清水正の『浮雲』放浪記(連載102)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。




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 清水正の『浮雲』放浪記(連載102)
平成□年6月3日

 その夜、ゆき子は、久しぶりに自分の部屋に眠った。すっかり疲れ切っていたし、長い旅路を続けて、今日に到った自分を感じた。窓の下のとうもろこしのさやかな葉ずれの音や、蝉の音を聞きながら、ゆき子は、三宿の富岡の部屋のことを考えていた。
  昏々と眠りにはいりながらも、伊香保でのさまざまな思い出が夢になり、現になり、ゆき子は寝苦しく息がつまりそうだった。そのくせ、あの、いやな肉塊のどろどろした血のりが、ゆき子には、すべてを脱皮したようにも思えた。誰にも頼らず、誰にも逢わないで、これから自分だけの仕事をして、働きたいと思った。(323〈四十一〉)

堕胎した後のゆき子の気持ちに〈子〉を喪った悲しみはない。ゆき子は富岡と性愛的次元での執着はあるが、富岡の子供を産みたいという願望は希薄である。堕胎に関しては、富岡の子供であるという確信もなく、始末することが最も賢明という無意識の打算も働いた。久しぶりに自分の部屋に戻ったゆき子の耳に聞こえてくるのは〈窓の下のとうもろこしのさやかな葉ずれの音〉であり〈蝉の音〉である。静かな夜である。〈蝉の音〉とは夏の陽光を浴びてけたたましく鳴きつづけるその〈声〉ではない。昼の激しく熱い舞台を終えた役者の、楽屋裏でのため息のような微かにとどく〈音〉である。今、ゆき子はとうもろこしの葉ずれの音さえ聞く、静謐のうちにあって富岡のことに思いを寄せる。
 ゆき子の〈今〉を決定づけているのは富岡との関係である。悦楽の日々を送ったダラット、心中をもくろんだ富岡の後に付いていった伊香保、これらの地はゆき子の脳裏に深く刻印され、いつでも彼女の〈今〉に蘇ってきては激しく官能を揺さぶり、歓喜に震えたり、憎悪と復讐の怨念に苦しめられたりする。ゆき子はこの〈今〉を通過して、新たな人生に踏み出すことができない。作者は「あの、いやな肉塊のどろどろした血のりが、ゆき子には、すべてを脱皮したようにも思えた」と書くが、ゆき子は富岡との過去を〈肉塊〉と一緒に葬り去ることができない。ゆき子はその〈どろどろした血のり〉にまみれて生きて行くほかなかった。ゆき子は「誰にも頼らず、誰にも逢わないで、これから自分だけの仕事をして、働きたい」と思うが、今までゆき子の生き方を見てきた者に言わせれば、そのことがいかに困難であるかは明白である。ゆき子は〈タイピスト〉として自立しようとすれば、それは不可能ではなかったであろう。しかし、ゆき子は〈タイピスト〉として自立する前にジョオとの関係を優先するような女であった。敗戦当時、行き場を失った女たちは駐留軍の外人兵士相手の〈パンパン〉になることも厭わなかった。生きるということはきれいごとではすまない。外人兵士相手に娼婦となって生きることも〈生きる〉という一つの紛れもない現実の姿である。ゆき子は富岡ときっぱり別れて〈ジョオ〉と共に生きる選択肢もあったはずだが、富岡との腐れ縁から脱しきることができなかった。
 ゆき子が富岡と別れられないのは、作者林芙美子の意志と無関係ではない。言い換えれば、作者こそが富岡と別れることができないということである。作者は自分の作品に対して万能の立場に身をおくことができるから、ゆき子を本気で富岡との〈腐れ縁〉から脱出させようと思えば、できないことはない。作者はゆき子を大会社のタイピストとして自立させることもできるし、若いジョオとアメリカで暮らさせることもできる。要するにどんな設定も可能であるはずなのに、林芙美子はゆき子と富岡の〈腐れ縁〉から離れることができなかった。ここまで来ると、作者ですら自分の作品に対して決して万能でも自由でもないということになる。〈腐れ縁〉の泥沼に一番足をすくわれ、のたうち回っていたのが作者ということにもなる。
 林芙美子は小説家として経済的に自立していたが、その自立をゆき子には許さなかった。ゆき子は伊庭をはじめ、富岡やジョオなど、男に依存しなければ生きていけないような女として設定されており、ついにそこから脱することはできなかった。

  死んだおせいへ対しては、ゆき子は少しも同情は持てなかった。あのようないこじな生き方は、ゆき子の最も厭な型の生き方だったし、そうした女に溺れていった富岡の弱さも憎々しいのである。ーー日がたつにつれ、そしておせいが亭主に殺されたと知って以来ゆき子は、富岡や、死んだおせいに唾を吐ききかけてやりたい憎しみすら持った。(323〈四十一〉)

 ゆき子がおせいの〈いこじな生き方〉を最も厭な生き方と見なして嫌悪するのは、そこに自分自身の姿を認めるからにほかならない。おせいという田舎娘の野望や富岡にたいする執着は、誰が見てもゆき子のそれと寸分違わない。しかもおせいはゆき子にない若い肉体を持っている。ゆき子は富岡の〈精神〉よりも〈肉体〉に惹かれた。富岡もまたゆき子の〈精神〉よりも〈肉体〉に関わった。〈肉体〉が優先する男女関係にあって〈若さ〉は何より重要である。作者は男と女の関係に〈肉体〉が占める役割を決して軽視しない。林芙美子は〈肉体〉の前に、いかに〈精神〉が脆弱であるかをこそ冷徹に晒している。