清水正の『浮雲』放浪記(連載45)

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 清水正の『浮雲』放浪記(連載45)
平成△年7月30日
ロジオンは人間なんてものはみんな〈卑劣漢〉(подлец)だと考えるが、そう考えた直後、もし自分の考えが間違いであったら、つまり人間は卑劣漢でないとしたらどうだろうか、とも考える。
ロジオンのこの思いは非常に重要で、ドストエフスキー文学の謎を解く一つの鍵であるとも言える。『罪と罰』ではただ一人、ソーニャだけが卑劣漢ではない女性として描かれている。ソーニャは一家の窮状を助けるために処女を銀貨三十ルーブリで閣下イヴァンに身売りせざるを得なかった。以後、ソーニャは黄色い鑑札を受けて売春婦としてマルメラードフ一家の経済的な支えとなった。
マルメラードフは閣下イヴァンに実の娘の処女を捧げたことで、再就職のチャンスを与えられた。だが、マルメラードフの勤務は一ヶ月しか持たなかった。彼は給料を持ち帰ったその日の夜、金庫から金を盗み出して酒びたりになる。素寒貧になったマルメラードフは、ソーニャのところへ行って酒代をせびる。ソーニャはなけなしの金、二十カペイカを黙って渡す。その金で酒を飲んでいるのだと、彼は地下の酒場に入って来たでロジオンに話す。『罪と罰』の読者なら一度読んだら絶対に忘れることのできない場面である。
マルメラードフはロジオンに向かって「あなたは、私のことを豚でないと断言できる勇気があるか」と訊く。ロジオンは何とも返事をしていないが、このマルメラードフのセリフはきわめて重要である。実の娘を淫湯漢として知れ渡っていた閣下イヴァンに身売りさせ、娼婦となった娘のところに酒代をせびりに行くようなマルメラードフは、誰がみたってどうしようもない卑劣漢である。〈豚〉(свинья)とは箸にも棒にもかからない、どうしようもないロクデナシの象徴であり、ユダヤキリスト教の文脈で豚呼ばわりされたら最大の侮辱を意味する。
ところで問題は、なぜマルメラードフは、こんな答えの分かりきった問いを、敢えてロジオンに向かって発したかである。ロジオンの人間認識からすれば、マルメラードフもまたすべての人間と同様に〈卑劣漢〉(подлец)であり、とうぜん「あなたは豚ではない」などと断言できる勇気は持ち合わせていないことになる。
マルメラードフはこの世にただ一人、彼を「豚でない」と断言できるひとを知っている。そのひととは酒代をせびりに来たマルメラードフにただ黙ってなけなしの金を与えた実の娘ソーニャである。小説のなかで、ソーニャは父親に向かって「あなたは豚ではない」などと口に出して言っているわけではない。しかし口に出して言っていないソーニャの言葉が聞こえてこないようでは『罪と罰』を読んだことにはならない。
ソーニャは、みんなが〈卑劣漢〉だ〈豚〉だと口を揃えて非難し罵倒するマルメラードフが、誰よりも苦しみ悲しんでいることを知っている。マルメラードフは閣下に娘を身売りさせ、再び官吏職についた、そのこと自体に堪えることができなかった。一ヶ月が限度だったのである。マルメラードフは自分で言っているように、酒瓶の底に苦しみと悲しみを求めているのであって、決して快楽を求めているのではない。
 ソーニャは人間だろうか。人間として設定されているだけで、ソーニャには〈キリストの化身〉の如き象徴性が賦与されているように思えて仕方がない。ソーニャが人間なら、不満も憤りもあるだろう。ドストエフスキーはソーニャから生々しい人間の叫び、十八歳の少女にふさわしい内心の声を奪い取ってしまっている。ソーニャを娼婦として設定しておきながら、ただ一人の客も登場させない、そんなことがリアリズム小説において許されるのだろうか。ソーニャが、八年の刑期を宣告されたロジオンを追ってシベリアに就くという設定もあまりにも安易な設定のような気がする。現実を生きる娼婦ソーニャの運命は過酷であり悲惨である。病気にかかって早死にすることは眼に見えている。十歳になったばかりのポーレンカの運命はソーニャ以上に悲惨であるかもしれない。彼女たちの〈運命〉を変えたのは、スヴィドリガイロフの気紛れの善意によってであるが、この男も〈現実に奇蹟を起こす人〉(чудотволец)という予め設定された役割を果たしているだけのようにも感じてしまう。
 描かれた限りで見れば、マルメラードフに向かって「あなたは豚ではない」と断言できる勇気を持ったひとは一人もいなかったが、ソーニャの内心に限りなく寄り添っていけば、彼女一人だけはそのように断言できる勇気を持っていたと見ることができる。
さて、富岡兼吾であるが、彼に向かって「あなたは卑劣漢ではない」と断言できる勇気を持ったひとはいるだろうか。邦子もニウも、そしてゆき子ですら富岡を「卑劣漢ではない」と断言することはできないだろう。富岡は明らかに卑劣漢である。ゆき子はこの〈卑劣漢〉に惹かれたのであり、性愛的な次元でこの〈卑劣漢〉との関係の綱を断ち切れなかったのである。
要するに、男と女の間においては、〈卑劣漢〉であることは相手を拒む理由にはならない。品行方正で誠実で嘘ひとつつけないような男は、女にとってたいして魅力的ではないのである。少なくても『浮雲』に登場する女たちはそうである。妻の邦子は人妻であったのに富岡に奪われた女である。安南人の女中ニウは富岡に妻があることを知っていて肉体関係を結んでいるし、ゆき子に至っては富岡に妻も愛人もあることを知っていて、なお積極的にアプローチし続けた女である。ゆき子やおせいにとって、加野や向井清吉のような男は、安全パイ的な存在ではあっても、女心を疼かせるような性愛的次元で魅力のある男ではないのである。
 ソーニャは最初の男イヴァンと関係して以来、娼婦となって何人の男と交わったのか。ソーニャは肉体次元での描写が皆無であり、こういう人物を人間と見なして批評することにはそもそも無理があるように思える。ソーニャは一人の女としての声をいっさい発していない。肉体なき聖なる存在がソーニャであり、まさに彼女は『罪と罰』の世界に初めから〈実体感のある幻〉(видение)として登場していたのかもしれない。『浮雲』に登場する女たちはすべて肉体を備えた女であり、どんな場面においても女である。食欲も性欲もあり、嫉妬も憎悪も悲しみも喜びもある。希望も絶望も執着も諦めもある。ソーニャも人間なら、こういったすべての感情を持っていたであろう。作者がソーニャの内心に降りて具体的に詳細に描かなかっただけである。
 林芙美子は「七草の日には、ゆき子は、伊庭の家には行かなかった」と書いた。伊庭の置手紙に「一度郷里に戻って来い」「鷺の宮には、七草の日に、伊庭一家が集る事になっているから、その日はぜひ泊りがけで来てくれるように」と書いてあったことの返答である。作者はゆき子の郷里についてはいっさい書く気はないらしい。伊庭一家が集るということは、伊庭の妻の奈津子はもとより、ゆき子の姉も来るということである。ゆき子を伊庭一家のなかにおいて描くとなれば、『浮雲』はさらなる量を必要とする。
 先に指摘したように、『浮雲』はあくまでも富岡とゆき子を中心とした小説で、そのことで緊張を保持しているから、ゆき子を様々な場面において描くことは避けたいという意識が、作者のなかに不断に作用していたのであろう。読者は富岡家の人々、富岡が材木商売で関わった人たち、ニウの家族、おせいの家族、そしてゆき子の家族に関してほとんど何も報告されない。そのことで読者の眼差しはいつも富岡とゆき子の関係に注がれることになる。唯一の例外が、ゆき子が加野の家を訪れる場面と言っていい。