清水正の『浮雲』放浪記(連載115)

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https://youtu.be/KqOcdfu3ldI ドストエフスキーの『罪と罰
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp 『ドラえもん』とつげ義春の『チーコ』
https://youtu.be/s1FZuQ_1-v4 畑中純の魅力

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デヴィ夫人のブログで取り上げられています。ぜひご覧ください。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-12055568875.html

清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。



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 清水正の『浮雲』放浪記(連載115)
平成□年8月4日

  ゆき子と情死行で伊香保に行き、情死を実行するまぎわまでも、この世の中に恋々と未練を持ち、偶然に行きあったおせいに、自分の生命の再生を求めた浅ましさが、いまになって罪もないおせいを殺し、清吉を獄に送る羽目になったことについて、富岡は、自分自身のずるさに、冷やりとするものを感じている。ゆき子の逢いたいという手紙にも、いまさら富岡は動じなかったし、ゆき子が子供をおろしてしまったことにも何の苦しさも感じなかった。自分はもう、日本へ戻って来た時に、自分の心をすべて失ってしまっているとしか思えなかった。(328〈四十二〉)太字引用者

 わたしは『浮雲』における〈おせい殺し〉や〈死者への贖い〉という設定には少しもリアリティを感じないが、だからと言ってこの小説を否定しているのではない。ここに引用した叙述場面などは陳腐な設定を超えたリアリティを感じる。おせいに再生を求めた〈浅ましさ〉や〈自分自身のずるさ〉を富岡はここで率直に認めている。
しかし同時にこの文章には前半と後半の間に断絶も感じる。わたしが敢えて太字にした文章は、明らかに前の文章の調子とは違っている。この世の生に未練を持ち、おせいに再生の夢をかけたばかりに、結果として向井清吉をおせい殺しの下手人に仕立てあげてしまったことの〈浅ましさ〉や〈ずるさ〉に〈ひやりとするもの〉を感じている富岡と、ゆき子の逢いたいという手紙にも、子供をおろしてしまったということに関しても何も感じなかったという富岡は明らかに違う。これは単なる富岡兼吾という男の内的分裂を語っているばかりではなく、作者林芙美子の富岡に対する迷いの端的な反映と見ることができる。
 殺されたおせいや殺した向井清吉に良心の呵責を感じ、〈贖罪〉の意識に駆られて苦しむ富岡兼吾像を徹底的に追及するというのであれば、当然のこととして富岡は妻邦子に対しても、安南人の女中ニウに対しても、ゆき子に対しても〈贖罪〉の意識を持たなければならない。おせいや清吉に対してだけ〈贖罪〉の意識が働くというのでは説得力がない。もともと富岡は〈罪〉意識など持たない格好付けのニヒリストであるから、神を試みるニコライ・スタヴローギンのそれとは前提が全く異なっている。富岡兼吾による〈おせい殺し〉(実際の殺人者は向井清吉)を、ニコライ・スタヴローギンによる〈マトリョーシャ殺し〉(実際は首吊り自殺)に重ねるためには、唯一神の真意を問うヨブの烈しい悲憤とドストエフスキーの不信と懐疑を富岡兼吾に賦与しなければならない。林芙美子はその不可能を深く感じたであろう。林芙美子に可能なことは、熱くもなく冷たくもない、神の口から吐き出されるしかない生温き存在としてのろくでなし、富岡兼吾の虚無の実態を描きだすことであった。
 作者は富岡の虚無を「自分はもう、日本へ戻って来た時に、自分の心をすべて失ってしまっているとしか思えなかった」と書いている。この言葉をどのように受け止めたらいいのか。富岡はダラットにいる時から日本の敗戦を認めていた。加野は日本の勝利を頑なに信じていたが、富岡には加野に見られたような一途な思いこみは微塵もなかった。富岡は冷徹に日本が戦争に負けることを確信していたと言ってもいい。にもかかわらず、日本へ引き揚げてきて廃墟と化した故郷に降り立ったとき、富岡は躯全体で敗戦の現実を、今までの価値観を根底から覆された寒々とした虚無の現実を感じたのかも知れない。
自分の心をすべて失ってしまった人間が、いったいどのように生きていけばいいのか。ゆき子という女が執拗に追いかけでもしなければ、富岡という男はとうに燃え尽きた灰のような存在でしかなかったろう。富岡は邦子やゆき子との関係を精算できないままに、伊香保で偶然出会ったおせいに自らの再生を期待してしまうような甘さを温存しているが、自らの甘さを自覚できなかったわけではない。
罪と罰』のマルメラードフは地下の居酒屋でロジオン相手にあてのできない借金の話をする。ロジオンは問う、なぜ貸してくれない男のところにわざわざ出かけていくのか、と。マルメラードフは応える。人間はどこかへ出かけなければならない、そういう時があるのだ、と。この言葉を富岡に適用すれば、相手の女が絶対に自らの再生につながらないことが分かっていても、それでも男は女に救いを求めずにはいられないのだ、ということになろう。尤も、富岡は女に形而上学的な、宗教的な次元での救いや再生を求めているわけではない。ゆき子やおせいが自らの肉の欲求に素直であったように、富岡もまた肉欲を否定することはない。富岡にとって〈愛慾〉の炎は、虚無の風によって吹き消されることはなかった。