清水正の『浮雲』放浪記(連載83)


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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載83)

平成△年12月22日

富岡は臆面もなく「君ならばすべてを判って貰えると思うンだ」と言う。富岡のようなダンディな男に惚れるゆき子のような女にとっては、こういった歯の浮くようなセリフが殺し文句となる。「すべてを判って貰える」とは甘えん坊ないたずら坊主が゜母親に向かって言うセリフの域を一歩も出ていない。当事者以外の者から見れば、富岡のセリフは軽兆浮薄なプレイボーイのそれとしか思えないが、富岡との〈過去〉を美しく幻想的な絵に描き変えて、現実をきちんと見据えようとしないゆき子の胸には切なく甘い言葉として響いてくるのである。惚れてしまった女はここまで愚かになれるのかという一つのいい見本である。別れを決断した女は、捨てた男を振り返ったり、一緒に喫茶店に入ったりはしない。ゆき子は富岡の顔を見れば立ち止まってしまう女であり、声をかけられればその声に反応してしまう女である。
 ゆき子が富岡ときっぱり別れるためには、性愛の次元においても富岡以上に魅力のある男と出会わなければならない。ジョオは大陸的な豊穣さを備えた男であったが、ゆき子が全面的に寄りかかるには若すぎたし、また彼は二ヶ月後には帰国することになっていた。さらに林芙美子の叙述の隠喩性を配慮すれば、ジョオの〈長い足〉はゆき子の〈炬燵〉にすっぽりと入らなかった。もし、ゆき子とジョオの肉体上の関係性が富岡とのそれを上回っていれば、ゆき子のような女はあんがいあっさりとジョオの後を追って日本を脱したかもしれない。
 『浮雲』を執拗に舐めるように読み進めてきた者からすれば、ゆき子とジョオの別れ方は説得力に欠ける。ゆき子がジョオと関係を結んだ、その時に富岡との別離は確定されていた。ゆき子は富岡との〈過去〉をジョオとの出会いによって清算し、新たな人生のスタートラインに立ったはずであった。が、ゆき子とジョオの関係をなしくずしにしたのは、ゆき子でもなく、ジョオでもなく、はたまた富岡ですらなく、作者林芙美子自身にほかならない。
 作者にしてみれば、ゆき子とジョオの関係性を重視すれば、富岡の存在を消すほかはなかったし、ゆき子と富岡の〈腐れ縁〉を続行するためにはジョオを作品世界から退却させざるを得なかったというわけである。
 前にも触れたように、林芙美子は男と女の三角関係の場面(修羅場)を、当事者三人を同時に登場させて、生々しく描くことはなかった。ドストエフスキーのように、関係者全員を同一舞台にあげて、侃々諤々、グロテスクなカーニバル空間に仕立てあげるようなことはしなかった。

平成△年12月23日
 ゆき子は「伊香保では、やっぱり、おせいさんと、わけがあったのね」と切り出す。わけがあってもなくても、今現在、富岡はおせいの部屋を〈足溜り〉に使っているのだから、こんなセリフは野暮の骨頂の上を行くセリフである。が、分かりきったことを当の相手の口からはっきりと聞き出したいというのが愚かな女の、努力では脱することのできない未練心である。先に、富岡とおせいが結ばれる〈わけ〉は十分に検証した。この確固たる〈わけ〉に横槍を入れてなし崩しにかかったのは、作者をおいてほかにはいない。作者林芙美子はゆき子とジョオの関係と同様に、おせいと富岡の関係を深め発展させることを回避した。
 この小説はゆき子の性愛遍歴でもなければ富岡のそれでもない。あくまでもゆき子と富岡の性愛関係を中心に据えて、男と女のドラマに執着し、そのことによって浮彫りになる人間存在の限りない深奥を描ききることが狙いであったように思う。富岡のような男に女遍歴をさせないためにもゆき子は富岡に執着し続けなければならない。富岡にとってゆき子は、ほんの少し関わって通り過ぎていく女たちの一人であってはならなかった。富岡のうちに、ゆき子を〈永遠の女〉として刻印すること、そんな思いに作者は取り憑かれたのではないかとさえ思う。
 小説的必然性をねじ曲げてまで、富岡とゆき子の〈腐れ縁〉を描き続けた作者の思いに、批評もまた思いをのせる。富岡とゆき子の〈腐れ縁〉に愛想を尽かさない思いが批評の側にもなければ、批評は撤退せざるを得ないだろう。批評はどこまでも追う、そのことによってゆき子を、富岡を、そして作者をも覆い包むのである。
 作者は「富岡は黙っていた」と書いている。問われたらどんなことでも答えなければならないと思っていた時期がある。問われても、黙っている者の狡さ、卑怯をまざまざと感じたのはそんな遠い過去のことではない。黙っている者の保身、狡猾、図々しさがある。面倒なことは、そんな沈黙に誠実さも含まれているということだ。富岡の場合、彼を卑劣漢呼ばわりすることは誰にでもできるが、ただ一人、彼に執着し続けたゆき子だけは富岡の〈誠実〉を体感していたと言えようか。
 絶対に答えられない問い詰めがある。富岡はゆき子に言ってはいけない言葉、それを口にすれば決定的な破綻を生じさせるようなセリフは言わない。富岡はおせいとの関係の真実をゆき子にさらけ出すつもりはない。富岡がゆき子の前で口にするおせいに関することのすべては、口に出してもゆき子を傷つけない類のことである。卑怯な男には卑怯な男なりの優しさがあり、その卑怯な男を拒みきれない女にとっては、その言葉が唯一の慰めになったりもする。富岡は沈黙することで、弁解の余地のない問い詰めに対応する。富岡が酒を飲み、煙草をふかし、本を読むそのダンディな姿に一目惚れしたゆき子であったことを忘れてはならない。ゆき子にとって加野の沈黙はダサイが、富岡の沈黙は母性愛をくすぐる魅惑的なものともなるのである。

浮雲』全編を通して、富岡の男としてのくだらなさを完膚なきまでにさらけ出す役割を負った人物は登場してこない。『浮雲』には『罪と罰』における批評家としての役割を背負ったポルフィーリイ予審判事のような人物が登場しないことによって、富岡はみずからの実存をぬるま湯につけ続けてふやけきっているとも言えよう。否、〈浮雲〉のような実存に、いかなる批評的言辞もその魂の芯部を射抜くことはできない。富岡は現実の世界を流れている。女の間を流れている。誰も富岡の実存の流れをせき止めることはできない。この余りにも空虚な存在は、自らの空虚を確固たる実体として掴むことができない。