清水正の『浮雲』放浪記(連載100)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。




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 清水正の『浮雲』放浪記(連載100)
平成□年5月24日

 「日本へ戻って来て、すっかり駄目になったのは、富岡一人ではないのかもしれない。加野もまた、いわば落ちぶれきった人間になっているのだ」と作者はゆき子の内心の思いに重ねて書いている。〈落ちぶれきった人間〉の反対側に立派な人間がいるのか。だとすれば、それはどういう人間なのか。戦前の、戦中の日本の男たちは立派であったのか。その立派さの根拠は何なのか。お国のために命を賭して戦うことが立派だったのか。戦前の、戦中の富岡兼吾のどこが立派だったのか。友人の妻であった邦子を奪って結婚し、軍属として派遣されたダラットでは安南人の女中ニウと情事に明け暮れ、タイピストとして山林事務所に配属された幸田ゆき子とも悦楽の日々を送っていた富岡のどこが〈立派〉なのであろうか。これは一人、日本の男子富岡兼吾に限ったことではない。ゆき子とて同罪である。ゆき子は富岡に妻のあることも知っていたし、ニウが愛人であることも知っていた、その上で富岡にアプローチして関係を結んだ。ダラットに派遣されるまでの東京での三年間は妻子のある伊庭杉夫と不倫の関係を結んでいたのであるから、本来、ゆき子が敗戦後の日本男子の落ちぶれぶりなど非難できる筋合いではない。
 林芙美子が描く人物に〈立派な人間〉などはいない。ドストエフスキーはあらゆる人間は〈卑劣漢=подлец〉だと言っている。人間をあるがままに描いて見れば、まこと人間は卑劣漢以外のなにものでもない。大津しもは小学校の教師でありながら身分のある妻子持ちの老人と関係して妊娠し堕胎している。ゆき子に欲情してしまった加野は嫉妬の激情に駆られて富岡を殺そうとしたが、富岡を身を挺してかばったゆき子を傷つけてしまった。まったく、誰を取り上げても卑劣漢ばかりである。むしろあっけらかんと宗教を金儲けの道具にしてはばからなかった伊庭の俗物ぶりに愛嬌を覚えるほどである。
 『浮雲』に戦争で人を殺した人間は登場しないが、戦場にあって人を何人も殺した人間が、平和時にあって人殺しは罪悪だと言われても真に納得することはできないだろう。向井清吉が戦地で人を殺した経験があるかどうかは知らないが、戦場での殺人は許されても、内縁の妻せい子を殺せば殺人罪に問われるのである。つまり何事も相対的であって、その事の善悪を判断する絶対的な根拠などというものはない。敗戦後の日本男子が落ちぶれはててしまったのは、それまで彼らの生を支えていた〈絶対〉として教育されていた価値基準が根底から奪われてしまったからにほかならない。