清水正の『浮雲』放浪記(連載30)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載30)
平成△年6月26日
亭主の向井は鼾をたてて眠っている。向井は男と女のドラマに参入できない。まるで狸の置物のような存在として扱われている。またこの場におせいが登場しないことで、富岡とゆき子の〈二人〉の関係は曖昧なままに存続する。前にも指摘したが、林芙美子は『浮雲』において三角関係の修羅場を現在進行形の形では描かなかった。読者は、富岡と邦子と邦子の夫(富岡の友人小泉)の間にどのような葛藤がありいざこざがあったのか何一つ知らされない。加野が嫉妬と憎悪に駆られて富岡を襲った場面も回想の形でしか報告されない。三角関係の当事者三人が一同に集まって演ずる修羅場を作者は意図的に回避しているかのようである。
 富岡とゆき子が一緒に向井の家に戻って来たその場に、もしおせいが陣取っていれば、何か一悶着が起こるのは容易に想像できる。が、林芙美子はそういった事が面倒に発展する場面を設定しない。「二人は二人なりに、それぞれの思いで、おせいのいないことを気にしている」とは書いても、この時、おせいがどんな思いを抱いて、どこに身を潜ませていたのかを書き記すことはない。おせいは、鼾をかいて寝入っている向井(置き狸)よりも、はるかに〈不在の物〉扱いされている。不在の物を生きた生身の者として再生させるのは読者の想像力にかかっている。描かれざる者を、自らの世界へと甦生させることによって作品を重層的に再構築することもまた批評行為の醍醐味である。
 ゆき子が「冷えこんだ足を炬燵に入れて、明日、東京で富岡と別れてからの生活を考えていた」時に、冷えた酒を飲み干した富岡はいったい何を考えていたのであろう。ゆき子と別れ、おせいと東京で同棲することでも考えていたのであろうか。この場に姿を見せなかったおせいが、富岡との新たな関係を想像していたことは確かであろう。ゆき子が富岡と別れた後の生活を考えている時、今、離ればなれに存在する富岡とおせいは東京で一緒に暮らす空想に浸っている。鼾の亭主とおせいの間には、もはや取り返しのつかない溝が深く掘られてしまった。自分たちの狭い住処へ、富岡とゆき子を引っ張り込んでしまった向井清吉の甘い人間認識のつけは余りにも大きかったと言えよう。向井はおせいとの間に入った罅のすきま風に耐えられなかったのであろうか。罅を埋めようと富岡〈夫妻〉を招き入れたことで、かえって罅割れを大きくしてしまったわけだが、これもまた向井の言葉で言えば〈めぐりあい〉ということになる。
 ゆき子は富岡に速達で呼び出されて、その日のうちに伊香保へ来たわけだが、その一週間ばかりのあいだ、ジョオがゆき子をどのように思って池袋の小舎を訪ねていたか、などということに作者はいっさい触れることはなかった。ゆき子がジョオと関係を持ったその日から、実はゆき子と富岡の間には埋めることのできない淵が横たわったはずだが、林芙美子はゆき子とジョオの関係性の発展よりは、ゆき子と富岡の相も変わらぬ腐れ縁の続行を選んだ。