清水正の『浮雲』放浪記(連載29)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載29)
平成△年6月25日
 中心にあるとすれば底なしの虚無であり、この虚無世界に戯れるだけの強靱な精神力がなければ、足場のない虚空におぼれているよりほかはない。彼ら二人の抱えた虚無は肉の繋がりによって生ずる生々しい湿気に覆われて、透明度の高い精神性を獲得することができない。彼ら二人の関係には、微塵のさわやかさもない。じめじめ、ぐちょぐちょの果てしない泥道を、彼ら二人はすべったりころがったり、這いつくばったりしながら歩いていくほかはないようである。富岡もゆき子もこの泥道を自虐的に愛してしまっているように見える。彼らは二人ともに、高く飛翔し、跳躍する堅い地盤の上に立とうとはしない。また、泥道から一人はずれるような言動を示すが、それは一時のポーズの域を脱することができない。
 富岡はゆき子を捨てておせいと駆け落ちすることができず、ゆき子は自分を裏切った富岡に愛想を尽かすこともできない。彼らは裏切り者としては関係を持った当初から共犯者であるから、相手を裏切り者と糾弾することもできない。女は妻のある男と関係して、その男を妻を裏切った男と見なすが、自分はその男の裏切りに加担した張本人であったことを失念しがちである。
 男と女のドラマに倫理や道徳の定規を当てて裁断することほど滑稽なことはなく、その滑稽を演じる者は悉く自らの敗北を認めざるを得ない。ゆき子は富岡の妻邦子に関しては敗北の屈辱を感じたことはないが、今、おせいに対しては臍を噛む悔しさを感じている。ゆき子は女の本能で、富岡の心がおせいに向いているのを疑っていない。富岡は自分の感情に素直であるが、今、傍らにいるゆき子をむげに拒むこともしない。ゆき子はこんな富岡を「あなたって、大変な方なンだから」と言っている。この抽象的な言葉〈大変な方〉は、しかしゆき子にとっては体験に裏打ちされた生々しい言葉として発せられている。富岡は嘘つきであるが、嘘をつかずにはおれない優しさに似た誠実さもあり、一筋縄ではいかないところもある。
 家に戻ると向井清吉は寝入っており、おせいの姿は見えない。向井は暢気な父さんぶりを存分に発揮して、富岡とおせい、富岡とゆき子の男と女のドラマに参入することができない。向井が富岡とおせいの関係などすべて見抜いたうえで狸寝入りするような男であれば、この小説はなお一層、深みのある面白い小説となったであろうが、林芙美子の作家としての眼差しは、あくまでも富岡とゆき子に的を絞って、他の人物を執拗に追うことはなかった。