清水正の『浮雲』放浪記(連載116)

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http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp 『ドラえもん』とつげ義春の『チーコ』
https://youtu.be/s1FZuQ_1-v4 畑中純の魅力

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デヴィ夫人のブログで取り上げられています。ぜひご覧ください。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-12055568875.html

清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。



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 清水正の『浮雲』放浪記(連載116)
平成□年8月5日

 品川の警察で逢った時、清吉は、どこで暮すのも同じですよ。死刑か、無期かだとすれば、刑のきまるのは早いほうがいい。ゆっくり、獄舎でおせいの仏をなぐさめてやるつもりだと、清吉が言った。そして、弁護士を頼む必要もないと断っていた。
  富岡は、清吉に言われてみて、なるほど、人間は、どこへ住みつくのも同じことだと思った。いまさら、海外へ出ることを夢想してみたところで、昔ながらの生活が、自分の前に再び現われるとは考えられない。このような世の中になってしまった以上、昔の夢や幻は、早く切り捨てたほうがよいのである。
  加野も、とうとう、胸を悪くして死んでしまった様子だ。みな、行きつく終点へ向って、人間はぐんぐん押しまくられている。富岡は、だが、不幸な終点に急ぐことだけは厭だった。心を失った以上は、なるべく、気楽な世渡りをしてゆくより道はないと悟った。
  ゆき子には逢いたくはなかった。
  五千円の金を工面して送ったが、それは、子供をこの世から消してくれた、ささやかな祝いの餞別でもあった。心の底から、子供をほしいとは思わなかったのだ。(328〈四十二〉)

 不思議に思うのは、富岡と清吉の関係である。この叙述場面を読むかぎり、富岡と清吉の間に埋めることのできない溝を感じることはない。もとはと言えば、富岡がおせいにちょっかいをかけたことで二人はいい仲になったのである。どんなに寛容な男でも、自分の妻を奪った富岡に対して、こんな悟りすましたような態度を示せるのであろうか。前にも書いたように、〈清吉によるおせい殺し〉という設定そのものに説得力がなく、ましてや富岡のような卑怯な男が清吉に誠意を示して対応しているのもおかしな話である。リアリズムの小説に中途半端な〈フィクション〉を挿入すると、その小説自体を破壊させかねない。
 富岡は「いまさら、海外へ出ることを夢想してみたところで、昔ながらの生活が、自分の前に再び現われるとは考えられない。このような世の中になってしまった以上、昔の夢や幻は、早く切り捨てたほうがよいのである」と思う。ところで、ダラットに派遣されていた当時の富岡に〈夢や幻〉があったのだろうか。敗戦を予測していた富岡はニウやゆき子との愛慾に溺れることはあっても、発展的な〈夢や幻〉を抱くことはなかった。富岡のような保守的で狡猾な男が生活を保証する農林省を辞めるのも不自然だし、要するに日本へ引き揚げて来てからの富岡には小説設定上のリアリテイがない。
 日本へ戻って来た富岡とゆき子は別れる必然性を全うすべきであったと思うのだが、作者によって強引に関係(腐れ縁)を維持されてしまう。作者は富岡とゆき子の〈腐れ縁〉の虚構性をはっきりと認識していただろうが、にも関わらず幕を下ろすことはなかった。わたしなどは、まさにこの点にこそこだわる。小説構成上の必然性に反してまで、林芙美子は富岡とゆき子の〈関係〉に執着した。その終着が目指していたもの、それを見なければならない。