清水正の『浮雲』放浪記(連載101)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。




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 清水正の『浮雲』放浪記(連載101)
平成□年5月26日
 ゆき子はおせいが向井清吉に殺害された事件に対して、彼女自身の生の感情を吐露することはない。作者は「富岡にはいいみせしめだとも思えた」と書いている。〈みせしめ〉とは何だろう。みせしめとは罪に対する罰ではない。富岡に良心の仮借はない。富岡は戦前も戦中も戦後も〈良心〉に苦しんだ痕跡はない。〈良心〉が働いて初めて仮借の感情が立ち上がってくるが、富岡にはそもそも仮借に苦しむような良心がない。ゆき子の内部におせいにたいする嫉妬、憎悪、殺意が潜んでいたことは明らかで、彼女はおせいの死を心の底から悼む気持ちはない。富岡がおせいの死を〈みせしめ〉と深く感じて改心するなどということはない。そもそもゆき子に〈みせしめ〉とか〈改心〉とかを云々する資格はない。富岡がゆき子を捨てて妻の邦子と生活を再出発させたにしても、それを〈改心〉の結果と見ることはできない。向井清吉によるおせい殺しが〈みせしめ〉となるためには、富岡とおせいの生活のディティールを積み上げておかなければならなかったが、作者はあまりにもあっさりと片づけてしまった。〈おせいの死〉は〈ゆき子の死〉の場面において本格的に問われることになる。が、富岡の抱え込んだ虚無はおせいの死も、邦子の死も、そしてゆき子の死もなんなく呑み込んでしまう。
 ゆき子の富岡に対する執着は愛ではない。彼ら二人の延々と続く腐れ縁に〈愛〉などという美名をかぶせることはできない。富岡がおせいと暮らしている痕跡をまじまじと見つめても、しかし富岡を殺すほどの憎悪はたちあがってこない。「あの時、自分がもしも富岡に殺意を持っていたら、自分もあとを追って、ガードの上から電車をめがけて飛び降りて死んでいたかもしれないのだ」という思いが正直なところだ。富岡もゆき子も死によっては決着のつかないぬかるみの道を歩き始めてしまったのだ。