清水正の『浮雲』放浪記(連載117)

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https://youtu.be/KqOcdfu3ldI ドストエフスキーの『罪と罰
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp 『ドラえもん』とつげ義春の『チーコ』
https://youtu.be/s1FZuQ_1-v4 畑中純の魅力

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デヴィ夫人のブログで取り上げられています。ぜひご覧ください。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-12055568875.html

清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。



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 清水正の『浮雲』放浪記(連載117)
平成○年12月24日

 人間にとって〈行きつく終点〉とは死である。すべての人間は〈死〉を免れることはできない。作者は「富岡は、だが、不幸な終点に急ぐことだけは厭だった」と書いている。これを素直に受け止めれば、富岡は病死や自殺を望んでいなかったということになる。伊香保でゆき子との心中まで考えた富岡は、今やいかなる〈不幸な終点〉をも回避しようとしている。作者はさらに「心を失った以上は、なるべく、気楽な世渡りをしてゆくより道はないと悟った」と書く。〈気楽な世渡り〉とは生温き人間の典型的な処世であり、俗な言い方をすればろくでなしの処世ということになる。
 もともと富岡兼吾という男に、俗に言う〈男らしさ〉は微塵も感じられなかったのだが、ここにきて作者自身が富岡の醜悪な裸体を容赦なく晒けだしている。富岡は自分の心に忠実でありさえすればいい。今更、見栄や虚勢を張ったところで何の足しにもならない。何度も指摘しているように、清吉によるおせい殺しや、富岡が清吉を獄舎に訪ねて世話をやくなどという設定は、小説的必然性からそれている。清吉は、若いおせいに逃げられても、なんにもできずに伊香保にとどまって自らの運命を嘆いているようなうらぶれた男のままにしておいた方がはるかにリアリティがあるし、たとえ清吉がおせいを殺したにせよ、清吉などに頓着しない富岡のほうが富岡らしいのである。

 作者の設定に異議を差し挟むときりがないので、描かれた小説世界に戻って批評を続けることにする。改めて問おう、心を失った富岡の〈気楽な世渡り〉とはどういうものか、と。作者は改行した一行で「ゆき子には逢いたくはなかった」と書いた。この一行は富岡がゆき子より半年はやく日本に引き揚げてきたその日から、ずっと思い続けてきたことである。富岡にしてみれば、ゆき子との関係はダラットで幕を下ろしていた。日本で第二幕を開けようなどという気持ちはさらさらなかった。ゆき子から電報が来ても返事を出さなかったことがその有力な証である。ふつうの女なら、相手の男や、相手の男の家族のことを思って身を引くところである。ところがゆき子はまったく違っていた。ゆき子は落語を解する粋な〈江戸ッ子〉じゃなく、静岡の田舎から出てきた女である。別れたがっている男に未練たっぷりにしがみつき、執拗に追いかけ回す女である。富岡はゆき子から逃げきれずに、不本意な関係をずるずると続けていたに過ぎない。
 富岡はゆき子から逃げきれないというより、作者の設定枠から逃げきれないと言ったほうが的確である。富岡はゆき子に呪われている。作者はゆき子の呪縛力をゆるめ、富岡を解放してあげようという気はさらさらない。作者は邦子やおせいにゆき子を超える力を与えようとはしなかった。換言すれば、邦子やおせいは作者のうちでゆき子を超えるものとして成長することができなかった。富岡という心を失ったろくでなしと徹底して関わることのできる女はゆき子しかいなかった。ゆき子だけが富岡の〈気楽な世渡り〉を許さないただ一人の女だったということである。
 作者は富岡の心の底に降りて、彼の内心の言葉をすくい上げるーー「五千円の金を工面して送ったが、それは、子供をこの世から消してくれた、ささやかな祝いの餞別でもあった。心の底から、子供をほしいとは思わなかったのだ」と。しかし、この言葉の真実はすでに読者には了解ずみであり、今更という感もぬぐい得ない。ゆき子に妊娠を告げられて富岡は「僕は、いままでに、一人も子供がないンで、どうしても産んでほしいと思うンだ」と言っていた。この言葉は軽すぎて、どうしようもない。富岡はどうしようもない男だが、こういう言葉は安易に吐かない男のイメージがあったのだが、裏切られた思いであった。この思いは同時に作者にも向けられたことは言うまでもない。わたしは今まで、こんな口先だけの男に直に出会ったことがない。否、こう書いた後で気づいたが、今日の政治家などは平気で出来ないことを公約してはばからない。しかし富岡は政治家ではない。一人のろくでもない人間である。だから、そのろくでもない人間にしか発することのできない言葉がある。小説家はその言葉を描かなくてはいけないだろう。富岡兼吾は今日の政治家なみの薄っぺらな言葉を発してはならないのだ。こう書いた後で、しかしつくづく思うのだが、世の中にはできもしないことを、平気で口にする男がおり、よりによってそんな男に惚れてしまう女がいる。それもまた揺るがすことの出来ない事実ではある。