清水正の『浮雲』放浪記(連載36)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載36)


平成△年7月5日
 富岡はゆき子によれば〈酒に淫する方〉であり、〈自分のことばかり可愛い〉〈怖いひと〉ということになる。ゆき子の富岡に対する認識を富岡は否定しない。人間はみな多かれ少なかれエゴイストだし、この人間認識に立脚すれば、自己犠牲的な行為もまた変種のエゴイズムの発揮ということになる。自己犠牲が彼にとっては一種の快楽となっているのであろう。富岡はダラットで三日に一度は妻の邦子に手紙を書いていた〈愛妻家〉であったが、そのことと安南人の女中ニウを愛人としていたことは、彼の中ではなんら矛盾した行為ではなかった。ゆき子は富岡に妻も愛人もあることを知っていて接近したのであるから、二人は間違いなく同じ穴の狢である。ゆき子と心中しようとしておせいと関係する富岡と、富岡のことが忘れられずにいるのにジョオと関係したゆき子は、根本的になんら違うところはない。邦子やニウと張り合って、富岡を自分だけのものにしようとするゆき子は、要するに富岡と同じく「自分の事ばかり可愛い」人間ということになる。ゆき子はただの一度として妻の邦子のことを思って身をひこうとしたことはない。