清水正の『浮雲』放浪記(連載98)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。




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 清水正の『浮雲』放浪記(連載98)
平成□年5月21日

〈四十一〉を読む

  いよいよ今日は退院という日に、ゆき子は医局に金を払い、待合室で何気なく新聞を見た。ふっと眼にはいった小さい記事があった。
  十二日、午後十時四十分ごろ、品川区北品川××番地、飯倉方もと飲食店主向井清吉(四八)は自分の部屋に内縁の妻、谷せい子(二十一)を呼びよせて、手拭で絞殺。品川台場派出所に自首して出た。ーー品川署の調べによれば、向井は伊香保温泉で酒場をやっている時、せい子と同棲。せい子は情夫富岡某を頼って上京中、あとより向井が呼び戻しに行ったが、せい子が復縁を拒絶した為、十二日風呂へ行くせい子を強迫して、自分の部屋へ連れ込み、またも復縁をせまって口論となり、かっとなって、手拭でせい子を絞殺し、自首して出たもの。写真は加害者の向井と被害者のせい子。
  幾度読み返しても、せい子の事であった。殺されたせい子が、日本髪を結っている。加害者の向井は、うなだれて写っていた。(322〜323〈四十一〉)

 ゆき子が退院の日に、たまたま眼にした新聞に向井清吉がおせいを絞殺した記事が載っている。この〈偶然〉をどのように見るか。はっきり言って取って付けたような〈偶然〉で、この設定に人生上の必然性を感じることはできない。前にも指摘したが、この設定は作者がゆき子と富岡の〈腐れ縁〉の続行のために、向井清吉がおせいを殺してしまったのだと見るほかはない。清吉が犯した殺人に読者が必然性を感じるためには、彼ら両人の内的な思いを丁寧に描く必要がある。
 作者芙美子はゆき子と別れた富岡とおせいの関係を書こうとしたが、この案を全うすることができなかった。ゆき子がおとなしく引き下がってくれなかった。ゆき子と富岡の〈腐れ縁〉はおせいの登場によって解消しなかった。前に指摘した通り、おせいはゆき子を肉体的に若くしただけの女でゆき子を越えた存在ではなかった。ゆき子と違ったタイプは妻の邦子であるが、この忍耐強い女と富岡の関係に関して作者はたいした興味を抱いていなかったのか、『浮雲』においておざなりに扱われている。富岡と邦子、富岡とニウ、富岡とおせいの関係を丁寧に描くことは、富岡とゆき子の関係を希薄なものにしかねない。作者は、そんな危険を犯してまで、富岡とゆき子以外の女たちとの関係を描く必要はないと考えたに違いない。
作者が感情移入できる女はゆき子をおいてほかにはいない。邪魔者は殺せとばかりに、おせいは向井清吉によって絞殺されてしまう。この設定は何度読み返しても説得力がない。こんな安易な設定をするくらいなら、おせいを行方不明にでもしておいた方がまだましである。さらにいけないのは、ゆき子が退院するその日に、おせい殺害事件の新聞記事を眼にしたことである。こういった〈偶然〉を設定することは大衆小説やメロドラマの常套であって、読者をそうとう低い位置に置かない限りは気恥ずかしくてできないことである。こういった安易な設定はいわば作者の敗北宣言のようなもので、批評する者としてはきわめて残念である。
 富岡がゆき子を伊香保に誘って死のうとした、その設定も陳腐であったが、おせい殺害事件もそれに劣らぬ陳腐さである。この事件が必然性のないものであるために、おせいを殺した向井清吉と富岡のその後の関係も嘘の上塗り状態でとても身を入れて読めたものではない。おせいに逃げられた向井は伊香保のバーで、富岡から買った高級腕時計をつくづく眺めながら深いため息をしているような情けない状態に据え置いておいた方がはるかにリアリティがある。おせいも、富岡なんぞは東京に出てくる一つの口実のような男と見なして、さっさと若い男に鞍替えするような逞しい女に設定した方がいい。富岡のようなロクデナシをどこまでも追っていくのがゆき子であるなら、このロクデナシに唾を吐きつけて去っていくような女も描かなければならない。そのことで富岡の〈ロクデナシ〉のロクデナサが際だつことにもなる。おせいは殺され、妻の邦子は病死というのでは、あまりにも安易で都合のいい設定ということになる。
 なぜ、こんな陳腐な設定を繰り返してまで『浮雲』を書き続けたのか。そこにまなざしを注げばこそ、わたしの『浮雲』批評も執拗に続行されることになる。