清水正の『浮雲』放浪記(連載99)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。




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 清水正の『浮雲』放浪記(連載99)
平成□年5月23日

 ゆき子は、しばらく、固い椅子に腰をかけて、その新聞の記事を、幾度も読み返していた。あの片意地なほど、性格の強いせい子は、とうとうおせいの良人に絞殺されたのかと、不思議な因縁を感じた。
 富岡にはいいみせしめだとも思えたし、三宿の家を尋ねた時のあの富岡の複雑な表情も、ゆき子には判るような気がした。いまごろ富岡はどうしているだろう。あの時、自分がもしも富岡に殺意を持っていたら、自分もあとを追って、ガードの上から電車をめがけて飛び降りて死んでいたかもしれないのだ。
  富岡は、これからさきも、おせいの幻影から脱けきれない男であろうと、ゆき子は、思えた。日本へ戻って来て、すっかりだめになったのは、富岡一人ではないのかもしれない。加野もまた、いわば落ちぶれきった人間になっているのだ。(323〈四十一〉)

 ゆき子は〈片意地なほど、性格の強いせい子〉が〈良人に絞殺〉されたことに〈不思議な因縁〉を感じて、その事件そのものは起こるべくして起きたのだと納得している。これは昨中人物としては当然の思いで、もしわたしのように事件そのものに疑問を持てば、小説展開に支障をもたらしかねないことになる。ゆき子は「富岡にはいいみせしめだ」とも考えるが、富岡には今更どんな〈みせしめ〉もない。わたしは富岡を追って逃げたおせいを絞殺する向井清吉に必然性を感じない。向井はおせいに関しても富岡に対しても鈍感過ぎる。鈍感な男は鈍感な男としての身の処し方がある。何事も運命と思って諦めた男がおせいに対してだけ殺人まで犯す情熱を持っていたとは考えられない。
 ゆき子はおせいの家で富岡と会った時に、追いかけて来た富岡に殺意を抱くほどの情熱を持ってはいなかった。富岡を殺すことも、後追い自殺することもできず、ゆき子が選んだ道はとりあえず子供を堕胎することであった。ゆき子はどんなに絶望的な状況に置かれても、死の方向へとなだれ込んでいくことはない。自分が生きていくために堕胎しなければならないと判断すれば、その判断に従うのである。ゆき子とニウの決定的な違いはここにある。安南人の女中ニウは日本人の富岡兼吾の子供を産み育てる決意をした女であり、ゆき子は厳密に言えば誰の子とも知れない子供を、富岡の子供として相手に認知させた上で堕胎することを決意した女である。
 富岡は邦子を裏切り、愛人のニウを裏切り、ゆき子を裏切り、おせいを裏切った男である。富岡兼吾はさまざまな女にもてるという点においても、関わった女のすべてを不幸のどん底に落としこむという点においても、ニコライ・スタヴローギンの性格を十分に備えている。作者は「富岡は、これからも、おせいの幻影から脱けきれない男であろうと、ゆき子は、思えた」と書いている。
 『悪霊』を読んでいたのは、もちろん富岡兼吾だけではない。作者の林芙美子こそが『悪霊』を熟読している。日本の小説家、批評家でドストエフスキーの影響を受けなかった者はいないだろうが、その大半は男性である。小林秀雄坂口安吾横光利一森有正武者小路実篤志賀直哉唐木順三武田泰淳野間宏椎名麟三埴谷雄高など思いついたまま列記しても錚々たる物書きたちがドストエフスキーの影響のもとに小説や批評を書いている。彼らの何人かには独立したドストエフスキー論もあり、どのようにドストエフスキーを読んだのかが明確に分かる。
 女流小説家においてもドストエフスキーの影響を受けた者は少なくないだろうが、しかし女性小説家による独立したドストエフスキー論はない。わたしは『浮雲』を執拗に読み続けていくうちに、林芙美子こそはドストエフスキーの文学を血肉化した小説家であると確信するようになった。林芙美子は富岡を「おせいの幻影から脱けきれない男」と書いているが、もし富岡がおせいを直接殺したのは向井清吉だが、本当の犯人は自分自身だという罪の感覚に襲われて〈おせい〉の幻影に苦しめられるような事態に追い込まれれば、富岡はマトリョーシャを陵辱して自殺に追いやったニコライ・スタヴローギンの位置をそれなりに獲得することになる。ニコライはマトリョーシャの幻影に苦しめられ、これが良心の呵責といわれるものなのかと自問自答を繰り返すが、最後の最後まで〈神〉への信仰へと至ることができなかった。