭を覚えている?」
 「ああ」
  富岡は、ダラットだとか、中国人の別荘だとかは、いまどうでもよくなっていた。覚えているならば、その後はあなたが語ってくれと言わぬばかりのゆき子の甘さが、富岡には不快でもあった。そんな昔の夢はどうでもいいのだ。そんな夢にすがってなんかいられるものか……。それよりも、おせいのがっちりとした、大きな肉体への思慕で、富岡はふうっと溜息をついた。
  おせいによって、初めて、本当の女を知ったような気がして、富岡は眼尻に涙のつたうのをおぼえた。
  そっと、胸の上にゆき子の手が這って来たのを、富岡は掴んでもとへ戻した。
 「あら、どうしたの? いけない?」
 「うん、今夜は疲れたンだ。ぐっすり眠りたい……」
  ゆき子は手を引っこめて、しばらく息をのんで黙っていた。富岡の気持ちの変化を察したようだったが、まさか、おせいのことを深く考え耽っているとは思わなかった。
 「ねえ、南の話をしましょう……。こんな晩は、何だか、私すぐ眠れないのよ」
 「俺は眠いンだよ」
 「久しぶりに逢って、どうして、そんなに冷いのかしら……。もっと優しいひとじゃなかったの……」
  ゆき子は、もう一度、富岡の胸にとりすがってかきくどいてみた。富岡は、何かで読んだ、ワイルドの葡萄酒の醸造量と質とを知るには、なにも、一樽あけてみる必要はないのだという言葉を想い出している。むし返しはたくさんである。いまのところ、おせい以外の躯を求める気はしなかった。咽喉は乾いてはいないのだ。富岡はいつの間にかぐっすりと眠りこんでいた。(337〜338〈四十四〉)

 ここまで同じことを繰り返し描写されると、思わず笑ってしまう。ゆき子と富岡は最初に接吻を交わした時から、お互いの思いに温度差があったわけだが、ゆき子はそれをどんなことがあっても認めまいと心に決めて富岡との関係を続けて来た。ゆき子のその姿勢は死ぬまで変わることはなかった。富岡は、ニウからの逃亡には成功したが、ゆき子からの逃亡には失敗し続けている。ここまで失敗が続くと、富岡のゆき子からの逃亡は逆に本人が気づかなかった希求ではなかったのかとさえ思えるほどである。
 
 林芙美子は『浮雲』という小説を書いているのではない。小説的完結性にこだわるのであれば、すでに『浮雲』は完結している。ゆき子がジョオと関係を結んだ時点でこの小説は完結しているのである。林芙美子の野心は〈小説〉を超えてしまった。〈小説〉の約束事を超えた領域に林芙美子は踏み込んでしまった。小説的体裁などもはやどうでもいいのだ。わたしに言わせればあたりまえのことだ。小説を書いて社会的な評価を得たいとか、有名になりたいとか、余りにも俗世的な欲望に支配されている有象無象の小説家や小説家志望の連中は五万といるだろうが、林芙美子は『浮雲』でそういった俗世的欲望からはっきりと離れたのだ。もし林芙美子が『浮雲』を小説として完結させようとすれば、いくらでもスマートに簡潔に処理できたであろう。林芙美子はそれができなかった。ゆき子、それは林芙美子の核心部に生々しく生きている女であるが、この女が小説の枠組の中で生き、そして死ぬことに同意しないのである。ゆき子は何度でも完結の幕をまくり上げて舞台に登場してくるのだ。
 今、わたしは『放浪記』の舞台公演に命を賭けた森光子のことを想い出す。わたしが観た舞台『放浪記』を主演した森光子は当時八十九歳であった。四十七歳で死んだ林芙美子を八十九歳の森光子が演じている。わたしはまずそのことに戦慄を覚えた。森光子に尋常な意見を述べても意味がない。というのは、森光子は一日も早く引退して若い有望な女優に林芙美子役をゆずるべきだという意見を耳にしたからである。わたしは、それを聞いたとき、一瞬耳を疑った。あんなすばらしい戦慄の舞台を二千回以上にわたって熱演している森光子にそのような思いを抱いているひとがいることに驚いたのである。このことを口にしたひとは、森光子の舞台を観ていない。なんかくだらない週刊誌次元でわかったようなことを言っているだけのことなのだが、わたしはかなり不愉快な気分になった。森光子が林芙美子の生涯の倍近くの年齢になってすら、なぜ『放浪記』にこだわったのか、が問題である。芙美子役に執着して、後輩の役者に譲る謙虚さがないなど、いろいろ陰口もあったらしいが、わたしの率直な意見を述べれば、森光子の演技に不満を持つ者があれば、そのひとが命がけで森光子から芙美子役を奪えばいいことであろう。それができなければ何を言っても負け犬の遠吠えでしかないのである。今、わたしは『放浪記』を手放さなかった森光子と、どんなことがあっても富岡兼吾を追い続けた甲田ゆき子が重なる。