清水正の『浮雲』放浪記(連載79)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載79)
平成△年11月23日
 ゆき子は思い切って、かったるい軀を押して、富岡の新住所へ尋ねて行ってみた。思いのほかの大きな石門のある家で、昔は自動車でも持っていたのか、石門のそばにガレーヂがあった。(312〈三十八〉)

 実にあっさりと書いてあるため、この時のゆき子の内心の葛藤が生々しく伝わってこない。最初に富岡の家を尋ねて行った時には、富岡の実母が出てきて、妻の邦子と顔を会わせることはなかったが、今度はいきなり邦子が出てくる可能性もある。富岡の子供を妊娠したゆき子は、もはや邦子の存在に重きを置いていなかったにしても、好んで顔を会わせたい存在ではない。ゆき子は富岡にアプローチする時も、妻のいる富岡を尋ねる時も、相手の立場を配慮して遠慮する女ではない。一度、踏み入れた道を引き返す気などさらさらない。行けるところまで捨て身で突き進んでいく女である。ゆき子は「思いきって」富岡の新住所を尋ねていこうと決意した時点で迷いはない。矢でも鉄砲でも持ってこいといった開き直りに似た心境である。

 門をはいってベルを押すと思いがけなくあっぱっぱ姿のおせいが扉を開けて出て来た。ゆき子は、一瞬ぎょっとして息をのんだ。おせいも驚いたと見えて、赧くなって「まア!」と声を挙げた。(312〈三十八〉)

 ゆき子のベルを押す手に躊躇はない。覚悟はできている。ゆき子が想定していたのは富岡の妻邦子であったはずである。ところが扉を開けて姿を見せたのは、思いもよらなかったおせいであった。予期せぬ出来事に、ゆき子もおせいも驚きの表情を隠せない。
 林芙美子はゆき子と邦子の関係を深めていくつもりはない。伊香保で偶然に出会ったおせいと富岡を関係させることで、邦子は背景の闇へと押しやられてしまった。しかし、おせいは富岡とゆき子の関係に深く立ち入ってくる性格を備えてはいなかった。おせいはゆき子の鏡像の域を超える存在ではない。おせいがゆき子に代わって富岡の女になりおおせても、彼らの関係は富岡とゆき子の関係をなぞるだけの次元を脱することはできなかったであろう。おせいがゆき子に勝っているのは若い肉体だけであり、これだけではゆき子に代わってヒロインの役割を果たすことはできない。しかし、この時点の林芙美子にはおせいをそれなりに膨らませていく気はあったのだろう。おせいがゆき子にとって替われば、語りの視点はゆき子よりはるかに多く富岡に向けられることになったであろう。しかし、この小説は最初からゆき子の存在に重きが置かれており、ゆき子およびゆき子に身を重ねた作者の視点から見た富岡はよく描かれているが、ニウや邦子から見た富岡はあまりにもあっさりとして確固たる像を結んでいるとは言えない。やはり、おせいもまたニウや邦子の次元を越えた存在となることは困難であろうな、という予感は否めない。