清水正の『浮雲』放浪記(連載47)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載47)
平成△年8月1日
 林芙美子は富岡と邦子の生活する場にカメラを持ち込むことがない。富岡がどのような顔で、どんな言い訳をして家に入っていくのか、邦子はどんな気持ちで一週間以上も家をあけた夫を迎え入れるのか。富岡の久しぶりの帰宅場面を具体的に描け出せば、もうそれだけで相当の原稿枚数を必要としたであろう。さらに、向井清吉がとつぜん現れたとなれば、富岡も邦子も驚きを隠せなかったであろう。向井もまったくの馬鹿ではないから、すぐに事情を察して言うべきでないことは口に出さなかったであろうが、しかし富岡が伊香保の旅館に宿泊していたことぐらいはわかってしまったであろうから、富岡と邦子の間にさらなるぎくしゃくが生じたことは用意に想像できる。いったい三人でどんな話を展開したのか、『浮雲』の読者なら誰でも興味を持つ場面だが、作者は向井の報告というかたちであっさりと片づけている。
 作者が、富岡と邦子の濡れ場のひとつでも詳細に描いてくれれば、邦子も女としての、妻としての肖像をくっきりと浮かび上がらせることになったであろうが、邦子はこの小説においてまるでおとなしい影絵のようにしか描かれなかった。読者の興味は、邦子だけでなく、富岡を追って東京へと出奔したおせいにも向けられているはずだが、このことに関しても作者はカメラマンを派遣して取材させることをしない。邦子、おせいは闇のなかに隠れて、その姿を現さない。富岡の〈再生〉に関して重要な役割を負わされたおせいは、今後どこかでその姿を現さなければならない。さて、おせいをどのように再登場させるか。もし、作者が本気で富岡の〈再生〉を考えれば、おせいの存在は、大げさではなくソーニャ以上の存在として描かなければならない。そのことが可能であるかどうかである。
 わたしは今ふと、小説家の強引さについて考えた。『罪と罰』を最初に読んだ時から、わたしはロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフの〈踏み越え〉、すなわち〈老婆アリョーナ殺し〉から〈復活の曙光に輝く〉場面まで、あんなにリアリティのある描かれ方がされているにもかかわらず、わたしにはどこかしら嘘っぽく感じられて仕方がないのである。ロジオンのような自意識過剰の青年が、〈踏み越え〉の空想に耽ることはあっても、実際に行動に移せるわけがない、というのがわたしの自意識過剰が冷静に判断したことであり、この判断は還暦を過ぎた今日においても基本的には同じである。
 ロジオンはまさに〈悪魔〉に唆されたのであり、この〈悪魔〉は深く〈神〉とも密通している。どうやらロジオンにとり憑いた〈神〉は彼に第一の〈踏み越え〉(老婆アリョーナ殺し)をさせることで最終的な〈踏み越え〉(復活)を成就させたかったらしい。わたしの批評の判断はいつまでたってもここに落ち着く。わたしにとって文字通りリアリティのあるロジオンとは、『罪と罰』一巻の〈真夏の夜の夢〉を見終わって、再び狭苦しい屋根裏部屋のソファーの上で覚醒するロジオンである。相も変わらぬ屋根裏部屋、それがロジオンにおける世界の隠喩である。
 〈殺人〉から〈復活〉に至る物語をドストエフスキーは見事につくりあげたが、『罪と罰』一巻を読み終えたわたしの世界は〈屋根裏部屋〉であり続けた。わたしはこの部屋でドストエフスキー論を四十年以上書き続けている。多少、文章はこなれてきたかもしれないが、別にそんなことは自慢の種にもならない。
 わたしがここで言いたいことは、主人公ロジオンの〈踏み越え〉が、作者ドストエフスキーの強引に思えるということだ。もちろんドストエフスキーを非難しているのではない。こういった強引な設定をしなければ『罪と罰』のような大小説は書けないだろうとも思う。何度『罪と罰』を読んでも、気がつくと作品世界のなかにのめり込んでいる。が、にもかかわらずわたしには、殺人を犯さない、復活の曙光に輝くことのない〈一人の青年〉(один молодой человек)にこそリアリティを感じるということである。
 わたしは二人の女を斧で叩き殺しておきながら、最後の最後まで〈罪〉(грех)の意識に襲われず、ソーニャの前にひれ伏した時には「僕はおまえの前にひざまずいているのではない。ぼくは人類のすべての苦悩の前にひざまずいているんだ」などと臆面もなく口にする〈卑劣漢〉(подлец)よりは、自殺もしない、復活の曙光にも輝くことのない、嘘つきで、狡くて、酒好きで、女好きな卑劣漢であり続けた富岡兼吾にこそリアリティを感じる。
 林芙美子は『浮雲』を執筆するにあたって、用意周到に創作ノートを作ったとは思えない。富岡の〈再生〉の問題に関しても、富岡が伊香保でゆき子と心中しようとして、そのことを断念、バー・ボルネオでおせいと関係を結んだあたりからそれなりに具体的にイメージされたかもしれないが、どこまではっきりと自覚されていたかは疑問である。もし、作者が具体的に明晰に認識していれば、おせいの存在はこの小説で描かれた人物像をはるかに超えたものとなっていたであろう。
 が、富岡兼吾はロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフとは違う。富岡はおそらく『罪と罰』を読んでいたであろうが、ただの一度も「俺にアレができるだろうか」などと考えはしなかった。『罪と罰』においても、ドストエフスキーは具体的にはっきりと書きはしなかったが、ロジオンは〈神〉か〈革命〉かで悩んでいた青年であった。社会の根元的な悪をがめつい高利貸しの老婆アリョーナ一人に負わせるわけにはいかない。根元的な悪は〈皇帝〉にこそあると考えていたのが当時の急進的な青年の常識であり、ロジオンがこういった革命思想の洗礼を受けていなかったと見るほうがかえって不自然である。
 結果として額に悪魔の刻印(666)を押されていた、十九世紀ロシアの首都ペテルブルクを生きていた〈一人の青年〉ロジオンは〈神〉の方へと強引に歩かされて行き、流刑地シベリアで、とつぜん或るなにものかにひっつかまれて大地へとたたきつけられてしまった。そこには、わたしの説によれば実体感のある〈幻〉(видение)ソーニャが顕れており、めでたく復活の曙光に輝いたということで小説は幕を下ろしている。
 林芙美子の描いた、戦中戦後を生きた日本の〈一人の中年男〉富岡兼吾には、そもそものはじめから目指すべき〈神〉も〈革命〉もなかった。富岡はひたすら流れゆく〈浮雲〉のごとき存在として、しかし広々とした大空を風に悠々と流されるようにではなく、せちがらい敗戦後のゴミ溜のような現実世界をくだくだよろよろと吹き流されていた。
 邦子もおそらく、くだくだ、ぐちぐちと富岡に文句を言うような女であろうから、久しぶりに家に帰った富岡と邦子の会話場面を丁寧に描けば、富岡のやりきれなさやどうしようもなさが、ゆき子の場合以上に真に迫ったものになったであろう。富岡は仕事で伊香保に一週間もいたのだと平気で嘘をつき続けたのであろうか。邦子はすでにゆき子の存在を知っており、富岡が仕事だけを理由にして邦子を納得させることはできなかったであろう。そんな気まずい関係のさなかに向井清吉がやってきて、若い妻が家出したと言って富岡を訪ねてきたのであるから、富岡と邦子の関係はますますぎくしゃくしたものになっただろう。
 このぎくしゃくした場面を具体的に描こうとすれば、やはり相当の原稿枚数を必要とするだろうし、へたをすれば収拾がつかなくなってしまう危険性もある。そんな場合は、あっさりと報告だけですますというやり方を採った方が無難ということになる。報告者はおせいに逃げられたおせいで、この男の〈報告〉は簡単すぎて、富岡と邦子の内心のドラマをなんら伝えるものではない。作者は「ゆき子の立ち場が初めて判ったらしく、少々訓々しいぞんざいで、亭主は暗い小舎のなかへ上り込んで来た」と書いただけで、小舎のなかでゆき子と向井がどんな話をしたかについてはいっさい触れない。伊香保でも、ゆき子と向井は酒を飲みながらいろいろな話をしたとは書かれても、その内容に関しては何ら具体的に描かれることはなかった。描かれた限りで見れば、ゆき子の〈立ち場〉が判ったぐらいで〈訓々しいぞんざいさ〉を見せる向井は俗物の典型ということになる。
 伊香保での向井はひとのいい顔を見せていたが、ひとがよくて訓々しい男ほど嫌がられることもない。『放浪記』でも、ひとのいい男が登場して、金に困っている芙美子を援助するが、芙美子は優しいだけの男には何の魅力も感じなかった。芙美子が惹かれた男たちは、結婚の約束を反故にするような男だったり、虚栄心の強い甘ったれた売れない詩人だったり、要するに富岡兼吾に代表されるような男であった。ゆき子の好みの男は、作者林芙美子のそれを色濃く反映している。